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Hypersomnia〜幻想と現実の旅人〜  作者: 七瀬渚
★アパレル世界★
46/57

十の夢

翌日もまた出勤だった。また早番。十分な休息など取れておらずだるく重苦しいままの身体。やっぱり…と私は回想してみる。



いつ終わるかもわからない争いに付き合ったりしたからだろうか、それとも…



一つの可能性の後、浮かびかけたもう一つの可能性。蘇ってくる感覚が凄まじくたまらない熱まで連れてきて。



……っ!



突き上げる重低音以上に強く、突き上げる記憶に私は思わず口を押さえてしまう。まだ誰もいない店内。誰も見ていないのを幸いと感じつつ、赤い顔で声もなく悶絶してしまう。




柏店の人員不足を知り、ちょうどいいと思って異動した…アイツは確かにそう言ってた。真実を知った今、それだっておかしな話だ。うん、おかしい。納得などしないぞ。だって…




ちょうどいいって、何?春日部市民が県境さえまたいだ柏に異動してちょうどいいって何よ?大宮に通勤する方が確実に楽じゃん。一体何のメリットが…



そこまで考えて閃いた私は、あ、と一人で声を漏らす。それから安堵の思いでうんうん、と頷く。



そうだよ、何か目的でもない限りそんな決断する訳がない。きっとアレだ、駅前のストリートミュージシャン!彼らに歌詞提供の売り込みでもする気だったんだ。それならまぁわからんでもない。そうかも知れないというかそうに違いない。



やっと出た結論にもうこれでいいだろうと更に結論付けて私は踵を返した。これ以上考えることはない、今はこの大量の納品をさばくことだけに集中しろ、と言い聞かせながら店内端に積み上がった段ボールの元へ歩いていった。だかしかし。





ーーお前が大切だったから…ーー





だぁぁぁぁあああッッ!!!





リアルに蘇ってきた響きを激しくかぶりを振って掻き消した。やっと段ボールにしがみ付いた私はそのままずるずると力なくしゃがみ込んでいく。そして頭を抱えてしまう。



もう逃れようがない。何度でも何度でも耳元をくすぐる甘い響き。こんなのが自分の身に起きたなんて未だに信じられない。




あの後私はいつかみたいにタカに連れられて帰宅した。驚いた母に迎えられたタカはまたいつかみたいにお茶をご馳走された後、ひっそりと帰ったようだ。春日部に。


何で気付かなかったんだろう。専門のとき、逆方面に去っていく彼が私鉄の構内へ吸い込まれていくところを私は目にしたことがない。あれだけ凄まじい人混みなら無理もないのかも知れないけれど、少しは気にかけたって良かったのではないか?そもそも彼と同じ出身校の植村だってこちらで見かけたことなどただの一度もないではないか。


やっぱり意図的に黙ってたのかな?私に気を遣わせない為なんて余計なことを考えてアイツ…そう思った私の脳裏を次によぎったのは不穏な感覚。



よく考えてみれば、いや、考えなくたって、何という大胆かつ破廉恥なことをやらかしてしまったのだろう。よりによってあんな公衆の面前、駅からだって近いし、ここの従業員の行動範囲内にも十分に入りうるだろうに、と。


うう…と低い呻きが漏れてしまう中、羞恥心以上に実感を増してくるものがあった。遠い夏の日、確かに目にした彼の困惑した顔が浮かんできて胸の奥がズキ、と痛んだ。




こんなのが知れ渡ったら…また、アイツ…





「…おはよう、あーちゃん」



すぐ側からの声に私はびくん、と跳ね上がった。裏口に通じるストックのドアは開いたまま。いつの間にか後ろに立っていた彼女に引きつった笑みを返す。



「おはようございます、星華さん」


「ギリギリになってごめんね。電車遅れてて…」



大丈夫。ギリギリだということさえ今初めて知った。かぶりを振る私に休憩出ていいよ、と言ってくれた星華ちゃん。


ともかく気持ちを切り替えよう。元凶のアイツは今日休みだって言ってたし、ラーメン食えば忘れるだろう、と自分に言い聞かせて荷物を取りに行こうとしていた。




ねぇ、あーちゃん…




ふと、側から声がした。ためらいがちな響きに振り返るとうつむいた星華ちゃんが口を開きかけていた。



「おはよーっ!いやぁ、ヤバかったぁ、電車がさぁ…」



ついさっき得た情報を口にしながらもう一人の中番担当がやってきた。星華ちゃんはそのまま、口をつぐんだ。




休憩から戻った私を迎えたのは店長を含む遅番スタッフともうだいぶさばかれた新規の商品たち。それでもまだ大多数が残っている。今日はお客様もそれなりに入っているから接客が忙しかったんだろう、と察した。


納品だけでなく大量の売価変更もあるという今日は、店長の指示で接客組と作業組の二手に別れることになった。まずはストック分の収納。作業担当になった私と星華ちゃんは段ボールごとストックに運び入れると店に通じるドアを閉めた。二人がかりでも追いつくかどうかという作業量だったが、もはやがっつり集中する覚悟だった。


星華ちゃんは売価変更、私は脚立に登ってストックの整理と収納とを同時進行で進めていた。その差中、私は時折横目で見ていた。


まだ終わりが見えない作業量。いつもならひっきりなしに話しかけては店長に怒られているような星華ちゃん。ここには二人しか居ないのに、やけに静かなのはやはり余裕がない為か、と。



会話の一つもないまま互いに黙々と続けていた、その途中。




あーちゃん…




また、声がした。休憩前に耳にしたものと同じ、か細い声色が。



脚立の上から見下ろす私を星華ちゃんは今度はしっかりと見上げていた。眉を寄せ、困ったような表情の彼女に見入っていたときだった。一つ、問いが投げかけられたのは。






「あーちゃんはやっぱり…千葉さんが好きなの?」







どくん、と奥深くで音がした。止めようもない早さで激しさを増す脈拍と痛み。



何分、いや何時間にも感じられる間、私は言葉の一つも見失ったままだった。



ごめん…小さく呟いて作業を再開させた彼女の動きによってほんの数秒のことだと知った。それでも彼女に確信を持たせるには十分だったということも、また。



「星華さん…っ」



おのずと動き出していた。顔を伏せたまま、表情も伺い知ることが出来ない彼女へ。





違うの、あれは……




………っ!





瞬間、片足が重力を失った。ガシャ!と音を立てて崩れた脚立と倒れた私。あ…と小さな声が側から。




あーちゃんっ!!




星華ちゃんの声と足音が迫ってくる。打ち付けた右半身がビリビリ痺れているけれど頭は打ってない。何、大したことはない、と私は上体を起こす。


「大丈夫です、すみません」


そう言って笑って見せる。今にも泣き出しそうな顔で見ている彼女に精一杯。



大丈夫、大丈夫。頭なら無事だから。悪かったのは、私。あなたが気にすることなんてない。ただ…





足が……





バン、と勢いよくストックのドアが開いた。血相を変えて駆け込んできた店長の表情が私の前で固まった。



「浅葱ちゃん、何処か打ったの!?」


「すみません、頭は打ってないんですが…立てなくて」



しっかり捻ってしまった右足を投げ出した私は気休めばかりの照れ笑いを浮かべるだけ。参ったな…とこぼす店長の後ろからも他のスタッフがこちらにやってきてどやどやと騒ぎ出す。




立てないんだって。



うちにマイカー通勤者なんていないし…



救護室に担架くらいあるんじゃね?



でも帰りは?病院は?




ああ…私は声に出さずに呻いた。みんなが心配してる。こんなどうしようもない失敗のせいで、みんなの作業を止めてしまった、と。


もはや笑っていることさえ出来なくなった私に店長を身をかがめて言ってくれた。



「ご家族に電話するよ。お母さんとか、来れる?」



私ははい、と頷いた。多分大丈夫、と判断して母の携帯番号を教えた。


「私、湿布買ってきます!!」


財布を持った星華ちゃんが高いヒールのまま店側へ駆け出した。急がなくていいよ、まだ時間あるから。そんな格好でダッシュなんかしたら危ないから…そう言いたいのに追いつかない。彼女の姿はもう、ない。



もはやメロディにさえ聞こえない低いBGMが響く狭いストックの中。壁にもたれた私の意識はまた遠く、虚ろとしてくる。みんなが私の為に駆け回ってる…こんなときに何で、と苛立った。


床に投げ出されたままの売価変更のリストとその上に転がっている、ペン。這って近付けば届きそう。



衝動が込み上げてくる。私はそれを寸前で止める。駄目、それは駄目って、何度も何度も言い聞かす。一人、姿を思い浮かべる。泣いていた砂雪…そう、もうあんな顔をさせる訳にはいかないんだ。そうやって抗ってた。




ザワ…と僅かな響きをドアの向こうに感じた。やがて開いた。現れた姿を虚ろな目で、ただ見上げてた。





…タカ……?





息を切らした彼がづかづかと脇目もふらずに近付いてくる。私の傍にしゃがみ込んで優しい手つきで腫れた右足を撫でる。安心を覚えてしまう。力も意識も抜けていってしまいそう。




あーちゃん、目つきヤバくない?ぼーっとして…



やっぱ頭打って…?




タカの後ろ、ドアの向こうでみんなが話している。そして更にガツガツと激しい足音が近付いてくる。



「あーちゃんお待たせ!湿布…」



息の上がった声が、戻ってきた星華ちゃんの動きが、止まった。千葉…さん?こぼれた彼女の呟きがただでさえ無い胸を深く抉ってくる。




店長さん。




次にしたのはタカの声だった。何だろう?そう思う間もなくふわりと足が、いや、全身が浮いた。


虚ろだってわかる。まだ信じられない昨日に続いて更に信じられない事態が今起こっていると。


そんなこちらには構わずタカは言った。私を前に抱きかかえたまま、店長に向かって。



「コイツ、今日は上がっていいですよね?」



目を開けたくても止めたくても、もうどうしようもない。むしろ見たくないよ、怖いよ、と彼の胸元に顔を伏せていた。それがみんなの目にどう映るかさえ考えたくはなくて。



うん、という小さい返事は店長の声だった。至って落ち着いた口ぶりが続けた。



「浅葱ちゃんを、頼んだよ」



うん、と頷く気配をすぐ上からも感じた。そして動き出した。裏口のドアを開けた彼は風を切るような早さで、でもきっと慎重に廊下を歩んでいる。やめて、心の中で細い悲鳴を上げた。




もうやめてよ、訳がわからないよ。おかんに連絡して何でアンタが召喚されるのさ?何でここまでするのさ?こんなことしたらまた、アンタは…



すれ違う従業員たちのざわめきなんかを聞きながらあの顔が浮かんだ。あの日、あの帰り、新御茶ノ水駅のホームで見た、タカの顔。



いい加減にしろよ、そう訴えたくって彼の服を握った。私と関わるからだろって、植村を敵に回したのもそのせいだろって、少しは自分のことも考えろって…



アンタそうやって何度も傷付いてきたんだろ、って。




「ど、どうしたんだね?キミたち…」


「足を負傷したので彼女も一緒に退館します」



明らかに驚いている従業員口の警備員さんにさらりと言ってのけたタカ。ふわ、と吹き付けた秋の香りと涼やかな風が表に出たことを知らせた。やがて足を止めた彼は私をそっと車の助手席へ乗せた。膝掛けまでかけてくれた後、運転席に乗り込んだ彼が言った。




なぁ、浅葱。



お前が本当に眠り姫かどうか…確かめてみないか?




いつかも聞いたような響きに近い、その言葉の意味はわからなかった。ただ怖くもなければ引きもしなかった。



視界が完全こちらの世界を遮る前、最後に見たのはナビを操作するタカの骨ばった大きな手だった。




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