第12話:幕張の空と、冷めない約束
午前七時五十分。
九十九里沖から房総半島を低空で横断した丈二は、幕張新都心の高層ビル群の陰へ滑り込み、花見川沿いの緑地帯で『交換収納』を解除した。
Tシャツにチノパン、肩には大型のトートバッグ。
呼吸を整え、ポケットから取り出した優先入場券の二次元コードを確認する。
「午前七時五十五分……完璧なオンタイムだ」
メッセの国際展示場へ向かう連絡通路には、すでに全国から集結した猛者たちが静かな熱気とともに列をなし始めていた。
午前八時半、優先入場の認証受付が順調にスタート。九時を回る頃には指定のホール内待機ブロックへ収容され、丈二は胸ポケットのフロアマップを指先でなぞりながら、開場十時のカウントダウンを待った。
(配置は8ホールの壁際。動線は第二通路を直進、角を左折……これなら確実に最初の五分で卓へ届く)
そして午前十時整。
拍手とともにワンダーフェスティバルの開場を告げるアナウンスが響き渡った。
丈二は早歩きで人混みをすり抜け、狙いのディーラー卓へ一番乗りを果たした。
「おはようございます! 『深淵の星詠み姫』のガレージキット、一つお願いします!」
「はい、ありがとうございます! ラスト一個手前……十四個目です!」
手渡されたずっしりと重い白い箱。原型師のこだわりが詰まったレジンキャストの塊を抱きしめ、丈二は魂の底から歓喜の震えを漏らした。
「……Mission Accomplished. 勝利だ」
すぐさまアイテムボックスの底へ厳重に格納し、余韻に浸る間もなくメッセを後にした。
次なる目的地は、すぐ近くの会員制大型量販店。
巨大なカートを押し、山のような三十六個入りディナーロールパンの袋と、焼き立てのプルコギベイクを回収。さらに駅前のコンビニへ飛び込み、レジ横の保温ケースから揚げたてのファミチキを二個買い求めて茶色い紙袋を受け取った。
(これで渚のおつかいもすべてクリアだ。あとは速やかに離脱して――)
そう思考を巡らせた、午前十一時十分のことだった。
ドォォォン――ッ!!
幕張の浜の方向から、空気を揺るがす重い爆発音が響き渡った。
見上げると、千葉港方面の沿岸部、石油コンビナートの桟橋付近から、真っ黒な巨大な煙の柱が立ち昇っていた。
「……何だ!?」
周囲の歩行者たちが足を止め、一斉にスマートフォンを掲げる。
遠くから救急車や消防車のサイレンが幾重にも重なって聞こえ始めた。
丈二は路地裏の植栽の陰へ身を滑り込ませ、スマートフォンで緊急速報を開いた。
『千葉港・市川沖の沿岸部にて、海上警備・合同防災訓練に参加中だった燃料輸送バージ船と小型作業船が衝突。火災が発生し、消火作業中の消防艇および海保巡視艇の周囲へ炎が拡大中』
(……合同訓練中の実事故か!)
さらに画面をスクロールすると、現場付近からの生々しい投稿がタイムラインを埋めていた。
『煙がヤバい! 海保の船が燃えてる船に近づけない!』
『風で黒煙が幕張側へ流れてきてる! 中にまだ取り残されてる人がいるっぽい!』
丈二の足が止まった。
時計を見る。午前十一時十五分。
神黒島へ帰るなら、今すぐ飛び立たなければならない。
何より、今日の千葉沖には警察、消防、海上保安庁の船艇と航空機が集結している。加えて、東京湾周辺では防衛当局の監視網も生きている。この状況下で姿を現せば、全方位の光学カメラとレーダーに捉えられ、正体探知の網に自ら飛び込むようなものだった。
(……関係ない。僕の任務は限定キットを確保し、パンとチキンを無事に島へ持ち帰ることだ)
丈二は踵を返し、人通りのない離脱ポイントへ向かって一歩を踏み出した。
だが――
ポケットの中の茶色い紙袋から、微かに温かい熱が指先に伝わってきた。
『あんたが無事に帰ってきたんだから、それでいいのよ……!』
あの嵐の朝、泣きながら胸に飛び込んできた渚の顔が、脳裏を掠めた。
誰かの帰りを待つ人間がいる。
助かるはずの命が、すぐそこにある。
「……Oh, damn it!! なんで僕の休日はいつもこうなんだ!」
丈二は激しく頭を掻きむしり、雑居ビルの屋上へ通じる非常階段を駆け上がった。
屋上の踊り場、監視カメラの死角で指を鳴らす。
(『交換収納』――セット!)
一瞬にして全身を覆う、漆黒のアダマンタイト・シェル。
胸部裏地の新型RWRが、東京湾一帯の濃密な警戒パルスを感知してピリピリと警告を告げる。
「渚の縫製を信じる。……行くぞ!」
屋上の縁を蹴り、漆黒の男は黒煙渦巻く千葉港の沖合へ向けて弾丸のように急降下した。
現場の海域は、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
衝突した燃料バージ船の甲板から重油混じりの猛烈な火柱が吹き上がり、風下の作業船を取り囲んでいる。海保の巡視艇と消防艇が必死に放水を浴びせているが、風にあおられた油火災の勢いは衰えず、作業船の船首に取り残された二名の作業員が煙に巻かれて海へ飛び込む寸前だった。
「ダメだ、熱気でこれ以上近づけん!」
「救命いかだの投下も風で流されるぞ!」
巡視艇のスピーカーから悲痛な怒号が響いた、その時――。
上空の黒煙を引き裂き、一筋の影が音もなく舞い降りた。
海面すれすれで急制動をかけ、空中にピタリと静止する漆黒のスーツ。
「なっ……!?」
「あ、あれは……『キャプテントーキョーベイシティ』!?」
巡視艇の甲板員たちが目を疑う前で、男は両腕を左右に薙ぎ払った。
(――『魔力障壁・指向性偏向』展開!)
激突するように吹き荒れていた風向きが、炎の直前で不自然に真上へとねじ曲げられた。
作業船を包み込みかけていた猛烈な黒煙と熱波が、巨大な見えない煙突を通るように垂直に大気中へと吸い上げられていく。
視界がクリアになった一瞬の隙に、男は作業船の甲板へ滑空し、逃げ場を失っていた二名の作業員の襟首を軽々と両手で掴み上げた。
「Hang on tight!(しっかり掴まってろ!)」
二人を抱えたまま宙へ浮上し、数十メートル離れた海保の巡視艇の後部甲板へ、ふわりと着地させる。
「怪我はないかい? あとは彼らに任せるといい」
呆然とする作業員と巡視艇の乗組員の前で、男は踵を返すと、今度は燃え盛る燃料バージ船の火元へ向けて右手を掲げた。
(熱量を奪う――『氷系吸熱結界』多重励起!)
青白い冷気の膜が、燃え上がる重油の表面を一気に覆い尽くした。
ボッ、と燃焼継続に必要な熱量を瞬時に奪われた炎が急速に衰え、鎮火していく。
急激な温度低下によって白い蒸気と煙だけが海風に散っていった。
わずか一分足らずの出来事だった。
消火と救助を完全に完遂した漆黒の影は、海保の光学カメラが焦点を合わせるよりも速く、海面すれすれを時速四百キロで加速し、東京湾の外洋側へと一瞬で掻き消えた。
午後二時五十分。
神黒島の潮見丸の波止場に、音もなく影が降り立った。
足元がふらつき、岸壁のボラードに手をつく。
現場での救助と消火、さらには監視網を大きく迂回した一千キロ以上の超高速巡航によって、全身の魔力は完全にエンプティを示していた。
(『交換収納』……解除……)
荒い息を吐きながらスーツをしまい、Tシャツ姿に戻った丈二は、両手に大きな荷物を抱えて番屋の引き戸を開けた。
「……ただいま、渚」
事務所の中では、渚が待ちくたびれた様子で腕を組んでいた。
「遅い! もう三時前よ! ……って、あんたそのボロボロの顔、何よ?」
「いや……いろいろあってね。はい、頼まれていたコストコのディナーロールパンと、プルコギベイク」
ドサリと机の上に置かれた巨大な食料の山に、渚の目が丸くなる。
「うわ、本当に買ってきた……! すごい量ねこれ!」
「それと……」
丈二はポケットから、少し潰れかけた茶色い紙袋を取り出し、差し出した。
「……三時のおやつの、ファミチキ」
「あっ、そうそう! これよ! ちゃんと温かいんでしょうね?」
渚が袋を受け取り、中からチキンをつまみ出した。
途中の超低高度飛行と消火活動で魔力を使い果たしかけたが――この袋の周囲の保温術式だけは、絶対に切らさずに維持し続けていたのだ。
立ち上るスパイシーな湯気。
渚がサクッと一口かじり、目を細めて咀嚼した。
「……ん! 衣サクサクで、ちゃんと熱い!」
「……本当かい?」
「うん。合格よ、ジョージ」
渚は満足そうに微笑むと、チキンの半分を丈二の口元へ差し出した。
「ほら、あんたも食べなさいよ。お腹空いてるんでしょ」
「……うん。美味しいね」
二人が事務所の片隅でチキンを分け合っていると、壁のテレビが臨時ニュースのテロップを流し始めた。
『本日午前十一時過ぎ、千葉港沖で発生した船舶火災において、正体不明の飛行物体――ネット上で「キャプテントーキョーベイシティ」と呼ばれる存在が突如出現。取り残された作業員二名を救助し、火災を瞬時に鎮圧した模様です……』
テレビに映し出された、二名の作業員を抱えて巡視艇へ降り立つ漆黒のスーツの静止画。
渚が画面と丈二の顔を交互に見比べ、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「へえ……ベイシティくん、幕張でも大活躍だったじゃない」
「だから! 僕はウィザード派だとあれほど……!」
「はいはい、どっちでもいいから早くパン片付けなさいよ、大魔法使い」
「ウィザードの扱いが雑すぎる……!」
からかい混じりの笑い声が、初夏の心地よい潮風に乗って、神黒島の青い空へと溶けていった。




