十四の夢
いつ帰ってきたのかもわからないくらいだった。全てが幻のように感じられる中、タカに付き添われてここまで辿り着いた。
越してきてからもうすぐ二年。いい加減見慣れた天井の色を仰ぎ見ていた。包帯の巻かれた左手を力なく投げ出しながら。
ガチャ、と音を立ててドアが開いた。今私の部屋へ訪れる人間なんて限られているという理由からベッドに投げ出したままの身体を起こそうともしなかった。
夕暮れが始まったばかりの時間帯的に考えて、母か若菜かタカ、片手で収まる程度の候補者。最後の者だった場合は…一体何と言おうかと考えていた。
…浅葱?
届いた声は想像していた誰のものでもなかった。
「浅葱っ…!」
「砂雪…何で?」
身に纏ったアクセサリーをジャラジャラと鳴らして駆け寄ってくる彼女に見入った。包帯の巻かれた左手に目を止めるなり彼女は力なく崩れていく。溢れてくる涙を大振りなバングルの付いた腕で拭っている。
「ごめんね、ごめんね…私、気付かなくて…連絡もしないで…っ、ごめんね…」
もはやどちらが患者かもわからないような流れだった。ベッドの淵に伏せて泣きじゃくっている砂雪の小さな手の上へ私はそっと自分のものを重ねる。
「大丈夫だから、泣かないで。砂雪」
そう言ってみた。もちろん大丈夫なはずはない。隠しきれない答えなら傷んだ左手がありありと示している。だけどそう言うくらいしかないと思った。こんなにもボロ雑巾みたくしおれている彼女の前、他の声かけなんて意地悪でしかないだろうって。
あの後私はタカに連れられるまま新御茶ノ水駅近くの大きな大学病院を訪れた。まずは通常に傷の手当て、その後に医師からあることを命じられた。
処置室から出てきた私の前にはすでに椅子に座ったタカが居た。
「どう?傷、塞がった?」
「大丈夫、そんなに深くないって」
だけど…
静かな表情で見上げる彼の前、私は重々しく口を開いた。
今度はこっちに行けって。
…精神科。
恐れながら言ったそれにタカはあくまでも落ち着いた様子でそっか、と返した。ゆっくり腰を上げた彼が近付いた。
「行ってこいよ、待ってるから」
「私ただ眠かっただけなんだよ。おかしいじゃん、精神科なんて。別に病んでなんか…!」
「お前、それ偏見じみてるぞ」
叱られてしまった。偏見…確かにそうなのかも知れない。だけどいざ自分がその立場になってみてすんなり受け入れられる人間なんて一体どれ程度いるものなのか、などと思って唇を噛んでいた。
行こう、と促すように肩に手を添えてくるタカ。足を止めたままの私に彼は語りかけてくれた。
「別に珍しいもんでもねぇだろ。ストレス社会に生きている以上、誰に起きてもおかしくないことだ」
それはすごく正論のように感じられた。私の足はぎこちなくも進んだ。
同じ病院の中の精神科で私は【気分障害】すなわち鬱病であると告げられた。やっぱり幻を見ているみたいだったけれど、説明を受けるうちにすんなりと実感が沸いた。
そういう診断になるのも無理はない。仕方がない。包帯を巻き付けられたばかりの左手を見下ろした。
私のしたことは自傷行為だ。紛れもない事実がそこにあった。
受け取った大量の薬、そしてタカと一緒に電車に乗って帰ってきた。抜け殻みたいに力の入らない身体はやはりクラクラと定まらなくて終始彼にもたれていた。
それから何時間かが経過した今、鬱病と診断された自身以上に思いもしなかった自体が目の前にある。
ひとしきり泣きじゃくっていくらか落ち着いた様子の砂雪。おもむろにバングルを外した彼女は剥き出しの手首を私の前に差し出して言った。
「私も…だったんだよ」
傷痕があった。決して深くはない、だけど何度も何度も刻み付けたような線がおびただしく走っていた。
ごついバングルもかつて愛用していたリストバンドも、ただの装飾ではなかったと今更、知った。
「私の親、先月離婚したんだ。前から上手くいってなくてさ…」
赤い目をした砂雪が打ち明けてくれた。
学校で朗らかに振る舞う反面、家庭での居心地の悪さに悩んでいたこと。中学時代の同級生に誘われて逃げるようにバイトを始めたこと。学校で規制されているその行為を空手部の後輩に見られてしまったこと。
聞いてみればそれは私が失恋に打ちひしがれいたあの半年後に起きたことだった。部活では時期部長候補、クラスでは学級委員を務める彼女への疑惑はやがて止められない早さで悪評へと変わった。
気付かれる前にと私を部から遠ざけた。私はまんまと乗せられていたんだ。今の今まで少しもそんな気配など感じていなかった。
自分に向けられる周囲の目は白く、後輩も言うことを聞いてくれなくなった。何処にも居場所がないような自分が確かに生きている証を確かめたくてカッターを走らせた。誰もが自分に背を向ける中、この痛みだけは手放したくなかったと彼女は言う。
「ちょうどそんなとき、川崎が連絡をくれたんだ」
その頃から付き合ってるんだ、アイツと。
当時、ひたすらに目をそむけてやがて記憶から薄れていったことを思い出した。そういえばアイツ、言ってた。東京の千住に引っ越すって。
「ねぇ、浅葱。ずっと伝えたかったことがあるの…」
今、話してもいい?
眉を寄せ何処か怯えたように見てくる砂雪。それはまるで私自身の内心を映し出しているかのよう。だけど頷いた。もう逃げてはいられないような気がした。
「浅葱の手紙を見た後、アイツどうしたらいいのかわからなくて相当テンパったんだって。そもそも恋とかしたことなかったし、浅葱の気持ちをないがしろにもしたくなかったって」
それでね、と少し笑った砂雪が続けた。
「自分一人では結論が出せないって思って私にメールしようとしたんだって。だけどアイツ、ドジだから…」
送り先間違えて部活の男子に…
「は…?」
唖然とした。今何と言ったか問うてみたかったけれど、確かにはっきり聞こえてしまった。
はぁーっ、と身体全体の酸素が抜けたのではないかと思う程の長いため息が漏れた。
川崎…ぃ!!
何処か抜けてる奴だと思ってはいたけどまさかここまでとは。
「私がそのことを知ったときにはもう噂広まっちゃっててさ、浅葱に言おうとしたんだけど…ほんとごめん」
「いや、うん…大丈夫。砂雪が悪いんじゃないし、うん」
そうだよ、今思えば砂雪は何度も伝えようとしてくれてたんだ。逃げたのは私の方だ。
「で、どっちが告ったの?」
私は笑って切り返した。ヘタレな私とドジな川崎が招いたマヌケな失恋劇などもうどうでもいい。そっちの方がよほど気になる。
「アイツからだよ。引っ越してしばらくしてからやっと恋なるものがわかったとか言って…」
「何それ、くっさ」
「だよね」
砂雪と私はクスクスとしばらく笑っていた。ちょっと落ち着いて顔を見合わせてはまた笑う。そんな繰り返しだった。
未知なる精神疾患との戦いを前にひしゃげてしまいそうだった私の胸にわずかな温かみが宿った。何か私の変化に気付いたのか、今度は砂雪が明るく切り出す。
「ところでさ、あのサブカル系男子は?浅葱の彼氏?」
多分、いや間違いなくタカのことだ。母の用意したお茶を飲んでるところにでも鉢合わせたのだろうと察した。それから答えた。
「ううん、友達だよ」
「えーっ!何だぁ、そうなの?」
結構イケてるのに…などと砂雪はぼやいている。前々から思っていたが世の女子たちは彼の何処を見てそう感じるのだろう?特に華やかな訳でもイケメンでもないのに、謎だ。
一つ、確かなことがあるけれど。
「今は友達でもキープしておいた方がいいよ!浅葱を助けてくれたんでしょ?カッコイイじゃん」
う、うん…
自然と頷いていた自分の動きに驚いた。顔全体へ広がっていく熱。ゴシップ好きの主婦の如くニヤニヤと笑みを浮かべている砂雪の顔。私はかぶりを振った。
「いや、ないよ。アイツは」
すぐに訂正した。
ーーそれからの数ヶ月はあっと言う間に過ぎた。
親から担任へこっそりと病気の話が伝わった。誰にも知られないよう提出期限を伸ばしてもらった私は無事に卒業制作を完成させることができた。
教室に残った血痕は翌日ちょっとした騒ぎになっていたが、多分誰かの鼻血だろうという結論に落ち着いたらしい。タカは何も言わなかった。相変わらずの薄い表情のまま黙々と机に向かっていた。
卒業式の後、飲み会の為に集まったクラスメイトたちの群れの中で私は度々一つの姿を探していた。何度となくスマートフォンを取り出してみてはまたしまう。しばらく経ってまた取り出す。指を這わせてみる。だけどどうしても触ることの出来ない『発信』。
勇気が出ないのにはちゃんと理由があった。本来の卒業制作提出日の数日前のことだった。
「おっはよー!朝ごはん食べ過ぎちゃったぁ」
「おはよー、浅葱ちゃん」
「最近やけに元気だね?卒業制作でハイになってんの?」
そうかもー、などと言いながら私は高らかに笑っていた。梓と夕菜の不思議そうな顔も大して気にも止めず、ただすっきりと冴えている気分が嬉しかった。
浅葱、ちょっと…
ふと届いた声に振り返った。手招きしているタカがいた。
「おやおや朝っぱら熱いねぇ、浅葱さん」
「本当に仲良しだよね…いいなぁ」
例によって囃し立てる二人に見送られて私とタカは授業前の教室を出た。
「浅葱、お前さ…テンションおかしくね?」
人気のない廊下の隅でタカが言った。無表情ながらも何処か探るような困惑したような声。
「何で?私、前より元気なんだよ?」
「それはいいけど何ていうか…」
お前らしくない。
頭を掻きながら彼がこぼした一言。さすがに笑っていられなくなった。何か抑えの効かないものが込み上げ始めた。
「薬が合ってないのかも知れない。ちゃんと医者に相談…」
「何で?」
気が付くと私は彼を睨んでいた。口調は次第に荒々しくなった。
「私が元気じゃいけないの?あんなフラフラで倒れてばかりの私の方が良かったって言うの?あの方が私らしいって、そう言いたい訳?」
「いや、そういうことじゃ…」
そうじゃん!!
ついには叫んでいた。驚いている様子の彼になおも言った。
「珍しくないって言ってくれたじゃん!帰りの電車で早く元気になれよって、タカそう言ってくれたじゃん!あれは何?嘘だったの?本当は気持ち悪いって見下してたの!?」
タカが何か言っているみたいだったけど聞こえなかった。いや、聞きたくなかったんだ。
タカの馬鹿!!
嘘つき…っ!
授業のことなんてもうすっかり忘れて走り出した。廊下を駆け抜けとりあえずとばかりにトイレに駆け込んだ。
息を切らせていた。その途中でふと思い出した。
ーータカちゃんの馬鹿!ーー
もう一年半以上前のあの光景が蘇った。はは…と乾いた笑みをこぼした私は思った。
何故今更なんだろう、そして何て滑稽なんだろう。
今の私はあの子そっくりじゃない、と。
あれから話すことのなかったタカ。卒業式の会場でもこの飲み会の席でも、いくら見渡してみても見つからないタカ。
帰りの電車の中、いくら寄りかかっても許してくれた。まるで止まり木みたいだった、タカ。
彼の忠告通り医師に相談して適切な薬に変えてもらった今、私の意識は限りなく元通りだ。いや、薬でさえ歯が立たない程の虚無感のせいなのか。
二次会には行かなかった。そんな気分にもなれなかった。一人きりの帰り道、新御茶ノ水駅のホームに佇んで思い返した。
いつかこの場所で彼に投げかけた言葉。そして、投げ返された忘れられない言葉と、表情。
ーー俺、もう黙ってるしかないのかな?ーー
けたたましく響く電車の音の側、いつになく寂しげだった彼に私は言った。間違いなく言ったんだ。
「アンタの言葉を聞きたい人だっているんだよ…!」
対する彼の顔は驚きに満ちているようだった。それはやがて形を変えた。柔らかく。
「初めからそんな気がしてた。俺の言葉を真っ直ぐに受け止めてくれそうだって」
ーーだから、浅葱の傍に居たかったんだーー
薄く儚げな塩顔が咲き誇る桜みたいな笑みに満ちた瞬間だった。
我孫子行きの電車が流れ込んだ。遠い日の彼の残像が消えた。
何故だろう、何処か冷めたような本来の私が問いかけた。
次の場所へと向かう前、何故私はいつもわだかまりを残してしまうのだろう。よりによって大切な人と、何故…?




