第81話 What's Up?
天幕を出たヘインズは、のんびりと歩く女人を盗み見ては、胡乱な目を向けていた。なぜかといえば、その娘が歌を口ずさんでいるからだ。
「And I realized quickly when I knew I should. That the world was made up of this brotherhood of man――」
呪詛を身に宿すと告げられていながら歌える神経が理解できない。理解に苦しむ。奇々怪々すぎやしないか? と、思ってしまう。
むろん、彼女の言語など解せるはずがないし、歌詞の意味も分からない。だがしかし、ヘインズは自他ともに認める良識人であり、常識人でもある。皮肉を好む類とはいえ、この娘の独特な価値観と感性は、とうてい理解できそうにない。
あの後、ディクシードの名で箝口令が敷かれた。天幕を出て以降は、いっさいにおいて、会議内容を口外できなくしたものである。作戦の詳細はもとより、ボルコフの謀略や、呪詛の件も適応される。同時に、兵の統率についても主君が宣言することとなり、小町の望んだ二つの確約は、ディクシードの名のもとで果たされる格好となった。
そしていよいよ、国守と彼女の謁見について検討が始まると、武将らは皆、積極的に思案と議論を重ね、小町の身に配慮を示した。彼らが信じたか信じないかは別として、国守が人を呪ったなどと前代未聞の話で、議論するに値する問題だったのである。唯一、信心深いコーエン卿だけは、呪詛の経緯について説明を求めたが、主君も小町も多くを語りたがらず、パリスが小町の裂傷について呪詛の反動ではないかと証言したことで、表立って追及することはなくなっていった。
そうして議論を重ね、最終的に、智将と誉れ高いセレジオ卿が、主君にこのように述べた。
「コマチ殿の御身は案じております、殿下。逸るお気持ちも察せられましょう。しかしながら、王都の耳に入るのが事後であったとしても、国の舵をとる者を蔑ろにしてはなりません。殿下がまことに信を置く者をお立てになるべきです。それも、王都や兵のみならず、民からの信あつい者が望ましい。誰もが一目置く人物をお立てになるなら、しかるべき対処はしてあったと建前も通りましょう。中立者として、御仁をお立てになるべきと存じます」
謁見の際、御仁を帯同させるべき、と進言したのである。要するに、アタナシアの要たる泉に、どこの誰ともわからん娘を単身で向かわせるのは避けたい。主君が同行するとしても王都へは角が立つ。王都の重鎮どころか、国民や兵の信頼あつい御仁を同行させるなら、表向きの建前も通るため、例外的に認めてもいい、というものであった。
仮にそうなれば何らかの責任を追及された場合でも、御仁を筆頭に立てた上で、この場にいる武将達で小町を擁護することも可能となる。国境地を預かる辺境伯、兵力を誇るフォーセットの男爵、軍の中枢で名を馳せる智将、アタナシアにその人ありと遠国に名を轟かせる御仁。これだけの有名どころが揃えば、いくら王都といえど、そう簡単に斬り捨てるわけにもいくまい、とセレジオ卿は弁をたてたのだった。
そして意地の悪い笑みを浮かべ、このように付け加えた。
「ボルコフという男もまた、名だけは通ってある。是非とも巻き込んでやりたいが、いかがか、コーエン卿」
つまるところ、逃げた男の名声だけを拝借してやろうと言うのだ。名声だけ。
これに対し、他の武将三名が乗っていくことになった。
「こちらの頭数を増やし、なおかつボルコフめに一泡吹かせてやろうと申すか。さすがセレジオ殿、悪くない案だ。ならば殿下、御仁をお立てになられるのであれば、このコーエンに異存はございません」
「右に同じと申し上げておく。イサーク・フォーセット・ダニロ、領地の名に誓ってもよい。王都への建前など気にもならんと言いたいが、中立者を立てぬままとあれば、領地を取り上げる口実を連中に与えるようなものだ。避けて通る道があるなら通りたい。殿下、御仁をお立てになられよ」
「ふむふむ。貴殿らが納得の上であるなら何ら問題はない。もとよりコマチ殿の御身のためだ、不服はござらんのでな。このブライバス、その任、つつしんでお受けしましょう」
ディクシードが即断で是と答え、国守との謁見についても武将四名が認めたことになった。ボルコフ一派はすでに四名分の判断をディクシードに託してあるため、小町の欲しかった確約は、三つ全て得たことになるのだ。
そうと決まれば、さっさと天幕に戻って休んでいただこう、とヘインズは思い、呪詛を宿した娘に退席を促した。するとどうしたものか、それまでしおらしかった娘が、妙なことを言い出した。
この場にいる人を一人残らず“師”と仰ぎ、学びたいことがある――
あまりにも的外れで、突拍子もない発言であった。
当然ながら、何の話かと誰もが訝ったが、彼女は臆することなく武将達を順に眺め、学びたいと思うものを挙げていった。
――コーエン伯爵様からは、弓を。
――ダニロ男爵様からは、戦斧を。
――アーセル男爵様からは、軍略を。
――おじ様からは、アタナシアの歴史と文明を。
――ハンソンさんは、信仰と聖騎士について。
――剣と楯は、両翼から。
まさに怒涛のごとく。怒涛のごとく列挙し、彼女は最後に、ディクシードを見やって言うのだ。
「あなたからは文学を学ぶわ、ディックス。それから、金銭の管理方法と、通貨に関しても教わる必要がある。働き口を探してもらおうと思ってるから、そのつもりでいて」
事実上の、離別宣言であった。いつまでもあなたの世話にはならない、自立するために武装がしたい、と。
一方的に告げ、彼女は席を立った。ディクシードの返事を待たず、また逃げるのかと声を荒げるパリスにも答えず、黙ったまま席を離れたのだ。それでもパリスは食い下がったが、最終的にヘインズが間に入り、パリスを制することになった。
制した理由は二つ。一刻も早く彼女を休ませたかった。そしてもう一つ、彼女がなぜ離別を選んだのか、察せられたからだ。
遠い昔、御仁の元から離別を選び、去ってしまった女性がいた。きっと同じ理由ではないかと思ったのだ。
何事もなかったかのように天幕を出ようとする小町に、今度はダニロ男爵が声をかけた。どこか呆れた風で、どこか不機嫌そうに。
「最後まで泣き言の一つもなしか。まったく、可愛げのない娘だ。……一つや二つ、言っていったらどうだ」
ムッツリとした表情はそのままだが、小町を見据える様が返事を待っているようにも見え、さしもの彼女も驚いた様子で足を止めたのである。
「……憂いはないのか」
猛将らしく核心をつく問いであった。
これに対し、小町は自嘲じみた薄笑みを浮かべ、小さく頭を振った。ないと言えば嘘になる、と。
「これでも、さんざん悩んだんです、男爵様。私自身、どうしてここにいるのか、どうして帰れないのか、どうしてこうなったのか……分からないことばかりなんですもの」
「…………」
「実を言うと、ディックスに八つ当たりしたこともあるんですよ。これは夢で、あなたは夢の世界の住人なんだと……ここに来たばかりの頃は、そんなセリフばかり口にして、現実から逃げようと必死になっていました。その方が楽でしたから。……でも……あのセリフで彼をどれほど傷つけたのか……今は……後悔しかありません。楽な道を選んだ結果、親身になってくれた人を傷つけただけでした。憂いが晴れることもなかったですし、道が開くこともなかった……。どうなってるんだと叫んだところで、結局なにも変わらなくて、後悔だけがささくれのように残りました」
「…………」
「だから……むやみに足元を見ないようにしています。動けなくなってしまいますから。……必要な時になるまで、あまり見たくありません。……泣き言を口にする暇があるなら、できることに目を向け、綱渡りでもなんでも……着実に進んでいく方がいいの。その方が、ずっとずっと私らしくて、それでいいと思うようになりました」
そう思えるようになったのはディクシードのおかげなんだと、彼女は微笑を浮かべて言う。お前らしいと言われるたびに、前へ進める気がする。彼がいなければ、ここへは辿り着けなかった、と。
「ディックスには、感謝してもしたりない恩があるんです。どうにかして報いたいのに、どうすればいいのかも綱渡りで……。今の私は、自分の足元よりも、そっちの問題が気がかりなんですよ、男爵様」
妃になんてなりたくないですし……と苦笑する彼女に、ダニロ男爵は奇妙なものを見るような目を向けていたが、やがてフンッと鼻を鳴らした。
「悩むほどのことか。己の務めを全うするればよいだけのことだ」
「……その務めというのは、明日の討伐のことでしょうか? 報いることになると?」
不思議そうに問う小町に、ダニロ男爵はいかにもだと頷き、そんなことも分からんのかと言いたげに横目を向けた。
「貴殿に預けるのは兵の意思と我らの誠意だ。みごと帰還を果たし、転じた士気を殿下に返せばよい。貴殿にしかできまい」
「…………」
猛将らしい助言だとヘインズは思った。
惚れた腫れたは関係ない、無事に帰還することこそ主君に報いる術――
激励のようにも聞こえるセリフで、賢い娘もそう捉えたのか、引き締まった表情で頷いたのである。
「必ず帰還します、男爵様。報いるためにも」
深々と武将達に一礼をし、彼女は天幕を出た。
そこから彼女の歌は始まった。最初は鼻歌まじりに。やがて、歌詞を口ずさむようになった。
「And so I wake in the morning and I step outside. And I take deep breath and I get real high. And I scream from the top of my lungs. What’s goin’ on――」
順当に音を刻むかと思えば、見当違いなほど外れたり、突然、声が裏返ったり……
彼女の音感が狂っているのか、はたまたこういう曲調であるのか、ヘインズには全く分からない。とにかく、芸に富んだ平和そのものといった呑気な調べである。
「何という歌ですか、コマチ殿」
箝口令がしかれた手前、会議内容を口にするわけもにいかず、ヘインズは妥当な話題を出した。すると彼女は涼し気に笑んだ。
「“What's Up?”というんですよ。戦う女性の歌」
「戦う女性……ですか?」
訝るヘインズに、小町はなおも笑みを浮かべて言う。男社会と戦う女性だ、と。
「世の中って、男の人の価値観でつくられているでしょう? だから、女性が生き残るのは難しいんです。でも彼女は、多くの不満や矛盾を“希望の丘”に例えて、登りきってやろうとするの。“どうなってるんだ”って叫びながら。……すごくかっこよくて、私、大好きなんです」
ちょっと古い歌なんですけどね、と付け加え、彼女ははにかんでいた。
いやいやいやいや――
聞かなければよかったとヘインズは思う。この呑気そうな調べが、男社会への不満を叫んでいるというのだ。そんな歌など聞いたためしがないし、そんな女がいたとして、全くかっこいいとも思えない。
この娘の感性はやはり理解できそうにない。
どうなってるんだと叫びたいのはヘインズの方であった。
◇◇◇◇◇◇
ディクシードの天幕に戻ってみると、野営地に来てから、とんと姿をくらましていた白猫が、寝台の上を陣取って小町を待ち構えていた。
何やら容器らしきものを口にくわえており、二人が近付いた途端、面倒くさそうに腰を上げ、面倒くさそうに小町の足元までやって来るのだ。そしてまた面倒くさそうに見上げたかと思うと、口のものをこれ見よがしにペッと放り出し、転がった品物をこれまた面倒くさそうに尻尾の先で小町の方へ押しやってみせる。
一連の流れは妙に気品があるが、目つきは非常に悪い。
「ずいぶんと横柄な……いえ、失礼しました。聖獣らしい聖獣だと思いまして」
と言い訳するヘインズに、小町はついつい笑ってしまった。
「近衛がこっそり、“殿”と呼んでいるんですよ。灰猫が“姫”。似ているそうです、ディックスと私に」
「……それはまた……返答に困りますね」
言いながらもヘインズは可笑しそうに笑っている。
一緒になって笑いつつ、足元に転がった容器を拾い上げた小町は、その容器を上下左右に傾け、じっくり眺めてみた。
人差し指ほどの小さなガラス製の容器だった。精製水のような濁りのない液体が入っており、傾けるたびにサラサラと流れ、重力に応じている。
「なんでしょう、これ。……水、かしら?」
小町が呟くと、ヘインズは白猫と容器を交互に見やりながら、少々考え込み、泉の水ではないかと口にした。
「泉の? 国守様がいらっしゃる、あの泉ですか?」
答えたのは白猫であった。長い尾を打ち付け、肯定の意思を示したのである。つまり、ガーデルードの泉水。
会議に向かうにあたり、灰猫と小町のやり取りを見ていたヘインズは、聖獣との意思疎通の方法を承知していた。白猫の正面に膝をつき、試しに一つ問いかけてみる。
「白の聖獣殿にお聞きする。この泉水を望まれたのは殿下か」
再び白猫は尾を叩き、肯定を示した。この泉水が何を目的としたものであるのか、ヘインズには明白となった。となれば、以降の話は箝口令の対象となる。天幕の中とはいえ、周囲の人払いは必須。
ヘインズがそのように説明すると、小町は直ぐに呪詛の件だと思い至り、是非にと頷いた。そこでヘインズは表へ向かい、人払いを命じて戻ってくると、小町に寝台へ座るよう促し口火をきったのだった。
泉水の正体を明かすにあたり、まず彼が知りたかったのは小町の知識量である。泉に関する知識を彼女がどれほど有しているのか、慎重に言葉を選びながら問いを重ねていく。
小町も二つ三つ答えるうち、ヘインズが何を知りたいのか理解でき、問われるよりも先に包み隠さず答えるようになった。簡潔に答えるのではなく、どのような経緯でその知識を得たのか、誰からどんな風に聞いたのか、その時の状況や気分をできる限り思い出し、自分の知識がどれほど乏しいかを把握してもらう。
「であれば、泉の底は覗かれましたか?」
小町は首を振った。
「国守様に、生気を食べられたあとでした。めまいや頭痛がひどくて、ディックスの手を借りて休んでいたんです。泉の底はおろか、近付くこともできませんでした」
「では……泉の意義についてですが、どなたかにお聞きになっていらっしゃいますか? あの泉はアナタシアの要。国守はその守護者にあたるのですが」
「そちらも存じません。ディックスが確か、泉の周辺だけ夜が明けないと言っていたように思います。月の加護だとか、神が作ったとか……よく覚えていませんけれど。……でも、国守様の役割については、ディックスや近衛たちの会話から、泉を守っているのではないかと漠然と捉えてあります」
考察も含めて答えると、ヘインズはしばらく黙り込んでいた。どう説明したものかと考えているようだった。
「それではまず、ガーデルードの泉は“建国の礎”であると覚えていただきます」
「建国の、礎?」
「泉の底に眠るのは、対価の石。建国から以降、有志達の志を宿した石が、数多く眠っております。言い伝えでは、泉をたたえる濁りなき水に、神自らが“維持”の呪いを施し、対価の石に宿る効力を持続させたとも言われている。……神の意思たる泉水をわれわれは“維持の水”と称し、国守とともに泉そのものを守り続けているのです。単なる言い伝えではないと解釈していただきたい」
維持の呪い……
神の意思……
対価の石……
「でしたらこれは……維持の呪いを宿す泉水……」
その通りだとヘインズは頷いた。
「その水を得るとなれば、相応の対価が必要となりましょう。たとえ少量であっても払わねばなりません。あなたに覚えがないのであれば……殿下が払ったということになる。あなたのために殿下が水を得たのです、コマチ殿」
「………………」
「呪詛を解くほどの効力はなくとも、呪詛の状態を維持させることで、一時的に進行を止めおくことは可能となると……おそらく殿下は、そのおつもりで水を得たのではないでしょうか。心の底からあなたの身を案じ、一縷の望みを泉水に託されたはず」
小町は、手のひらの容器を見下ろした。
ディクシードは……この水を得るために……あの髪を差し出したのだろうか……
あの美しい……金糸のような髪を……
ひんやりとした冷たいガラスの感触が、ディクシードのように感じられ、小町は知らずそれを胸元に引き寄せていた。
そんな小町の様子を認めていたヘインズであったが、表情は険しかった。彼女には信仰の師にと言われてあるのだ。師であるなら戒めは必要と考える。どれほど辛かろうが、知ってもらわねばなるまい。
「その水は、あなたにとって救いの水と言えましょうが……ですが我々にとって、維持の水である前に、“法の水”でもある。決して飛躍ではなく、ガーデルードの泉こそがこの国の法だと言っても過言ではありません。……泉の底から一つでも石を奪われたが最後、この国がどのような道をたどるか想像していただきたい」
ヘインズは言う。
少しの水、たったの石一つ、と軽々しく考えるな。
水を少しだけ、石を一つだけ……
また少し、また一つ、もう一つ、もう二つ、三つ……
そうやって、ガーデルードの泉が水と石を失っていけば……
この世の秩序も失われていく。
大気は汚れ、水は濁り、建造物は倒壊し、動植物は絶えていく。待ち受けるのは混沌となる。
これは決して飛躍した例え話ではなく、言い伝えでもない。聖ペルカストロ大聖堂を思い出せ。あの建物は対価の石によってその姿を現し、泉の水によってその姿を維持し続けているものの一つなのだ。だから決して軽く捉えてはならない。
幼き日のヘインズとて、そう言われて育ってきた。誰もが皆、同じように教訓を説かれながら、信仰とは何かを学ぶ。騎士となった者は特に、まことの泉の役割を学ぶようになり、職務を重責と考えるようになる。
単なる、信仰の話ではない。
時として信仰は、真実を捉える映し鏡となる。
「泉の底に眠る有志達の中には、わが主人、ブライバスの石もございます。もし仮に、あなたが我らの法を侵すことがあれば、私とて容赦は致しません。私だけでなく、全ての兵や民が、あなたを害敵とみなすことになる。決してあの泉には関心を持たれますな。……よいですね、コマチ殿」
「……はい」
戒めを説きながら、ヘインズは、会議での主君の言葉を思い出していた。あの方は、彼女のことをこう言っていたのだ。
――いずれ時は満ちる。その時が来れば、国守も私も、その娘を獲りにいくことになる。その娘を欲する者すべてが、それの眼前に立ち塞がることになる。貴様らも兵も、なにもかもを道ずれにしてな。
果たして、この娘が泉を侵すことを指しているのか、時が満ちるとは何を指しているのか、分からないことは多くある。それでも、ヘインズは知っているのだ。彼女の中に狂気があることを。
彼女自身が、ヘインズに打ち明けてくれた。
――頭に血がのぼると……我を忘れてしまうんです。自分が怪力だとか、そういう事が……すっかり飛んで行ってしまう……
思い知らせてやると思える狂気を、彼女はすでに自覚している。力に溺れてしまう狂気に気づいている。そしてまた、彼女のまわりには狂気を制する術を身に付けた者が、多く揃っているのも事実なのだ。ヘインズとて、そのうちの一人に挙げられることだろう。
ならば、正しき道の先へ、彼女を導かねばなるまい――
ずいぶんと前に忘れていた志を、この時のヘインズは改めて思い出していた。彼の主人が唯一、妻にと望んだ女性を思い浮かべながら。
そんな時だった。
か細い声が、その女性と同じセリフを口にしたのは。
「住む世界が違うんです、ハンソンさん。ディックスと私は……住むべき世界が違う」
それはそれは、消え入りそうな声だった。何のことかヘインズには分かった。なぜ彼女が第一王子との離別を選んだのか、その理由であろう。
「私は彼に……何もあげられないの……。だからせめて……友人として傍にいようと思っていたのに……友人ならいいと思っていたのに……」
「思い知ったのではないですか、コマチ殿。あなたが傍にいることで、殿下の目が曇ると」
力なく小町は頷いた。
「少し前から気づいていたんです。近衛ともめた時も……あの暴走も……この水もそう……。このまま一緒にいたら……あの人の大事なものを……私が、何もかも奪ってしまう」
やはりだった。やはり彼女は、御仁が愛した人と同じ理由を口にした。否応なくヘインズの中の女性の影が、小町と重なっていく。
「あなたはまことに、生まれ変わりかもしれない。アンブロシアの……」
寝台に腰を下ろし、ヘインズは小町の背を撫でた。
離れなければいけないんだと譫言のように口にする彼女は、離れがたそうにガラスの容器を胸元に抱え込んでいた。
◇◇◇◇◇◇
天幕を目前にして、ランバートはブチ切れた。やっとこさ夕食にありつけると思っていたのに、主食たるパンを根こそぎ食われた、と副官に告げられたからだ。
「あんのクソ猫どもっ、どこへ行きやがった! 許さんっ、絞め殺す!」
「いやいやいや、あなたが干からびますから」
「余ってないか見に行ってるんで、辛抱して下さいよ」
「肉も頼んでますよ、肉も。まあまあ、隊長――」
「何がまあまあだ、ガッセ! テメェの腹も肉なんぞで満足せんだろうが、ボケッ! 米もってこい、米をっ」
「ムチャ言わんでくださいよ、もともと米は持ってきてないでしょうが!」
年長組が説得と足止めを試みるが、腹をすかした野獣は手に余るのである。これを見たパリスは、ほれ見たことかと鼻で笑う。
「だから言ったのです、先に食べておけと。コマチを避けるあまり自分の胃も避けて通った結果です。自業自得でしょうに」
「うっせ、くそパリス! あのくそ猫ども、丸焼きにして食っちゃるっ! 出て来やがれ!」
アホめとパリスは思ったが、丘を登り始めた主君を見届けると、ランバートの相手もそこそこに、己の職務に戻るのである。
我らの主君にも食事が必要で、むしろ野獣の錯乱など可愛くさえ思えた。
ランバートの怒鳴り散らす声は、丘の上まで届いていた。猫達の戯れをホッコリしながら眺めていた小町は、ついつい口元が緩む。年長組はたいそう手を焼いているに違いなかった。
ほどなくして後方から影が近づき、小町は再び口元を緩めた。
「……狼の姿を期待してたのに」
「どうしてそうなる」
やはりディクシードだった。
「あなたといるとね、頭巾をかぶりたくなるの。あなたの正体は、灰色狼」
鼻がきくのはどうして? 耳がいいのはどうして? 足音がしないのは? 何を食べているの? 眠らなくて平気なの?
まったくもって赤ずきんの気分を味わえる。自分で言いながら可笑しくなって、小町はクツクツと笑う。
「私のどこが灰色だ」
「あら、狼は否定しないのね。いい線いってるみたい」
「…………」
結局、ディクシードは否定しなかった。普通の人ではないから、だから否定しないのだろう。
隣に並んだ麗人に、あちらの世界の話をした。童話や神話も好きだが、迷信や伝承も好物で、ずいぶん前に本の虫になったこともあるし、その手のドラマや映画、ドキュメンタリーは、いまだに好んで見る。小町の持つイメージは、そういった世界観から生まれるものだ。
灰色の毛並みをした美しい狼。ディクシードのイメージにぴったり当てはまる。
強さ、美しさ、気高さ、賢さ、尊さ……
群れ、狩り、スタミナ、情愛、孤独……
悪の化身、神の使い……
もしも人狼がいるなら、きっとディクシードのようだと思うのだ。
「勝手なイメージなんだけどね」
小町がのんびり話すのを、ディクシードは静かに聞いていた。普段よりもずっとずっと、柔らかな雰囲気で。
「水は受け取ったか」
「……ええ、白猫からもらったわ。あなたが頼んでくれたそうね」
「維持の水だ。飲んだのか」
「まだよ。塗ればいいのか飲めばいいのか分からなかったから、あなたに聞いてからにしようと思って。まだここにあるの」
そう言ってズボンのポケットをポンポンと叩く。
「対価は……あなたの髪、かしら?」
「いや、髪ならまだここにある」
今度はディクシードが胸元をトントンと叩く。
泉水は国守からのお礼の品だそうで、ディクシードはただ単に、小町への礼を先に寄こせと白猫を使いに出しただけらしい。よって対価は不要とのこと。
対価が彼の髪でなくてホッとした小町だったが、ディクシードが“まだ”と言ったのが気になった。つまりそれは、そのうち使う予定があることを示している。
だが小町は、あえて問いたださなかった。なんとなく、どうやってその髪を使うつもりか、察せられたからだ。
「お礼って……感謝されるようなことしたかしら……」
「生気を食われたはずだが」
「あ、その件ね」
すっかり忘れていた。文句を言ってやるつもりだったのに。
「サーベルいわく変わった馬の餌だと言っていたが、その水はお前にも使えるものだ。その身体は泉の底で眠らせておいた。維持を目的としてな」
「……そうだったんだ。じゃあ、この裂傷は、維持の効力が落ちてきてるってことになるのかしらね。……って、ちょっと待って。いま馬の餌って言ったけど、この水って、バイクの燃料にもなるってこと?」
「どうやらそうらしい」
お前の身体には気休め程度の効力だろうが、というディクシードのセリフを、小町は上の空で聞いていた。
燃料なら、あっちの世界から出しておいたけれど、もし仮に、燃料以外のものにも維持の効果が期待できるなら、整備の心配は無用になるのではないか、と思い至ったからだ。
バイク好きの小町にしてみれば、整備も楽しみの一つではあるが、この世界には部品もオイルもなく、整備用の工具すらない。ダート走行と整備は切っても切り離せない関係なわけで、以前から抱えていた心配ごとの一つでもあった。
「試してみろ。数滴バイクに与え、残りを飲めばいい」
ディクシードのセリフが脳内でリフレインする。
「数滴でいいの?」
「試すか」
「どうしよう……、誘惑に負けちゃいそう……」
正直に吐露すると、ディクシードはわずかに口角を上げ、さっそく試すかと言わん様子で踵を返した。
「待って、ディックス。その前に、さっきの答え合わせが先よ」
立ち止まったディクシードの髪が、サラサラと風にそよぐ。白銀色の月光を浴び、さながら灰色狼のように。
「もう……隠す気はないんでしょう? あの赤い目、すごく……綺麗だった」
小町がそう言うと、ディクシードは僅かに視線を落とし、小町に向き直った。
「狼ではない……魔族だ。私には、魔族の血が流れている」
「…………」
「お前に嘘をついた。この国に魔族はいないと教えたが、ここにいる」
ディクシードは言う。私は忌み子だと。貪欲に力を欲した先王――ダグラス二世が、禁を犯して産ませた子が自分だ、と。
つまり彼は、昼の長たる人間と、夜の長たる魔族との間で、生を受けたというのだ。人種間の混血児ではなく、そもそもの生態が異なる異種間の混血児。ディクシードと彼の妹は、この文明国アタナシで、異質な存在として生まれ落ちたのである。
「でもあなたは、第一王子を名乗ってる。先王の子ではなく、現王の子として」
小町の解釈では、この国の王位継承順位はイギリスと大差ないものだったはず。国王の直系であり、なおかつ長子先継であること。非嫡出子は継承権から除外されること。
パリスの話を総じる限り、イギリスと違う点といえば、女性には権利が与えられないことぐらいのものだったけれど、それはとっくに承知している内容でもあった。男尊女卑の価値観がこの国の根幹にあることなど身に染みていた。
ダグラス二世が先王と呼ばれることから察するに、当人が他界しているのは明白である。そして現国王はそのダグラス二世の嫡子。となれば本来であれば、ディクシードの王位継承順位は何番目かになるはずであって、決して筆頭ではないはずなのだ。だがしかし、ディクシードはなぜか王子を名乗るのである。先王ダグラス二世の孫にあたる――現王ハイル三世の第一子を。それはつまり、王位継承順位筆頭の第一王子という身分にほかならなかった。
いったい、どういうこと?
この疑問に対するディクシードの答えは、小町の想像を絶する内容であった。
ディクシードの母親は、魔族であることをひた隠し、人の世でひっそりと暮らす女性であった。たび重なる戦火の中で捕虜となると、あまりの美しさにダグラスの目にとまり、嫡子の妃にと望ませるほどであった。
ダグラスは執拗なまでに彼女の素性を調べあげた。そうしてついに出生の秘密を探り当てると、渋る彼女を有無を言わさず王城へ上がらせたのである。
同時に、すべての事実を隠蔽した。魔族である女をあたかも人間と偽り、思惑通りに己の嫡子にあてがえ、まんまと正妃に仕立てあげた。そしてさらに……あまつさえ息子の妃となった彼女を、己の欲望のままに犯し、孕ませたのだ。
ダグラス二世は、はなから息子の子供など望んでいなかった。麗しき魔族から生まれ落ちる赤子には、息子の血ではなく、己の血が流れていなければならなかった。そのために彼女を人だと偽り、息子にあてがえただけ。
そして生まれ落ちた赤子が、ディクシードだ。赤き目と緑の目を持ち、人ならざる力を有し、欲してやまなかった力をダグラスにもたらした。思惑通りに。
味をしめた先王は、再び息子の妻を犯す。そこにエフィオラ姫が産まれた。だがしかし、ダグラスにとって二人目の赤子は失敗作。人の血と魔族の血が抗い、乳飲み子の頃から体調を崩していた。
そしてまた、その頃には周囲の誰もが訝るようになっていた。王太子はまことに人の子なのかと。
それでも先王は、己が禁忌に手を染めた事実を隠し続けたのである。事実を知る者を排除し、噂をささやく者は極刑にする。そうして誰もが口にすることをやめ、もはや事実そのものが禁忌となった。二十年以上たった今もなお、王都は先王が犯した罪を知りながらも、それを認めることはない。
つまりディクシードは、“先王の忌むべき実子”でありながら、アタナシアの現王――ハイル三世の第一子という身分にあるのだ。現王の実子が戴冠を迎えるその日まで、彼は偽りの身分を名乗り続けねばならない。それが王都との取り決め。
「……あなたのお母様は……」
「エフィオラを生んですぐだったか。正気を失い、数年して逝った」
エフィオラ姫もその後他界――
ディクシードの肉親は、もういない。同じ血を分けた妹も、彼を生んだ女性も……もういない。
魔族の血を継ぐ人間も……ただ一人、ディクシードだけ。
「エフィオラも……王都とダグラスに奪われた。私を傀儡にするための餌としてな」
彼は言う。ダグラスの首はこの手ではね落とし、母と妹の無念は晴らしたと。
「だが、エフィオラが亡きいま、王都の懸念は一つだ」
「……あなたの謀反ね……。あなたを傀儡にするために材料を探してる。人質にできる女性を……」
ディクシードは頷き、わずかに目を細めて小町を見た。
「お前を餌にはするまい。私のように、傀儡にもなるな。好きなことをし、好きなように生きろ。それがお前には似合いだ」
「……………………」
「消えるなとは言わん、消させんとも言わん。私にはサーベルを凌ぐほどの力はない。……ただ……生きていればいい。どんな形でも、地の果てでも……お前さえ生きていればいい」
そう言ったディクシードの指先が小町の頬に触れる。確かめるように彼の親指が小町の頬の輪郭をなぞる。温もりを求めるかのように。小町がそこにいることを、確かめるかのように。
「生かすためなら、何度でも手放してやる……何をしてでもお前だけは生かす――」
――お前は、私の光明。唯一無二だ。
ディクシードはそう言った。
前にも同じことを言われたのに、小町の中で、違う感情をもたらす言葉になった。
重く、生きろと響く――
「見せて、ディックス」
あの目を。
あの美しい赤光を。
小町の求めに、ディクシードは答えた。エメラルドの瞳が琥珀色にかわり、しだいに赤みを帯びていく。
やはり美しかった。
「……今みたいに、見せてくれとせがんでたのね、私」
「……見たのか」
「夢の中でね」
過去を見た。ほんの少しだけ、小町が知らない、小町とディクシードの過去を見た。
「あなたの目は宝石だわ。……ずっと、エメラルドだと思ってたけど、でも――全然違う。違う宝石」
彼の瞳はガーネット。
一月の誕生石。ケヴィンの石。別名、柘榴石。
ケヴィンは安いからと謙遜していたけれど、小町は昔からその石のピアスを持っていたし、何より宝石の中では一番好きで、ケヴィンよりも知識があった。その石が忍耐と精神を司り、信頼と情熱をもたらす石だと。ブルーを除く全ての色があるのだと。
中でも、グリーンに輝くデマントイドという種類はダイヤよりも強い分散光をもつのだ。馬のしっぽを連想させる特徴的なインクルージョンを描くものもあって、良質ともなれば稀少価値は驚くほど高く、高額となる。エインズワース家に出入りする宝石商の話では、滅多に市場に出回らず、コレクター間で取引されると聞く。
だが、以前から小町が気に入っていたのは、デマントイドではなかった。マンダリンオレンジのような色合いのスペサルティンという種と、暗赤色や紫赤色といった豊かな赤色を持つパイロープだ。スペサルティンは小さい頃からピアスとして持っていたし、そのピアスがきっかけで宝石商とも親しくなれた。ケヴィンの誕生石がガーネットだと知ってからは、パイロープやデマントイドのピアスも作ってもらい、デートの時によく付けていく。
ちょうど今のディクシードの瞳は、赤よりもオレンジに近いスペサルティン。昔から持っていたピアスの色――
「ガーネットか……。お前はそう言っていったが」
「……私が?」
「母の誕生石だと、母の耳飾りと同じ色だと喜んでいた。……今もそう思うか、この目を見て」
母の……耳飾り……
じゃあ、あの古いピアスは……母の……
正直、連想すらしなかった。
母の誕生石だと、今の今まで気づかなかった。あのピアスが母のものだということも……
でもやはり、ディクシードの瞳はガーネットだと思う。
普段の透き通る緑はデマントイド。怒りを示す深い赤はパイロープ。中間の、赤みを帯びたオレンジがスペサルティン。
「もしもね、もし私が妃になると答えていたら、あなたはどうしてた?」
あくまでも仮定の話で、あくまでももしもの話だ、としつこく付け加えると、彼は小町の頬から手を離し、さも可笑しそうに口角を上げて笑んだ。そうして案の定、拒むとキッパリ言い切るのだ。お前にその気があったなら妃になれとは言わなかった、お前を妃にはするまい、と。
やっぱりね……
小町も笑んでいた。彼はそういう人だ。
大事なものほど傍に置きたがらない人――
大事なものほど簡単に失ってしまうということを、身をもって知っている人。
小町もそうだった。ケヴィンに惹かれた時もなかなか踏み出せなくて、適度な距離を置こうとした。失うのではないかと怖くて。
今も、そう思うことがあって……
「ねぇ、ディックス。冷やかしには付き合うけど、でもちょっと残念なの。妃になるって言っとけば白黒ハッキリしたでしょう?」
「……まだ間に合う。言ってみろ」
「いやよ。口が裂けても言わない」
「だろうな」
またディクシードは口角を上げる。足元に視線を落としながら、皮肉気に片方だけ。
「あなたが狼じゃないのも残念よ」
「ずいぶんこだわるが」
「だってほら、かっこいいじゃない。魔女と狼の組み合わせって、テッパンだもの」
「お前が魔女か」
「……違うけど、そういう事にしといたら本でも書けそうだと思って。“魔女と狼の大冒険!”、的な」
「なんだその古臭い表題は」
「古臭い言うな。どうせセンスないわよ」
「お前は昔から名づけが下手だ。表題は私がつける、書いてみろ」
「ひと儲けするなら書くわ。分け前は9:1で」
「3だ」
「バカ言わないで。何でタイトル考えるだけで3なのよっ。私が9であなたは1! 仲介料込みっ」
「ネタを提供してやる。私が3だ」
「百歩譲っても2よ。ネタによっては歩合にしてあげる。はい決定、意義も却下」
いつものようにたわいない話をしながら丘を下り、バイクを経由して天幕へ戻る。
彼の天幕には彼の“食事”が用意されていた。真鍮製のタンブラーに満たされた――
赤い、ドロりとした液体……
鉄臭い、独特なえぐさを伴う異臭……
後になって知ったことだが、セーリムという凝固を防ぐ薬草と混ざり、そんな異臭になるのだそうだ。
ディクシードがその液体を煽る姿は、どうにも奇妙で、不思議な光景だった。
まるで己が魔族であることを証明するかのような行為で――
両の眼を深紅に染め上げた人は、飢えを満たす獣のように、その血を――飲み干したのである。
忌むべき行為だというのに、小町には嫌悪感などなかった。
口もとを伝う赤い血の滴も、何もかも尊いとさえ思えた。
きっとこの人は……
血を飲まないと、生きていけない……
魔族だという人を疑うことはなかった。
◇◇◇◇◇◇
ガーデルードの野営地が長い一日の終わりを告げる。
要所要所に設けられた篝火から灯が消え、丘の中腹にある要人たちの宿営地も、獣よけの篝火だけを残し、長くも短い夢の世界を彷徨い始めていた。
そんな中、一騎の人馬が息をひそめ、野営地を離れようとしていた。もはや周囲が闇夜となるや、疾走にうつり、見る間に遠ざかっていく。
やがて人馬が足を止めたのは、ミゴーの農村にほど近い、古い小屋の前であった。屋根の材木は垂れ下がり、今にも壁ごと崩れそうな、古さびた小屋である。
その小屋の中へ、馬主は躊躇なく足を踏み入れた。
「久しいな、ジェトラー。息災か」
屋内の暗闇に呼びかける。するとかすかに大気が動き、ジェトラーと呼ばれた人物がうやうやしい仕草で進み出て、深々と頭を垂れた。
ボルコフ一派の一人、あの、ジェトラーである。
「十年ぶりにございましょうか、若。ずいぶんご立派になられて。お声を耳にするまでは、若だとは気付けませんでした」
「世辞とはお前らしくない。……ボルコフの影で丸くなったか、それとも年老いてもうろくしたか。この装束は灰ぞ、黒ではない」
「……ふむ、なるほど。弁もたつようになられた。いや、ご立派です、若」
一層深くジェトラーは頭を下げる。彼の主人はその実、ボルコフではなかった。この“若”と呼ぶ青年こそが主人であった。
「その敬称で呼ばれるのもむず痒い歳になったが……まあいい。この機に密会とは、お前からの呼び出しゆえ急務と思って参った。戯言は実を結んだあとにしろ。何ごとだ、ジェトラー、要件を言え」
「……ボルコフにございます、若。あの者、先刻一報を寄こしたのですが、機を延ばすと記してありました。何やら会議の中で見送らねばならない事でもあったのか、指示まで待てとも添えてあった次第です。せっかくの好機をみすみす逃せと」
寵姫を連れ去る計画であれば、この青年もジェトラーからの書面で知るところであった。あのボルコフにしてはなかなかよい機に目をつけたものだと感心し、青年も別な思惑を持って傍観しつつ、裏をかくつもりであったのだ。
寵姫を連れ去ったのち、彼女が生きたまま向かう先は、ボルコフではなくこの青年というわけだ。ボルコフを隠れ蓑にしたうえで、崇高なる目的を果たす予定であるのに、どうにも雲行きが怪しい。
「機を逃せばあの方の機も逃すことになる。ボルコフの仕業に見せかけ、目的を果たすことはできるか」
「可能にございましょう。……ですが、ボルコフという男は臆病者。王子に追及されたとなれば掌を返し、我が名を吐くのも目に見えております」
「時間の問題か。お前も隠れ家を失うわけだ。先を見据えるなら避けねばならんな」
「若……あのお方はなんと……」
「王子の寵姫がまことその人物なら、一刻も早く血がいると申されていた。本人の血でなければあの方の本懐は遂げられんらしい」
「寵姫の血が……」
「そうだ」
束の間二人は黙り込み、古さびた小屋を静寂と闇が占める。
「若、明日は予定通りに。私が娘の血を手に入れましょう」
さしもの青年はハッとして、ジェトラーを見やった。
「それではお前の身が暴かれる。逃げ切る算段でもあるのか」
「なに、あなた様さえ無事であればよいのです、心配なさるな。潜む場所はボルコフ以外にもございます、移ればよいだけのこと。それよりも案じるべきは若の身にございましょう。お噂は耐えず伝え聞いておりますぞ。清廉潔白の騎士として忍んで来られた若であればこそ、御身を暴かれてはなりません。私は別な隠れ家に移り住み、しばらく時間を稼ぐことにいたします。…………あの方のためとは申しませんぞ、若。我々のために、本懐を遂げねばなりません」
「…………」
「それまでは生き延びましょう。このジェトラー、若と共に娘を連れ、郷里に帰るまでは死ねませんな」
青年は眉根を寄せて黙り込んだ。苦渋の決断を迫られたのである。
幼き日から寄り添ってくれた男を見捨て、保身に走れと、その男がそう言うのだ。




