王子様とはじめての冒険 後編
※グレイと王子様のお話
※前中後の後編
※王子様視点
ガキィイイン……!
金属音が響く。ウルフの強靭な顎に嚙みつかれて、短剣がギシリと音を立てる。それを持つ自分の腕にもビィンと響いて、思わず顔をしかめた。
「—————え……?」
背後で小さく声が漏れるのを聞いた。それを振り返る余裕もなく、すかさず魔法を放ちウルフを遠ざける。
きゃいん、と一度情けない声を上げたそいつは、だけどすぐに態勢を立て直しこちらをにらみつけてきた。
「し、シルバ殿下……? どうして……」
そんなぼくを見て、グレイ嬢は呆けたような声でそう言った。
なぜ、わざわざ安全な転移陣から抜け出し、ウルフと向き合っているのか——そう言いたげな彼女の背後で、内部に誰もいなくなった転移陣が発動を終えるのが見えた。
これでぼくらは公爵邸へ戻る術を失った。思わず苦笑いを浮かべる。
「きみこそ、そんな状態でどうあいつと戦うつもりだったんだい?」
「そ、れは……っ」
グレイ嬢は、転移術の反動でふらつき立っていられないような状態だった。
いくら彼女が優秀な魔術師だといっても、ぼくと年の変わらない子どもなのだ。たったひとりで人ひとり転移させて、平気なわけがない。魔法は万能じゃない、その行使には大きな精神力が必要だ。ましてこんな状態で魔物と戦うなんて——
(さきほどぼくに言った言葉は、ただのはったりだったのだ。ぼくだけを先に転移させるための——)
「……きみの判断のが合理的だということは、ぼくだって理解しているよ。もしここでぼくに何かあったら、公爵家は軽いお咎めでは済まないことも。……だけど、ぼくはたとえ死んでも——ぼくを必死で守ろうとしてくれた婚約者を、見捨てて逃げる男にはなりたくないよ」
「————…っ!」
言い終わるや否や、ウルフが「ヴォウッ」と一吠えし、再びこちらに向かってきた。それをまた短剣で受け止め魔法で追い払う。だが相手はひるまず、また噛みつこうとしてくるのを寸でのところでかわす。
そこにすかさず魔法を打ち込む。さすが『マナ溜まり』の近くだけあって、普段よりもその威力は大きい気がした。これなら、大魔法を使えばこの程度のウルフは倒せるかもしれない。だが——
(大魔法を使えばその前後に必ず隙ができる……グレイ嬢はまだ回復していない、その隙を狙われたら——)
彼女の存在を考えたら、今はまだ牽制程度の魔法しか使えない。誰かを守りながら戦うことのむずかしさを、こんなところで実感することになるとは思わなかった。
「っ、シルバ殿下、うしろ——!」
「……ッ!?」
と、悲痛な叫び声と同時に背後に殺気を感じ、短剣を振り上げた。
キィンと音を立て短剣に噛みついたのは、さきほどまで戦っていたのとは別のフォレストウルフだった。
仲間がいたのか——心のなかで舌打ちをする。気づけば木々の影に隠れてまだ数体、いやそれ以上の気配を感じた。
(うそだろ、さすがにこんな数のウルフをひとりで相手どるのは——)
たらり、頬に冷や汗がつたう。
どうする? 自分の技術では、グレイ嬢を守りながらこの数と戦うのは無理だ。いっそ剣を棄て、結界を張り防御に徹するか——
「きゃあっ!」
「ッ、グレイ嬢!」
そう思案していたときだった。甲高い声に振り返る。そこにはまだ立ち上がれないままのグレイ嬢と、彼女に向かい来る一匹のウルフが見えた。
(シールド……ッいやだめだ、間に合わない——!)
結界魔法を構築しながら、グレイ嬢のもとへ走る。せめて、とかばうように彼女の細い体に覆いかぶさった。「殿下、何を——!」咎める声を抱き込んで封じる。
(大丈夫、一度噛まれたくらいでは死なない。多少なら治癒魔法も使える。グレイ嬢さえ回復すれば、とれる手は増える……っ!)
そう覚悟し、次にくるであろう痛みにぎゅっと目を閉じた——
瞬間。
「——まったく、世話のやける子どもたちだ」
聞きなれない声とともに、目の前が一掃された。
まわりを取り囲んでいたウルフたちが、魔法によってあちこちへ飛ばされる。ざあっと木々を揺らす風に、うしろでひとつにまとめた白髪がなびいた。
王族に近しい者である証の白髪、見上げるほどの長身に、魔術師らしい痩躯。その姿はまさしく——
「お、とうさま……?」
「ホワイト公爵……っ!」
ぼくの婚約者、グレイ・ホワイトの父親であり、我が国一番の魔術師——ブラン・ホワイト公爵そのひとであった。
「まったく、おまえたちは、ほんとうに——」
ホワイト公爵は、ひとつ大きなため息をつくと、パチンと指を鳴らしぼくらの体の傷を癒してくれた。ウルフたちは、現れたのが強敵だと理解したのか、散り散りになって逃げていく。
「……説教はあとだ。あちらではノワレが取り乱して収拾がつかなくてな……まずは顔を見せて、安心させてやれ」
言うや否や、今度は手早く転移魔法を発動しはじめた。自分たちふたりでやっと発動させたそれをあっさりとやってのける、その魔法技術の高さに舌を巻く。
突然の展開に、あっけにとられ何も言えなくなってしまう。そんなぼくを見て、まだ魔物に怯えているのだとでも思ったのだろうか、ホワイト公爵は視線を合わせるようにしゃがみ込み、ぼくの頭にぽんと手のひらをのせた。
「ふたりとも無事でよかった。——娘を守ってくれて、ありがとう」
*
——あのあと、転移によって公爵邸へと戻ったぼくたちは、ふたりそろってたいへん怒られた。
グレイ嬢の母であるノワレ公爵夫人を筆頭に、ぼくの従者にも公爵邸の使用人にも、魔法鏡越しに両親の国王夫妻にまでカンカンに怒られた。ブラン公爵のみその輪には加わらず離れた場所でその様子を眺めるだけだったが、助け船は出してくれなかったため彼も相当怒っているのだろう。
「だからっ! 研究室にはブランの許可なく入ってはいけないと何度も言っていたでしょう!? しかも、転移装置を放置していただなんて……!」
「で、ですがお母様、あれは未完成品で、まさか誤作動でヒトを転移させるなんて思ってもみなくて——」
「だまらっしゃい! もう、あなたは1か月研究室への入室を禁止します! しっかり反省なさい!」
「そ、そんなぁ~!?」
研究室への出禁をくらったグレイ嬢は、目に見えて落ち込んだ。それは、森に転移してしまったときよりもさらに深い落ち込みようだった。
彼女が魔法研究がすきだということは、今回のことでよくわかった。それを禁止されるのはつらいだろうと、ぼくは彼女のフォローにまわる。
「ま、待ってください! 研究室に入りたいとわがままを言ったのはぼくのほうなんです! グレイ嬢はそれを断れずに従っただけで——」
「まあ、シルバ殿下。王族がまちがったことをしようとするのを諫めるのも、我ら臣下の務めですわ。それに安心なさって。あなたへの罰は今頃、王妃様が考えていらっしゃるはずですから……」
「ひぃっ!?」
——が、あえなく撃沈した。
やさしい笑顔のうしろにどす黒いオーラを感じ、それ以上何も言えなくなる。
(もしかしたら、もしかしなくても、城に帰ったら今度は両親からの説教が待っているのか……!?)
公爵夫人と同じように、美しい笑顔で怒気を発する母上を思い浮かべ、ぼくは心を凍りつかせるのだった。
*
「……あの、シルバ殿下……」
ふたりでひととおり怒られたあと、グレイ嬢がおずおずとそう声をかけてきた。
「グレイ嬢。もう体調は大丈夫かい?」
「ええ、おかげさまで。あの……さきほどはありがとうございました。魔物たちから、わたくしをかばってくださったでしょう?」
「ああ……お礼を言われるようなことではないよ。結局ぼくらを助けてくれたのはホワイト公爵だしね」
「そんなことはありませんわ! 王族の方を危ない目に遭わせておいて、こんなことを言っては怒られてしまうかもしれませんけれど……わたくし、うれしかったんです。殿下が転移陣から出て、わたくしを守ってくれたこと。だからどうか、お礼を言わせてください。……ありがとうございます、シルバ殿下」
グレイ嬢はそう言って、ふわりとやわらかい笑みを浮かべた。
その笑顔に、胸のうちがくすぐられるような感覚がする。なんだか急に照れくさくなって、「いや、こちらこそ」と目をそらしながら返した。
「こちらこそ……最初にぼくのことを守ろうとしてくれたのは、グレイ嬢のほうだろう? そういえばお礼を言っていなかった。ありがとう」
「ふふ、それだって失敗してしまいましたけどね。——そうだ、そのことでわたくし、殿下にお聞きしたいことがあったのですわ!」
「ん? なんだい?」
「お父様のことです。あのとき、お父様は転移でわたくしたちのもとへ現れたでしょう? どうやってわたくしたちのいる場所をつきとめたのか、殿下にはわかりますか?」
「ああ、そのことか。それはあの、小枝だよ。杖代わりに使った、あの小枝」
「小枝?」
それがどうしたのかと、グレイ嬢はこてりと首を傾げた。
「転移陣から出るとき、小枝だけ陣のなかに残したんだ。おそらくあの小枝だけが公爵邸に転移され、それに残った痕跡をホワイト公爵がたどってくれたんだと思うよ。いやあ、魔術の痕跡から座標を割り出すなんて、きみが教えてくれなかったらぼくには思いつかなかったよ——って、あれ? グレイ嬢?」
ぼくが笑って説明すると、グレイ嬢は目に見えて青ざめ、あんぐりと開けた口をパクパクと開閉させた。
「そ……そんな手があったとは……! 殿下ひとりを転移させるより、ずっと安全で簡単な方法ではないですか……! なんで、どうしてその手を思いつけなかったんですのわたくしは……!」
「あはは、ぼくもギリギリまでその可能性に気づけなかったから、お互い様だよ」
「うう……」
頭をかかえてショックを受けるグレイ嬢がおかしくて、ぼくはくすくすと笑ってしまう。そんなぼくに、彼女は「笑い事じゃないですわぁ」とちからのない声で言った。それがまたかわいくて、ついつい笑みが深まる。
「はあ、本当にだめだめですわ。わたくしに任せてと言ったのに、結局わたくしのほうが守られてしまうし……。本当なら最後までわたくしがお守りして、殿下にわたくしの虜になっていただくつもりだったのに……」
「あ……」
だが、続いたその言葉によって、ぼくは笑顔を消しそのまま固まってしまった。
(そうだ、忘れていた。彼女はこういう人だったんだ……。あのとき向けられた献身は、ぼく個人のためのものじゃない。ただ、未来の王子妃という身分を手放さないための——)
忘れていた失望は、ふたたび心に重くのしかかった。
(いや、だからといって、彼女が身を挺してぼくを守ろうとしてくれたのは事実だ。そのことには感謝をしないと……)
「虜……というのかはわからないけれど、心から感謝はしているよ。きみがいなければぼくには、なんのなす術もなかったのだから」
少しかたい笑顔を浮かべて、彼女に答える。愛想笑いには慣れているのだ、いまさらこれくらいなんてことはない。
いかにも王子様然としたその笑顔にグレイ嬢は、
「本当ですの!? それでは殿下は、わたくしが魔法研究室を継ぐのを許してくださるのですね!?」
…………………………………………ん?
「ん? ……ん!? ちょ、ちょっと待ってくれグレイ嬢。その、魔法研究室を継ぐというのは……?」
「え? ですから、現在父が室長を勤めている研究室のことですわ。わたくし、たとえ王子妃になろうと、平民になろうと、あの研究室だけはぜっっったいに他人に渡したくないんですの! お父様の魔法への知と愛の結晶ですもの、娘のわたくしが継がずに誰が継ぐというんです!?」
「え、ええと……それでその、ぼくを虜にするというのは、それとなんの関係が……?」
「ああ、それはお母様に教えていただいたのですわ。男性というものは惚れた女性に弱いから、殿下をメロメロにすれば『研究室を継ぎたい』ってわがままくらい、きっと叶えてくれるって」
「…………………………」
邪気のない笑顔で言い切るグレイ嬢に、全身虚脱感にさいなまれる。
(研究室を、継ぎたいから? 王族の地位がほしいわけでも、ぼくの見た目を気に入ったわけでもなく……?)
彼女が魔法研究が好きなのはわかっていた。どことも知らない森に飛ばされ、戸惑うよりもまずその成果に喜ぶような女性なのだから——
でも、それにしたって。
「…………ふっ……ふは、ぁはは………ははははっ……!」
「っ!? で、殿下……!?」
ぼくを虜にしたいという、その理由があまりにも彼女らしすぎて……ぼくはこみ上げる笑いをおさえることができなかった。そんなぼくを見て「どうしたんですの!?」「何か失礼なことを言ってしまったかしら……!?」なんてあわてるグレイ嬢の姿がまたおかしくて、さらに笑いがこみ上げる。
「……いや、なんでも……ふふっ、なんでも、ないよ……」
説得力のないゆるんだ顔で言うぼくに、グレイ嬢は少しむくれた表情を返す。「なんでもないようには見えませんわ」と雄弁に告げるその表情が、かわいく見えてしまった時点でもうだめだったんだろう。
ぼくがグレイ嬢の『虜』になってしまった瞬間があったのだとしたら、それはきっとこの瞬間だ。彼女とふたり、突然の冒険に放り出されてしまったこの日。
そしてこの冒険なんか目じゃないほどに、愛らしくも天真爛漫な彼女にこの先何度も巻き込まれていくことを——このときのぼくは、まだ知らない。