『黄の章』第20話:噴水と怪しい男
「おー、なんだこれ。うわー、すご」
重力に逆らい上へと登っていく水に手を触れる。
落ちる様をまま逆再生したかのよう。
下から、という違和感があるものの、それが自然であるかのように、淀みない流れだった。
透明な水は光を反射して、キラキラと光る。
薄暗い森の中、この場所だけが宝石のように輝いていた。
水が落ちているわけではないのに、上昇する水の起こりで水飛沫が上がっていた。
半径5mほどの円形に石が組まれており、利緒の身長よりも高く水が登る様は幻想だ。
周囲を確認するべく、噴水の周りを歩いて回る。
特に飾りなどは付いていないが、噴水口は綺麗に磨かれていた。
触り心地はどのようなものかと考えながら、ヘリの上に立つ。
濡れずに届くような距離でもなく、どうしたものかと考える利緒の背後から声が聞こえた。
「何をしている?」
「……え、うぃぃ、す、すみません!面白い噴水なので!」
後ろからの急な声に、少しばかりバランスを崩しかけるが、思い切り反動をつけてヘリから降りて、そのまま勢いよく振り返り頭を下げる。
地面をみて、謝る必要が無かったことに気がついて、また水に落ちかけるという失態に顔が熱くなるのを感じた。
だからと言っていつまでも頭を下げているわけにもいかず。
「謝ることなかったですね」
顔を上げ頭を掻きながら、照れ隠しに笑った。
利緒が声の主人へと目を向けると、そこに立っていたのは、白髪の男だった。
青年という歳は超え初老へと差し掛からんという風貌で、伸びた前髪の間から覗く左目の眼光に、利緒は深い闇を感じた。
(闇ってなんだよ)
心の中で苦笑いして、自分で自分の感想に突っ込みを入れる。
とはいえ、男はそうとしか形容できない、今まで感じたことのない異質、これを表す言葉を、利緒は他に知らなかった。
「……噴水が面白い?」
利緒の困惑をよそに、男は口を開く。
男の声に利緒は我に返った。
「あ、えっとですね、この噴水水が上に登ってるんです」
「そうは見えないが」
「え、うそ?」
面白いでしょう、と答えるも、男の即座の否定に年上を敬う言葉遣いが消し飛んで変な声が飛び出した。
振り返ると、確かに噴水の動きが止まっていた。流れていた水は、空中で止まっていた。
「【刻に真なる渦白波】」
呆気にとられる利緒の横を男が通り過ぎた。
噴水に近づいて、揺れたままの形で停止した水面を覗き込み、男が呟く声が聞こえた。
予想外の光景に、しかし重力に逆らうにであれば止まることもあるだろうと、男に続いて利緒も噴水へと近づいた。
逆流していた時と同じように水に手を触れる。
利緒の指が通った箇所に穴が空き、触れた水は除けた先で固まっていた。
穴を開けて引き抜いたその手に水は付いていなかった。
「どうしてここに」
水面眺めたまま、男は声を吐き出す。
その台詞には主語もなく、誰宛という指向性もなく、急な言葉であったために、利緒はそれが自分への問いかけと思わず沈黙がその場に訪れた。
少しして、これは質問なのだと気付いて利緒は慌てて返事をする。
「至王に探検でもしたらと言われて、なんとなくこの部屋に来ました」
「至王……アッカイリティロイか。あいつは何をしているんだ」
「えーと、何かまずかったですかね?」
はぁ、とため息をつく男に、自分の行動が正しくなかったのではないかと不安になる利緒。
質問に対して、回答がなかなか返ってこず、沈黙が心を締め付けた。
しばらくじっと水面を覗き込んでいたようだったが、そのうちに男は顔を上げた。
「……いや、噴水が上に登ると言ったな、ならいい」
顔を持ち上げ利緒の方を向く際に、男の前髪に隠れた右目に大きな傷があるのを利緒は見た。
相変わらず、深い虚を思わせる左目と合わせて、思わず唾を飲みこんだ。
「アニマに会うことがあれば、先に行っていると伝えてくれ」
「アニマ?」
「青い髪の、お前より小さい娘だ。ボロ布を羽織っている、見ればわかる」
利緒が思い浮かべた青い髪にボロ布の特徴に当てはまるものは一つしかない。
《仙客》アニマ。試練へと拉致される直前に話題に上がった蒼のカード。
マギニアで大立ち回りをした彼女に対して先に行くというこの男は一体何者か。
「……あなたは誰ですか?」
緊張に、声は低くなり、わずかに震える。
この世界で利緒の敵う相手はまずいないという自負があった。
それと同時に目の前の男は、ついでのように利緒を倒してしまえるだろう、という不思議な確信があった。
ひどく後ろ向きな思考もあって、全身に力がこもる。
しかし、そんな利緒とは対照的に、男はもはや利緒を見ていなかった。
まるで興味なしと、そのまま立ち上がり森の中へと続く道に入っていった。
その後ろ姿が見えなくなって、ようやっと利緒は息を吐いた。
足が震えて、思わず尻餅をついた。
「怖っ」
どうにか吐き出せた言葉はそれだけだった。
暗い森に噴水の側と幾分にも涼しいにもかかわらず、顔から汗が雫となってこぼれ落ちる。
利緒は座ったまま、男がいなくなった方向をただ漠然と見つめる。
噴水は、いつしかまた重力へと逆らって、上へ上へと流れていた。
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