八つ夢
気楽な時間は駆け抜けるみたいに足早に過ぎていく。寂しくもありそれでも身を委ねていたくなる。気楽な夏休み。かったるいしがらみや自らの取り繕いからも逃れられるご褒美の期間。素晴らしい。
一度は天国と見紛ったあの薔薇風呂の後も私はピンピンと毎日を過ごしている。安堵と開放感。今年もそうして過ぎていくものだと思っていた。
なのに、何故。
何故私はここにいる?
「組手始めんぞーっ!」
『押忍ッ!!』
何故、ここにいる??
野太い声が押忍押忍響く校内の道場。それは立ち尽くす私の元にも度々飛んでくる。
「瀬長ーっ!タオルと救急箱ッ!」
「田中が鼻血出した!」
「早く!!」
お…
押忍。
私はあたふたと言いつけられた通りのものを用意する。すでにスタンバイしていたタオルと綿やらテーピングやら絆創膏やらがぎっちり詰まった箱を持って駆けつける。顔の防具を脱ぎ捨てた田中先輩。顎まで広がった鮮血が何とも痛々しい。
これはイジメなどではない。腕の良し悪しに関係なく鼻の毛細血管が弱い者が鼻血を出しやすいのだという。実際、田中先輩は二段の黒帯だ。対戦相手である私の同級生・川崎のが力任せな攻撃がよろしくなかったのだろうと同情せずにはいられない。
「すいません、田中先輩!本当にすいません!!」
青ざめた川崎は地にめり込む勢いで頭を下げ続けている。中学までボクシングを続けていた彼は曲線を描いて振りかぶる癖がなかなか抜けないらしい。それも正拳突きの中で不意に出してくる。
高1とは思えない程図体もでかく、突き…もとい、パンチの破壊力はなかなかのもの。こちらにも同情してしまう。そしてそろそろ顔を上げてくれ、と思う。反則とは言え1年にブチのめされた田中先輩のプライドはきっとズタズタだ。
「すいません、田中先輩!次は私が川崎と組みますから!」
…砂雪もやめてあげて。女子にフォローされるとか…ああホラ、先輩あんなに唇を噛み締めてる。
ここに足を運ぶようになってもう一ヶ月。つまり夏休みも間もなく終わりだ。想定外だった。
ーー砂雪から渡されたあのアンケートから一週間後、私はここに呼び出された。他にやってきたのは名前も知らない同級生二人。わけもわからずにいる私たちに満面の笑みの砂雪が言った。
今日集まってもらったのは“やってみたい”と“やってもいい”と“かっこいい”で答えてくれた人だよ!
大丈夫、私が“やってよかった”にしてみせるから!
呆然と立ち尽くす私たちの前に突き付けられたVサイン。私は思い返した。
つまりあのアンケートに参加した他の皆は①やりたくない②やりたくない③怖いor興味ない、と答えたということか。何と冷たい世の中…いや、砂雪の強引さを見越してのことだったのかも知れない。
いずれにしても冷たくなりきれなかった私の情が仇になったことだけは確かだ。他の二人もきっと…
瀬長浅葱 15歳(今年で16歳)
10月5日生まれ O型
売られていく子牛のメロディが脳裏に浮かぶ。空手部のマネージャーの座に引きずり込まれた今、優柔不断で社交性に優れているという天秤座とO型のダブルパンチが…辛いです。
「もうすぐ終わるから帰りに軽く食べてこうよ。お腹空いちゃったぁ」
面を外してこちらへやってくる砂雪は汗まみれでありながらもやっぱり爽やかに見える。毎度のことながら見惚れてしまう。
「川崎も来るよね?」
「え…えぇ?僕もっスか?」
図体でかくて強面なくせに一人称は“僕”、同級生の砂雪にさえ敬語を使ってしまう気弱な川崎は今日も巻き込まれる流れだ。
彼がこの部に居てくれて本当に良かったと密かに思っていた。苦手だった筋肉の描写が徐々に改善されてきているのは他でもない彼のおかげなのだ。強面のおじさまもいくらか描けるようになってきた。いや、川崎は16歳なんだけど。
部活動を終えて一面の畑と遠い農家の家屋ばかりの道を三人で歩いた。何やらキャッキャと楽しそうにしている砂雪と川崎。すぐ近くなのにその内容さえ耳に入っては来ない。足だけ動かしつつ、私はどっぷり空想の中にはまっていた。
久しぶりに漫画を描いてみたいな。ファンタジーの恋愛もの…とか。
今まで私好みに中性的な男しか描かなかったけど、せっかく筋肉の描き方に慣れたんならマッチョなヒーローで描いてみたい。
ヒロインも可愛いけど実は強いっていう設定…あ、砂雪みたいな!
そしたらとことんアクロバティックなストーリーにできる。今まで挑戦したことのないジャンルに…
この二人をモデルにすれば……
はっきりと思い描けた光景。身長差の半端ない二人の騎士が寄り添う姿。今すぐにでもペンが欲しい程。
なのに、細い痛みが胸に走った。ズキ…そんな響きで。
私は足を止めた。思い描いたものは確実に描きたい、そんな願望にも勝る何かに邪魔をされていると気付く。
私はこの光景を、描きたく…ない?
しばらく先へ進んだ二人がやっと気付いて振り返った。浅葱?と心配そうに呼ぶ砂雪、それから隣へと視線を移していく。ぽかん、とした彼の顔へ。
物語でなら何度も書いてきたけれど実際に経験するのは初めてだ。すぐに口にするなんてとてもできない。淡くくすぶる感覚は奥へ隠れるように引っ込んでしまうのに、高鳴る心臓が“いや出ろよ”とばかりに押し出そうとしてくる。
こんな感覚だったの?
引き返してくる二人が見えていながらも戸惑いのせいでしばらく動くことができなかった。限りなく確信に近い疑問が浮かんでしまった。
私は…
川崎が、好きなの?




