第1話:婚約破棄は蜜の味
腹筋6パックのゴリラ令嬢がお菓子を作るラブコメです。
お楽しみいただけますように。
『泡だて器は剣よりも強し』
これは、私のお菓子作りの師匠が教えてくれた言葉だ。
子どもの頃は、泡だて器でも使いようによっては武器になるのかな、なんて思っていたが、今は――というか、今こそその意味が分かる。
いくら武力があっても、甘美なお菓子には敵わないことがある――。
「レジィナ・ハードヴァルドとの婚約を破棄する! お前のような“悪の【剣姫】”は、未来の王妃に相応しくない!」
ミュルグレス王国の象徴たる王城。その大広間で執り行われていた王太子の誕生パーティの最中、王太子本人の高らかな声が響き渡った。
会場に居合わせた王族や貴族諸侯たちは揃って静まり返り、渦中の人物たち――王太子キース・ユークリアス・ミュルグレスと婚約者の私に視線を注いだ。
「“悪の【剣姫】”……? キース、いったい何のこと?」
「お前は僕の婚約者であるという立場を利用し、ベルニエ侯爵令嬢を脅したそうじゃないか! その剣で!」
キースは美しく整った顔を怒りで歪めながら、私が腰に下げている細身の片手剣を指差した。
それは次期王の未来の妻たる資格を持つ、私だけが持つことを許される宝剣。同時にその地位に縛り付けるものでもあった。
「私がそんな馬鹿なことをすると? 幼馴染のあなたなら、違和感のひとつくらい――」
「見苦しいわよ。潔く罪を認めたら?」
反論を遮ったのは、ベルニエ侯爵令嬢フルールだった。
キースの背中からひょこっと姿を現した彼女は、ケーキの皿を片手にクスクスと笑いを堪えている。
ふんわりとウェーブがかった薄桃色の髪も、華奢で小柄な体形も可愛らしい。
彼女は宰相の娘なので、城の廊下で何度かすれ違ったことがあった。いつも華やかなドレスやアクセサリーを身に纏っていて、近づくと強めの香水の香りがした。女の子らしくていいなと思ったこともある。
でも、本当にそれだけ。
私は毎日がいっぱいいっぱいで、申し訳ないがフルール嬢に構う暇などなかった。私が次期王妃の立場を使い、上級貴族の彼女を剣で脅したなんて、まるで身に覚えがない。
憤り、握りしめる手は、豆が潰れて硬くなっている。
(キースは騙されている……。私は日々の王妃教育で精いっぱい。あなたを守るための剣の稽古がどれほどのものなのか、知らないなんて言わせない……そう言いたいのに)
こんな手だからかな。だから、キースは可愛くて女の子らしい子に惹かれたのかな。
見下ろすと目に飛び込んで来るものは、剣の訓練で豆が潰れ、傷だらけになった自分の手だ。
「目撃者だっているのよ? 私たち仲の良さに嫉妬するなんて、なんて浅ましいのかしら」
俯いていた顔を上げると、フルール嬢が安っぽい挑発を続けながら、ケーキをぱくりと一口頬張っている姿が目に映る。
さっきから手に持っているなとは思っていたが、どうやらとことん私を嘲りたいらしい。場違いなほどクリームたっぷりで、それでいて今にも零れ落ちそうな量のフルーツが飾られたケーキだ。てっぺんに艶々と赤く美しい苺がのっている。その赤い実が王妃の席を現しているとでも言いたいのだろうか。
フルールは「ふふん」と薄い笑みを口の端に浮かべながら、苺にフォークを突き立てた。
これは私のもの――。
まるでそう言いたげな含みのある仕草で、紅の宝石を口に入れる。
「!!!!」
私は思わず、碧眼を大きく見開いた。
「……あ……そんな……」
「ふふっ。なあに? “悪の【剣姫】”――」
「そのケーキ……どこにあったの⁉」
「は?」
私の目はフルール嬢のケーキに一点集中で、頭の中はお菓子のことでいっぱいだった。
「たまらないバターのいい香りぃ……。クレラント領のものかしら? 艶やかなフルーツはきっとパーレ領産ね! たっぷりのクリームのデコレーションが、視覚を刺激してたまらないわ! 私、ずっとずぅぅぅっと我慢してきたの! 婚約がなくなれば、お菓子を解禁してもいいのよね?? ケーキにクッキー、アイスクリームにプリンなんかもいいのよね⁉ そうよね、キース⁉」
怒涛の勢いで放出される、お菓子への欲望。
会場中の人々の視線が私に集まり、シン……と水を打ったかのような静けさの後、ざわざわとした収集のつかない騒がしさが押し寄せてきた。
(やってしまった……!)
「キース殿下が婚約破棄を?」
「いや、それよりも【剣姫】様が……」
「国の武の象徴になるべくお方が、こんな時にお菓子の話だと?」
これ以上、長居をするのはまずそうだ。
というかもう、私の口は甘いケーキの口になっているので、苦い嫌味やひりひりするような追及は遠慮一択だ。
「婚約破棄に異論はないので、私はこれで失礼いたします!」
脚をフル回転させて足早に走り去る。自分では言いたくないが、しっかりと引き締まった下半身をしているので、ヒールでもかなりの速さが出せる。
会場の入り口まで来た時に、夜の闇のような髪色をした男性が声を上げたような気がした。だが、あまりの速度で駆けていた私の耳には、風の唸る音しか聞こえていなかったのだった。
***(SIDR???)
「待て、レジィ――うわッ!」
一瞬で、レジィナ・ハートヴァルドが大広間の通路を走り抜けていく。まるで金色の閃光だ。巻き起こった爆風に煽られた俺は、よろけまいとして両脚に力を込めるが、その隙に彼女は姿を消してしまった。
「坊ちゃまがおしゃっておられた通り、面白きご令嬢ですな」
「あぁ……あそこまで菓子への執着が育っていることには驚いたが、俺にとっては吉報だ。すぐに領地に戻り、至急、屋敷に菓子工房を造るぞ」
黒髪を掻き上げながら踵を返すと、老執事が「御意にございます」と恭しく頭を下げた。
俺は菓子について早語りしていたレジィナの姿を思い出し、つい小さな笑みを溢してしまう。
人の不幸は蜜の味と言うが、彼女の婚約破棄は「幸」か「不幸」か。
どちらにせよ、俺が得ようとしている蜜は、とろけるように甘いに違いない――。




