第1章「ようこそチュートリアルへ」
死因は過労だった。
たぶん、おそらく、きっと。だって最後の記憶が「始発の電車でまぶたが落ちた」だから、正確なところは自分でもわからない。わかるのは、デスクに積み上がった書類の山と、「今月もうちょっと頑張れる?」という上司の笑顔が、人生最後の景色だったらしいということだけ。
——で。
目を開けたら、空が青かった。
ものすごく、青かった。
加工なしでSNSに上げても誰にも信じてもらえないくらい、嘘みたいに澄んだ青。見渡す限りの草原に風が吹いて、草がさわさわと揺れていた。空気がおいしい。なんなら甘い。
「……天国?」
仰向けに寝転がったまま、ぽつりとつぶやく。
天国にしては地面がちょっと固い。背中に小石が当たっている。でも会社のパイプ椅子よりはだいぶマシだ。正直、このまま昼寝したい。上司がいない世界で寝転がるの、最高すぎないか。
——しかし。
視界の端に、何かが立っていた。
木の看板だ。地面にぶっ刺さっている。
よいしょ、と体を起こして目を凝らす。看板にはでかでかとこう書いてあった。
『スライムを1体倒して先へ進もう!』
「…………」
三回読んだ。意味はわかる。日本語として完璧に理解できる。ただ現実として受け入れるまでにちょっと時間がかかった。
「異世界転生ってやつ? 私が?」
ラノベは読んだことがある。同僚が貸してくれた。徹夜明けのテンションで読んだら意外と面白くて、でもそのあと同僚が先に辞めてしまったので続きは読めなかった。
まさか自分がなるとは。
「えーと……スライムを倒す。倒せば先に進める」
先に進んだら、どうなるんだろう。
——また働くの?
また上司に「今月もうちょっと」って言われるの? 異世界版の?
「……別に急がなくてよくない?」
風が吹いた。草がさわさわと同意するように揺れた。気がした。
とりあえず周囲を見回す。看板の横に木箱があって、中に木の棒と革の盾と短い剣が入っていた。初心者セットというやつだろう。隅っこにパンが一切れと水の入った革袋もある。死なない程度の支給品、という感じ。短剣を手に取ってみる。刃はそこそこ鋭い。
「ん——包丁みたい」
それは後で考えよう。
まず、スライムとやらを探さないと話が始まらない。倒すかどうかはともかく、どんなやつなのかくらいは見ておきたい。
草原をてくてく歩くこと約三分。
いた。
草の陰に、透明な何かがいた。
大きさはソフトボールくらい。無色透明で、丸くて、ぷるぷると震えている。近づくと、びくっと跳ねた。
「…………」
「…………」
沈黙。
スライムがぷるぷる震えている。こっちを見ている。目はないけど、なんとなくこっちを見ている気がする。怯えている。ぷるぷるの震え方が「怖いです」と全身で訴えている。
「……小っちゃ」
思わず声が出た。
短剣を持っている自分が急に恥ずかしくなって、そっと背中に隠した。
「あー、ごめんごめん。怖かったよね」
しゃがんで目線を合わせる。スライムは逃げなかった。逃げないけど、まだぷるぷるしている。
「大丈夫、取って食べたりしないから」
ぷるぷる。
「ていうか君を倒せって言われてるんだけど、無理じゃない? こんな小さいの」
ぷる。
「なんか関係ないけど、プルプルしてて可愛いね。ぷるぷるって感じ」
ぷる?
「——うん、ぷるる。君、今日からぷるるね」
名前をつけてしまった。
スライム——もとい、ぷるるが小さく跳ねた。一回、二回。怯えの震えとは違う、ぽよんぽよんとした跳ね方。喜んでいる、ように見えた。
その瞬間、ぷるるの体がほんのりピンク色に染まった。
「え、色変わった。なにそれ可愛い」
ぷるるがまた跳ねる。ぽよん、ぽよん。ピンクが少し濃くなる。
「可愛い可愛い。はいはい可愛い」
ぽよんぽよんぽよん。
——これ、倒せるわけないでしょう。
人類には早すぎる残酷さだよ、この試練。
「よし」
立ち上がって、腰に手を当てた。もう一度看板を見る。
『スライムを1体倒して先へ進もう!』
「進まない」
宣言した。
別にいいでしょう。草原は気持ちいいし、空気はおいしいし、上司はいない。前世で足りなかったもの全部ここにある。急いで先に行く理由がない。
「ぷるる、この辺で暮らすのってアリかな」
ぷる、とぷるるが跳ねた。肯定に聞こえた。聞こえたからそういうことにした。
問題は住環境だ。草原に寝転がるのは最高だけど、夜は冷えるかもしれない。とりあえず初心者セットの中身をもう一度確認しよう。
木の棒。革の盾。短剣。薬草。食材は乾いたパンと水。よかった、飢え死にはしなくてすみそう。あと、木陰の地面に焚き火の跡。
「……焚き火できるじゃん。最高」
しかし鍋がない。やかんもない。
「まあ、初日だしね。贅沢は言わない」
短剣を包丁がわりに使えないかな、とさっきの直感を思い出す。刃の感じは悪くない。薬草を刻んでみた。——切れる。普通に切れる。
「革の盾、平らだし、まな板にならない?」
載せてみた。なる。完全にまな板だ。
「初心者セット、使い方間違ってる気がするけど……まあいいか」
何かがバチッと音を立てた気がした。空の一角が一瞬だけ明滅したような。しなかったような。
「……気のせいかな」
気のせいということにした。
焚き火跡にその辺の石を組んで風よけを作る。周囲を見回すと、後ろのほうにはそれなりに木が生えていて、下には枯れ枝が落ちていた。拾ってきて適当に組んでみた。火の起こし方は——短剣と石を打ち合わせれば火花が出るんじゃないかと思ったけど、意外と難しい。
「前世でキャンプとかやっておけばよかった。行く暇なかったけど」
がちがちやること数十分。ようやく小さな火がついた。ぷるるが火を見てびくっと跳ねて後ずさる。
「あ、ごめん。怖い?」
ぷるぷるぷる(怖い)。
「大丈夫、離れてていいよ」
焚き火の前に座って、手をかざす。暖かい。
暖かい、というだけで泣きそうになるのは、前世で冷えすぎたからだと思う。冬のオフィス、節電で暖房は二十度設定。ブランケット持ち込み禁止。足元が常に冷たかった。
「——よし、ここに住もう」
もう決めた。
スライムは倒さない。先には進まない。この気持ちいい草原で、焚き火して、のんびり暮らす。それが私の異世界転生。文句あるなら上司に言って。いないけど。
その時だった。
空から何かが降ってきた。
正確には、飛んできた。白い翼を広げた人影が、すうっと草原に降り立った。
金色の髪。青い瞳。整いすぎた顔。白い翼。身長が高い。なんか全体的にキラキラしている。
「ようこそ、転生者よ。私はこのチュートリアルエリアの管理を——」
「イケメェン……」
「——担当して……は?」
「いや、すごいイケメン。実在するんだそういう顔。ていうか天使? 天使ってこんな感じなの?」
「あ、ええ、天使です、が——」
「天使さんだ」
「いえ、私の名前は——」
「天使さん、ここ夜は冷えます?」
「——話を聞いてください」
天使さん(本名を聞きそびれた)は、こほん、と咳払いをして姿勢を正した。さすが天使、咳払いすら上品だ。
「改めまして。ここはチュートリアルエリアです。あなたは異世界に転生しました。ここでは全員がレベル1ですので、スライムを一体倒すくらいはできるはずです。倒して、外の世界に進んでください」
「え、やです」
「はい?」
「いやです」
「…………え?」
天使さんの顔が固まった。台本にない回答だったらしい。
「スライムを倒してください」
「やだ」
「……倒してください」
「やだよ」
「……お願いします」
「やだって」
天使さんの整った顔がじわじわと崩れていく。困惑と焦りが混ざった、たぶんこの天使が今まで一度もしたことのない表情だった。
「あの、チュートリアルには先に進む以外の選択肢は——」
「あるでしょ。だって私いま進んでないし。この状態が選択肢の存在を証明してるよね」
「それはそうなんですが、想定されていないといいますか——」
「想定されてないけど禁止もされてないってこと? じゃあいいじゃん」
「よくないです!」
天使さんが声を荒らげた。すぐに「失礼」と取り繕ったけど、金色の髪が若干乱れていた。
「……外の世界では今、ちょっと困ったことが起きていまして。できれば力を貸していただきたいと——」
「力ないよ? レベル1だし。前世はOLだし。できることはエクセルと議事録と、あと怒られた時に表情を変えない技術くらい」
「それは……たしかに即戦力ではない、ですが——」
「でしょ? だから私はここでのんびりする。ぷるると一緒に」
「ぷるる?」
「この子」
足元でピンク色にぽよぽよしているぷるるを指差した。天使さんが目を見開く。
「……スライムに名前をつけたんですか」
「うん。可愛くない?」
「可愛いかどうかの話じゃなくて! それ、倒す対象ですよね!?」
「対象に名前つけちゃったからもう無理だよ。情が湧いた。責任取って」
「なぜ私が責任を——」
「冗談冗談」
ぷるるがぽよん、と跳ねた。天使さんを見上げて——たぶん見上げて——いる。天使さんの眉間にしわが寄っている。
しばらく沈黙が続いた。
風が吹いて、草がさわさわ揺れて、焚き火がぱちぱち鳴った。
天使さんが深いため息をついた。天使の深いため息は、なんか荘厳な響きがあった。
「……わかりました。今日のところは、見なかったことにします」
「やった」
「やったじゃありません。明日また来ます。それまでに気が変わることを——」
「変わらないと思うけど、まあ来てよ。お茶出せないけど」
「お茶——ここにお茶はありません」
「だよね。なんとかしたいなぁ」
天使さんが何か言いたそうな顔をして、でも言葉にならなかったらしく、翼を広げて飛んでいった。
青い空に白い翼が溶けていく。
綺麗だった。
「……ぷるる」
ぷる。
「なんか怒られちゃったね」
ぷるぷる。
「まあいいや。明日は明日で考えよう」
焚き火が暖かい。空が綺麗。スライムが可愛い。
前世じゃ絶対に手に入らなかったものが、全部ここにある。
——チュートリアルで暮らす。
それが、元ブラック企業OL・ひよりの、異世界転生初日の決断だった。
どこかで、天使さんが報告書に「進捗:なし」と書いている気がした。




