六つ夢
遥か上空、茜色の奥で黒の鳥の群れが鳴いている。緑の両生類がゲコゲコ合唱する見慣れた田園の間を進む。昼間あんなに重かった頭が軽やかに感じられる。もはやルーティンと化している、私はこの時間帯が最も動きやすい。
気休めだとは知りつつも一応詰めて来た教科書とファイルが詰まったボストン型のスクールバッグはなかなかの重量だ。思い返せば勉強よりプリクラやショッピングやカラオケに夢中なはずのクラスメイトたちも、皆同じくらいの容量まで膨らませて登校していた。考えることは大概同じ、やる気だけは見せておこうとでも言ったところか。
夏休みを目前とした期末テストがようやく終わった。例にもよって自信があるのは一教科だけ。中間テストの後、その一教科の結果を見た砂雪はすごい!とやたら興奮していたが、そもそも日本語ではないか、と思わずにはいられない。対して数学が得意な砂雪は公式に従うだけ、などと言う。結局のところ得意不得意なんてそんなものだ。
やがて見えてきた我が家。住宅街などとはとても言い難い寂しげな細道にほんの数件まとまった家屋の中の一つ。既に停車している水色の軽自動車が目に止まった。母の方が先に帰宅している…早番だったのだろうか?
錆の付いた銀のポストを開けて空を確認、インターホンを押す。
ピンポーン…
しばらく待ってもう一度、ピンポーン…
………
やっぱり誰かが出てくる気配はない。だけど確実に中にいる。窓から漏れる照明、そしてかすかに耳に届く甲高い二つの声が示している。
痺れを切らした私はバッグから取り出した鍵をドアの穴に捻じ込んだ。開いた隙間から二つの声が一層大きく漏れ出した。
「だから!それは無理だって言ってんだろ!?親戚の家なんて頼れるかよ!」
「ママとパパが駆け落ちなんかするからじゃん!私のせいじゃないし!」
玄関の段差に座ってもそもそと靴を脱ぎながらやかましい声を聞いていた。そして大体察した。
かねてより難関の私立高校受験を目指していた若菜は中学ラストの今年に突入して一層ナーバスになっている。勉強部屋は姉と同じ、更にパート勤めの母のシフトに振り回されては受験勉強に集中できない。だからこの夏休みは親戚の家にでも住まわせてくれ、そんなところだろうと。
母は母で感情的に反論を続けている。これからますますヒートアップする可能性は多いにある。触らぬ神に祟りなし…こんなとき、自室への道が玄関から直通した階段であるこの家の構造に感謝せずにはいられない。
間違ってもこちらに矛先が向かぬようゆっくり慎重に階段に足をかけた。もちろんスルーするつもりだった。
だから…!
生活音の塊・母のものにも勝る大音量で上がったのは、若菜の声だった。
「毎晩毎晩、浅葱のゾンビ声のせいで眠れないのよ!どんどん酷くなってるじゃん!だから部屋を別にしてくれって前から…」
パンッ…!
憤りに満ちた妹の声は乾いた音に遮られた。足を止めた私は固まった。うっすらと人影が滲む引き戸の磨りガラスに目を奪われながら。
ドラマなどでよく見る。本当にこんな音がするんだ、と思った。人が頬をはたかれると。
何てことを言うんだい…!!
痛みを受けたであろう若菜の声が聞こえない変わりに母の声が上がった。やかましく、そして震えている。
「アンタは自分のことしか考えられないのかい!いつからそんな冷たい子になったんだい?頭が良けりゃいいってもんじゃないんだよ!あたしゃそんな子に育てた覚えはない!!」
浅葱だって辛いんだよ…
毎晩毎晩、あんな……
詰まる母の涙声、その直後にガラ!と扉が開いた。飛び出してきた若菜と階段に片足だけをかけた私の視線が鉢合わせた。
浅葱…!!
ぱっちりと目を見開いて静止している若菜、その後ろで赤い目をした母が私の名を呼ぶ。
止まってしまったようにさえ感じられる空気の流動。一体どうしろと言うのか。泣けばいい?笑えばいい?何を言い返すのが適切か…
正直、考えるのも面倒臭い。いや、考える時間が…欲しい。
私は段差から足を下ろし、あえて廊下の方へと向かった。開けてやった導線を顔を伏せた若菜がここぞとばかりに駆け抜けて二階へと去っていく。
震える眼差しと共に近付いてくる母の側をすり抜けて背中ごしに言った。
「風呂、入ってくるわ」
待って!と焦燥した母の声が呼ぶ。
「あたしも一緒に入るよ!」
「いや、何でそうなんの?」
「だって…」
アンタを……
何やら次の言葉にためらっている。その声の方へ振り返った。今、自分がどんな顔をしているのか、それさえわからないまま返した。
大丈夫だし。
今、眠くないし。
私はすぐに歩き出した。詰まる喉の奥を解放するべく襟のリボンを緩めながら。




