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エスケープの向こう側  作者: 奏多悠香


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20 お泊まり会

 ――美咲はお見合いしたの。すごく幸せそうに過ごしてる……


 そのメールを真吾から見せられた瞬間、僕はすべてをあきらめた。

 見合い。

 ナルホド。

 了解。

 「なぜ」とは思わない。

 知っているからだ。別れは唐突にやって来ることを。

 寝不足の頭は重く、眼球の奥の奥がずきりと痛んだ。


 数日後、真吾はまた僕を飲みに連れ出してくれた。


「真吾。巻き込んで悪かったな。原因は誤解じゃなかったみたいだな。見合いか。もう、大丈夫だ。はっきり答えが出ちゃえば、そんなに苦しむこともない」


 僕は無理やり笑って見せる。真吾にそんな嘘が通じないことは百も承知だ。でも、僕のすべてを知っている従兄はあっさりと騙されたフリをしてくれる。


「そうか。そうだな。じゃ、次いこうぜ、次」

「次…は、しばらくいいや。とりあえずは仕事でも頑張るよ」

「お前はすでに仕事しすぎだからそれ以上頑張らなくていい。俺のお株を奪うんじゃねぇって。跡継ぎの顔を潰しやがって」


 真吾はケタケタと笑う。

 その笑い方を見ていたら不意にこみあげてくるものがあって、僕は慌てて席を立った。


「ちょっとトイレ行ってくる」


 そういって駆け出した。尿意を感じたわけでも、吐きそうになったわけでもない。こみあげてきたのは胃液ではなく、嗚咽だ。狭い店内を縫うように、転がるように走ってトイレに逃げ込んだのは、真吾に隠れて涙を流せる場所が欲しかったから。

 アラサー男の涙なんて、誰も見たくはないだろう。

 僕だって、流したくはない。

 涙なんていつぶりだ。記憶にすらない。

 玲子を掻っ攫われたときも、胸は痛んだが涙は出なかった。

 それなのに今日は、飲んだ酒が全部涙に変わったんじゃないかと思うほど涙が出てきて止まらない。滝みたいだ。


「間抜け」


 ようやく涙を止めて個室から抜け出し、顔を洗って鏡を見つめてそう言った。


「幽霊みたいだな」


 僕は鏡の中の自分に言葉を投げつける。当然のように、硬質な鏡に弾かれた言葉は自分に突き刺さった。薄暗い照明のせいだろうか。こんなに落ち窪んだ自分の目を見たのは初めてだ。こんなにげっそりと頬がこけた顔も初めて見た。

 ばしゃりと顔に水をかける。

 そうしたところで落ち窪んだ目がもとに戻るわけでも、こけた頬が膨れるわけでもない。

 それでも、僕は何度も何度も顔を洗った。

 びしょ濡れの顔をワイシャツの袖でぬぐって席に戻ると、真吾の隣には心配そうな顔をした伊織が立っていた。


「あれ、伊織。どうした」


 伊織はすぐには答えずにじっと僕の顔を見つめてから、下唇を噛みしめた。


「飲み過ぎのお二人さんをご自宅まで無事に送り届けるために、直々に車を運転してきてやったのよ」


 形のよい唇から洩れた強気な言葉に思わず笑ってしまう。

 大丈夫だ。

 笑えるうちは大丈夫だって誰かが言ってた。

 それなら僕は、まだ大丈夫だ。

 すっかり氷が解けきって、ぬるく薄くなったウイスキーのグラスを一気に空けると、食道を通って胃に液体が流れ込むのがわかった。胃で受け止められた熱がふわりと脳にのぼって視界がぐにゃりと歪む。


「ねぇ、貴俊。久しぶりに真吾と三人で、お泊まり会しない?」


 幼いころ、よく互いの家を行き来してお泊り会をしていた。


「旦那はいいのか」


 くらくらする頭を押さえながら問うた。


「別にあなたたち二人とお泊まり会したくらいでガタガタ言うほど小さい人じゃないです。それに、今はアメリカなの。ちゃんと許可は取ったから大丈夫」


 日本にいることの方が少ないんじゃないか、こいつの旦那は。

 真吾の家に移動した僕たちは、久々に昔の話で盛り上がった。

 倉持の家のデカい庭にビニールプールを置いて水浴びをした話。そこで真吾がお漏らしをして伊織に鉄拳を食らわされたこと。お返しに真吾が伊織の服を木の上に隠して、伊織は泣きながら探し回ったこと。見つけた服には小さな毛虫がびっしり張り付いていて、驚いた伊織がそれを放り投げたらその先に雷オヤジと名高い庭師のおじさんの顔があって、三人ともゲンコツを一発ずつもらったこと。

 秋に庭でドングリを集めてそれを粉にし、水で練ってパンを焼いたあと、食べた三人とも腹を壊して倉持家のトイレはすさまじい争奪戦の現場になったこと。

 小さい時から身長が高く力でも適わなかった伊織を「あれは男だ!」と言い出した真吾と一緒に伊織の赤いランドセルを油性マジックで真っ黒く塗りつぶしたこと。伊織のランドセルを親が弁償する代わりに僕と真吾は次の年の正月にすべてのお年玉を没収されたこと。

 伊織の家が飼っていた牧羊犬のボーダーコリーが、なぜか僕のことだけは羊と見なして執拗に追いかけてきたこと。

 中学でテニス部に入った伊織が青いスコートを見せびらかしてくるのに辟易した真吾が、それを薄めた漂白剤に浸けてねじって乾したら色ムラができてタイダイ柄っぽくなったこと。伊織が泣く泣くそれを部活に履いていったらやたらと好評で、真吾はその後テニス部全員のスコートをタイダイ柄にする役目を仰せつかったこと。むろん僕も手伝わされた。

 高校時代に伊織の彼氏が真吾に嫉妬して殴りかかってきて、真吾がそれを返り討ちにしたこと。なぜか僕に嫉妬する奴はいなかった。

 3人とも同じ出来事を共有しているはずなのに、それぞれの記憶には濃淡があり、「そんなことあったっけ」ということもたくさんあった。自分に都合のいいように記憶を修正している部分まであって、一つ一つ答え合わせをするように僕らは記憶を埋め合った。

 そうして笑い疲れた伊織が真吾のベッドで丸くなり、真吾は床に転がった。二人の規則的な呼吸を聞きながら、僕はゆっくりと目を閉じる。

 酒のおかげか、泣いて瞼が重くなったせいなのか、それとも二人が居てくれるおかげなのか。どこからかそっと忍び寄ってくる眠気に身をゆだね、ソファに体を横たえた。

 何の問題もなく一緒にいると思ってた。未来があると思ってた。

 それが突然覆る。今までのことが全部ウソだったとでも言いたげに。

 こんなことは、一年前にも経験したじゃないか。

 それに、もっとずっとずっと昔、幼い頃にも一度、経験したことがある。

 実の母が家を出て行った日。

 これまでに二度もあったことだ。

 それと同じ。

 大したことじゃない。

 ただ、僕はまたきっと、臆病になっていくのだろう。

 週明けに出社した僕は、僕の部署に異動してきた女性社員の名前を聞いて愕然とした。


「みさき……」




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