21 みさき
僕の部署に異動してきた女性社員は明るく元気に自己紹介をした。
「はじめまして、三崎絵梨奈です」
みさきさん。
何だ、この拷問は。職場で毎日毎日毎日毎日この苗字を呼び、誰かが呼ぶのを聞かなきゃならないのか。しかし馴れ馴れしく下の名前を呼ぶわけにもいかない。それではセクハラになってしまう。「みさきさん」と呼ばざるをえないのか。
いっそ同じ「みさき」という名の子なら、苗字で呼べばいいだけなのに。何だって「みさき」という、苗字なんだ。
始末に負えない。
同期の「小山美沙」も厄介だった。あだ名が「ミサ吉」なのだ。
「みさきち」――同期の忘年会でその名が呼ばれるたびにピクリと肩が動いてしまった。おかげで「お前ミサ吉のこと好きなの?」と他の奴から聞かれる始末だ。
そんなわけないだろう。ミサ吉は23の時に結婚してすでに3児の母なんだぞ。
年が明けてからも拷問は続く。部下が正月に宗谷岬を訪れたらしく、「いやぁ冬の宗谷岬はもう、これぞ最果ての地って感じで…最北端を噛みしめてきましたよう」と明るく話しかけてくるのだ。こいつの土産話は一週間も続き、その間「そうやみさき」が僕の胸に何度も何度も突き刺さった。
この世には「みさき」が溢れすぎている。
仕事で出かけた先の駅名が「みさか台」だったことにも苛立つ。「みさか」だって、充分「みさき」に似ている。その出先で名刺交換をした女性が「加賀美 沙希」という名前だったときには、もう苦笑しか出てこなかった。「かがみ さき」。
まぁ、驚くほどうまく「みさき」を隠しこんだもんだ。
4月になり、また人員の異動がある。今度は自己紹介でびっくりしなくて済むように、僕は事前に出た辞令にきっちりと目を通していた。よかった、「みさき」はいないようだ。
ところが四月一日に、自分の考えが甘かったことを思い知る。
「木佐 道伸」
「きさ みちのぶ」
何か引っかかりを覚えてよくよく考えてみたら、「きさみ」は「みさき」を逆読みした音だ。何てことだ。
酒の力を借りて「みさき」から逃れようと1人立ち寄ったバーでは、隣にいた外人が”Give me Sake.と言うのを聞いて肝を冷やした。日本酒を”Sake”と呼ぶのはいいが、発音が微妙で「サキー」と聞こえるのだ。「ギヴミーサキー!」だと。
たまらんので、「It’s not サキー,but サケ!」と発音教えてあげると、爽やかなスマイルでThank youと言われた。いや、こちらの都合だ。My pleasure.と答えておく。何てぴったりな表現なんだ。
六月にはノサップ岬で変死体が見つかる怪事件があり、どのニュースをつけても「みさき」ばかり出て来るので、ニュースも見なくなった。
そのせいなのか何なのか、季節がめぐり、美咲を失ってから一年が経とうかという時期になってもまだ、僕は美咲のことを全く忘れられずにいた。いつの間にか三十一歳になってしまった。
こんな時にはぱーっと飲みに行きたいところだが、真吾は年明けから忙しく駆け回り、全くつかまらない日々が続いている。仕事も忙しいのだろうが、平日の夜も休日も、いつも留守にして何かに奔走しているようだった。本命の彼女でもできたのか、時折会社で見かける真吾の姿はどこか浮かれて楽しげだった。自分の暗い話でその空気を壊すのも気が引けてしまい、結局僕は一人でじりじりと仕事に没頭していった。
――月がうまそうだ。オムライスみたいだって言ってたな。今夜の月は細い三日月でオムライスには程遠いが、これから段々と膨らんでオムライスに近づいていくな。
九月の頭にぼんやりとそんなことを考えていたら、電話が鳴った。
『みさきさん、結婚するらしいわよ』
そう言ったのは伊織だった。
どの「みさき」だ。
三崎かミサ吉か宗谷岬か加賀美沙希か、木佐かSakeかノサップか。
『聞いてるの? 実藤さん、結婚するって』
答えは呆気なくもたらされた。
あの「みさき」だ。
「見合いしたんだから、そりゃそうだろう」
冷静さを取り繕うために全力を注いだ。
別に、覚悟はしていたことだ。
『違うの。私が言いたかったのは……夫の……あの、ホテルなの。会場が』
伊織の旦那はホテルを経営している。この人のおかげで、僕は玲子との結婚式を破格の値段でゴージャスにしてもらえたのだ。
――式は、九月の十五日ですって。
伊織の声に思考が止まった。
なんだって、その日なんだよ。
細い月が、心を抉るナイフに見えた。




