『黄の章』第24話:倒木と何度めかの不幸
ミシミシと木の折れる音と、倒れる音、それから振動。
屋内にいるはずなのに見える雲ひとつない青空に何をいうでもなく、異常に対する感覚の鈍ってきた利緒でさえ気づく異常。
利緒に訪れる災難は突然であった。
ハッと辺りを見渡して、それがごく近くでないことにまず安堵した。
もし自分の方へと倒れてくる木があったとして、避けることができたか。出来るわけがないと、変な確信を抱きつつ、利緒は音の鳴る方を探る。
妙に冷静でいられたのは2度にわたって発生した予期せぬエンカウントのお陰だろう。
今すぐ危険という訳でも無かったことが、利緒に思考するだけの時間を与えた。
耳に手を当てて、集中できるように目を閉じて周囲の様子を探る。
進行方向から見て恐らく左、まだ遠くだがそちらに原因があるようだった。
(そろそろ戻るべきだな、うん)
そう判断した利緒は、迷うことなく道を戻る判断を下す。
基本的に前へ前へと進んできた利緒。
来た道を戻れば、噴水を通って石壁の中へと戻れるだろうと、回れ右で大袈裟に振り返る。
嫌な予感を振り切るように、覚悟を決めるために少しだけ躊躇してから足を踏み出した。
初めの一歩を踏みしめてしまえばもはや躊躇はなく、そのまま走り出す。
森の中、踏み固められただけの道は、道というにはいささか野生でところどころに穴はあり山はあり、そして葉や枝が落ちている。
とても走るに向いてはいなかったが、それでも利緒は懸命に走った。
さて、この世界へ来たばかりの頃より、肉付きも良くなってはいるが、利緒はあくまで一般人だ。
その身体能力が大きく飛躍したりもしていない。
……つまりは、その音がだんだんと近づいていることに気づいたとして、すでに手遅れであった。
決して振り返ることなく全力で腕を振るったところで、悲劇が僅かに先送りされるだけである。
倒れる木の音に混じり、誰かの笑い声が聞こえた。
僅か後ろから聞こえたメキメキという音と利緒の走る先へと伸びた影。
(横に飛べば助かったのか?)
思考は一瞬。
背後に迫るなにかに背中を押された気がした。
有り得ない圧力を感じた直後、利緒の世界は真っ暗になった。
◇
「そろそろって話だったけど」
声が聞こえた。
利緒は悪い夢を見ていたのだ。
押しつぶされて、身体中の骨がひしゃげ、内臓も一緒に破裂した、そんな恐ろしい悪夢だ。
もちろんそんなことがあれば、人は生きてはいられない。
つまりそういうことを考える自分は生きていて、あれはやはり悪夢だったのだろう。
遠い昔のようで、鮮明に思い出せる不快な記憶にない記憶。その不思議な感覚はまさしく夢であった。
「……起きた」
はじめに聞いた声とは別の声が、利緒の精神を確実に現実へと引き戻す。
目を開けると、天井があった。
石の天井には見覚えがある。
至王の手によって気絶させられた後、ベッドの上から眺めた記憶。
短期間の間に何度倒れれば気がすむのだろうか、とモヤモヤした気持ちを抱えながらどうにか利緒は上体を起こして、辺りを見渡した。
ベッドはそこそこに固い。
装飾品も飾り気のない椅子や机があるばかりで、前回目を覚ました部屋に比べると、その部屋はだいぶ質素であった。
ぼんやりとした頭でわかったことは、利緒を見る2人の存在がいるということ。
その内の1人には、その見た目に見覚えがあった。
黄の里でもそうであったが、カードで知る人物が現実にいれば頭も痛くなるものだと、目をつぶり眉間を揉む。
1人は少女。青い長髪と白い肌、整った顔に透き通るような青い眼、ボロボロのマントから覗く白磁のような手。
「……アニマ?」
利緒は、失礼などということも考えず少女を指差す。
少女の表情は変わらない。
「……誰?」
そしてそのまま、もう1人の方へと指を動かした。
もう1人は女性だった。黒い長い髪。前髪を額の真ん中で分け、肩ほどまで伸ばしていて、後ろ髪も頭の上で纏めていた。眼鏡の奥には気持ちつり上がった目尻、黒い目と縦に伸びた瞳孔。一見強気な印象を与えつつ、白い肌と赤い唇が大人な雰囲気を漂わせいた。
「私はニーアムナイクロティープ、よろしく」
やはり聞き覚えのない名前であったが、ニーアから差し出される手に合わせて、利緒も手を伸ばす。
「えーと、ニーアム……すみませんもう一度名前を言ってくれますか?」
「ニーアムナイクロティープ、ニーアでいいわ」
握られた手は冷たく滑らかで、ニーアと名乗る女性の微笑みと合わせて、利緒の心を僅かばかり跳ねさせた。
「ところでアンタ、蒼が持ってきた遺物よね? 2体いるとは聞いてなかったけど、動くのもいたのね」
「遺物?」
2人の手が離れて、ニーアは改めて利緒へと問いかける。
現状確認のようで、彼女からすれば当たり前のことだったのだろうが、利緒にはなんのことだかわからない。
蒼は恐らくあの男のことだろうと予想がつくが、遺物やら動くやら、どうも自分を何か別のものと勘違いしているのではないとしか思えない。
その空気が伝わったのだろう、ニーアの笑顔が一瞬固まった。
「……面倒ごとかしら?」
利緒の疑問に、ニーアはなにか良くないものを感じたようだ。
(……なんなんだろう?)
何がどうなっているのか理解できていない利緒は、布団の上に手を置いてとりあえず何をいうでもなくニーアをみる。
そんな利緒の視線を気にすることなく、ニーアはなにかを考えている。
そしてそんな2人を青い髪の少女、アニマがじっと眺めていた。
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