四話 追放 エリシア
三日後。
私はセレス先生とともに、朝早くカイル様の屋敷を訪れることになっていた。
まだ陽も高くならない王都の道は静かで、石畳には夜の冷えがうっすらと残っている。けれど、屋敷へ向かう支度を整えていた時から、私の胸の内は少しも静かではなかった。
きっかけは、先生が不意に口にした言葉。
「アルトは危険だわ」
あまりにも唐突で、私はすぐには意味を理解できなかった。
「なぜですか?」
問い返すと、先生は歩みを緩めることなく、前だけを見て答えた。
「あの子は、貴女を破滅へ導くかもしれない」
「そんなことは」
「そうかしら?」
穏やかな声だった。けれど、その穏やかさがかえって胸に刺さる。
「復讐したい気持ちはわかるわ。故郷を奪われたのですもの。忘れろなんて、軽々しく言えることではない」
先生はそこで一度言葉を切り、ほんのわずかに目を伏せた。
「でも、あの子にはそれしかない。今のアルトは、復讐だけで立っている。そういう生き方は危ういのよ」
私はすぐには言い返せなかった。
否定したかった。
でも、否定しきれない何かが、その言葉の中にあった。
「ですが、私たちは」
「ええ。貴女たちは一緒に生き延びた。絆が深いことも、わかっているつもりよ」
先生はそう言って、それでも首を横に振った。
「けれど、復讐だけを支えにした人生は脆いわ。何より貴女の人生でもあるのよ」
その時、先生は初めてまっすぐに私を見た。
「貴女は、アルトのことをどう思っているのかしら?」
胸の奥が、不意に小さく跳ねた。
「どうって」
うまく答えられない。
「信頼、しています」
やっと口にした言葉は、自分でも驚くほど頼りなかった。
「信頼ね」
先生は小さく繰り返し、それから少しだけ苦笑した。
「貴女、学院では結構人気があるのよ」
「人気?」
「ええ。貴女とお付き合いしたいと思っている殿方は意外と多いの」
「えっ!?わ、私なんかと?」
思わず素っ頓狂な声が出た。先生は一瞬だけ柔らかく笑ったが、その表情もすぐに静かなものへ戻る。
「私が間違っていたのかもしれないわ。貴女みたいな若い子を、この旅に加えるべきではなかったわ」
「いえ」
私は慌てて首を振った。
「先生には感謝しています。先生が認めてくださったから、私はここまで来られました」
「そう言ってくれるのは嬉しいわ。でもね、エリシア」
先生の声はひどく優しかった。
「貴女はもっとお洒落をしなさい。髪を梳き、綺麗な服を着てお化粧も覚え、そして、恋をしなさい」
「恋」
その言葉は、私には遠すぎるもののように思えた。
「若い娘が、復讐のためだけに人生を費やすなんて、あまりに寂しいわ。友人を作り、美味しいものを食べて、綺麗なものを見て、誰かを好きになって、そういう当たり前の幸せを、貴女は手にすべきなのよ」
私は黙るしかなかった。
先生の言葉は、否定したくなるのに、どこかで拒みきれなかった。
「あなた達は、復讐のことばかり考えて、自分でも気づかないうちに壁を作っているわ。周りの人たちが近づきにくいのも、そのせい」
「私は」
何か言おうとして、言葉が出なかった。
「私が言ったこと、忘れないで」
「はい」
そう答えるしかなかった。
それから先生とともに屋敷へ向かう間も、胸の内のざわつきは消えなかった。
貴女は、アルトのことをどう思っているのかしら。
その問いだけが、何度も何度も頭の中で繰り返された。
信頼している。
大切に思っている。
一緒に生き延びてきた、かけがえのない相手だ。
それは間違いない。
けれど、それだけなのだろうか。
答えの出ないまま、私はカイル様の屋敷の門をくぐった。
案内された部屋には、すでに全員が揃っていた。
誰もが旅支度を済ませた顔をしているのに、部屋の空気だけがひどく重い。
私はすぐに、それがいつもと違う種類の沈黙だと気づいた。
先生が静かに席につく。
私もその隣に腰を下ろした。
しばらく、誰も口を開かなかった。
その沈黙を破ったのは、意外にもクロード様だった。
「アルトは、ここまでだ」
低く、短い声だった。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「え?」
私の声は、思っていたより小さかった。
クロード様は表情を動かさない。
「これ以上は連れて行けない」
部屋の空気がさらに重くなる。
私はすぐに先生を見る。次にカイル様を見る。誰かが否定してくれるのではないかと、そんな甘い期待が胸のどこかにあった。
けれど、誰も口を挟まなかった。
「待ってください」
気づけば立ち上がっていた。
「どうしてですか。アルトはここまで来ました。雑用でも何でもやると言って、ずっと」
「だからだ」
クロード様の声が被さる。
「ここまで来た。だが、ここから先は違う」
「何が違うんですか!」
思わず強い声が出た。
クロード様は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに言った。
「ここから先は、あいつにとって生きるか死ぬかではない」
その一言が、胸の奥へ重く沈んでいく。
「あいつは必ず死ぬ」
可能性の話ではない。
断定だった。
私は息を呑んだ。
「私が守ります」
ほとんど反射だった。
「私がいれば大丈夫です。アルトは足手まといなんかじゃ」
「お前の力は認めている」
クロード様は、そこで初めて私を真正面から見た。
「魔法使いとしての素質も、判断もな。だが、それでも無理だ」
「そんなことない!」
「無理だ」
短く切り捨てられる。
私は何か言い返そうとして、けれど言葉が出てこなかった。
先生の言葉が、また胸の内で響く。
あの子にはそれしかない。
復讐だけで立っている。
違う、と言いたいのに。
それだけではないと、言い切りたいのに。
今のアルトを思い浮かべると、どうしてもその言葉が胸に引っかかった。
それでも。
「嫌です」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
カイル様がわずかに目を上げる。
「何がだ?」
「アルトを置いていくのは嫌です」
言ってしまってから、胸の奥が強く締めつけられた。
私は何を言っているのだろうと思った。
復讐のため。そう言えばよかったはずだ。
ここまで来たのだからと、理屈を並べればよかったはずだ。
なのに、口から出たのはもっと別の言葉だった。
「離れ離れになるのは、嫌です」
部屋が静まり返る。
自分の言葉なのに、他人の声みたいに聞こえた。
胸が苦しい。
ひどく苦しい。
その苦しさの正体が何なのか、私にはまだわからなかった。
ただ、アルトと別々になることを思うと、息が詰まるほど苦しかった。
その時だった。
セレス先生がふっと笑った。
とても優しい笑みだった。
「それでいいのよ」
私ははっとして先生を見る。
「先生?」
「エリシア。貴女も抜けなさい」
「え?」
「今の貴女に必要なのは、無理に前へ進むことじゃないわ」
先生は立ち上がり、私の肩にそっと手を置いた。
「少し外していなさい」
「でも」
「いいから」
逆らえない声音だった。
私はなおも何か言いたかったが、先生に促されるまま、部屋を出るしかなかった。
扉が閉まる。
廊下の空気はひんやりとしていたのに、頬だけが熱かった。
私はその場を離れられず、扉のそばで立ち尽くした。
中の声が、わずかに聞こえる。
「あの子は、恋の途中よ」
先生の声だった。
「復讐より先に覚えるべき感情があるのかもしれないわね。あの子と恋に堕ちて、復讐を忘れられるならばと、そう願うわ」
一拍置いて、ガレス様の豪快な笑い声が響いた。
「ははっ、俺たちも歳をとったもんだ!」
「ちょっと、私はまだ若いわよ!」
今度はソフィア様の少し拗ねたような声。
「私も若いつもりよ」
先生が冗談めかして返す気配がする。
けれど、そのやり取りの奥にあるものまでは、聞こえなかった。
聞きたくなかったのかもしれない。
恋。
その言葉だけが、妙に鮮明に耳に残っていた。
私は扉から一歩離れる。
鼓動が速い。
落ち着かない。
まるで、自分の中の知らない場所にいきなり光を当てられたようだった。
しばらくして、再び呼ばれた。
部屋へ戻ると、先ほどよりも空気は静かだった。けれど、何かが決まったあとの静けさだとわかった。
カイル様が私を見る。
「確認する」
その声音は低く、まっすぐだった。
「アルトはここで外す。お前も同行をやめるなら、それを受け入れる」
私は息を飲んだ。
先生は何も言わない。
クロード様も、ガレス様も、ソフィア様も。
全員が、私の答えを待っていた。
私は膝の上で手を握る。
指先に、あの日アルトと交わした指輪の感触がある気がした。
「必ず、後を追います」
顔を上げて、私は言った。
「アルトが貴方たちに追いつけるように。私も、あの人も、必ず強くなって、いつか追いつきます」
カイル様はしばらく黙っていたが、やがて短く頷いた。
そこで扉が叩かれた。
アルトが来たのだと、すぐにわかった。
その後のことは、今でもひどく鮮明で、けれど夢の中のことみたいでもある。
部屋へ入ってきたアルトは、空気の重さにすぐ気づいた。
それでも笑おうとして、誰も応じないことに戸惑っていた。
私は顔を上げられなかった。
カイル様が告げる。
これ以上は連れて行けない、と。
アルトは最初、その言葉の意味を理解できずにいた。
けれど、やがて一つ一つ噛み砕くように現実を知っていく。
自分が置いていかれるのだということを。
それが全員の総意であることを。
私もその中に含まれているのだということを。
復讐したいのだと、アルトは言った。
死ぬ覚悟はできているのだと。
その声を聞くたび、胸の内のどこかが削られていくようだった。
それでも誰も、簡単には言葉を返さない。
やがてカイル様が、あの鋭い声で言った。
死ぬ覚悟と、必ず死ぬことは違う、と。
お前を庇ったせいで仲間が無防備になる。
その隙を突かれたらどうする。
俺たちはお前のために戦っているわけじゃない。
魔王討伐のために進んでいるのだ、と。
最後の「ここから出て行け」が響いた時、アルトの顔が壊れたみたいに見えた。
私はその場で立ち上がれなかった。
引き止めたかった。
追いかけたかった。
でも、立てなかった。
アルトは部屋を飛び出していった。
扉が閉まって、ようやく部屋に重たい沈黙が落ちる。
最初に動いたのはガレス様だった。
「きつい役だな」
そう言いながらも、声はいつものようには明るくなかった。
ソフィア様も小さく息をつく。
「嫌な役、おつかれさまです、カイル」
カイル様は何も答えなかった。
ただ、目を伏せたまま、しばらく動かなかった。
その横顔を見て、私は余計に息が苦しくなる。
やがて、カイル様は机の上に小さな銀の札を置いた。
名前が刻まれたネームタグだった。
「これを持っていけ」
低く言う。
「ここで別れる。だが、お前たちが仲間だったことを忘れるな」
私は震える手でそれを受け取った。
次にガレス様が、自分のタグを私の掌に重ねる。
いつもの豪快な笑みを浮かべていたけれど、その笑顔は少しだけ不自然だった。
ソフィア様も静かに自分の札を差し出す。
クロード様も黙って札を載せ、
先生は最後に自分のタグを載せた。
その時、セレスは小さく何か呟くと、5つのネームタグが光った気がした。
「これでお別れね」
少し遅れて、クロード様の低い声が続く。
「復讐心を捨てさせろ」
私ははっと顔を上げる。
「守る剣を持てるようにしてやれ」
それだけだった。
でも、その一言の奥にあるものを、私はうまく言葉にできなかった。
最後に、カイル様が私を見た。
「アルトを励ましてやってくれ」
私は何も言えず、ただ強く頷いた。
銀の札は、どれも冷たかった。
けれど、その冷たさがひどく重い。
これをアルトに渡したら、もう本当に終わってしまう気がした。
みんなが仲間として認めていた証でありながら、それでも置いていくという事実の証でもあったからだ。
私はタグを握りしめたまま、部屋を出た。
屋敷の外へ出ると、アルトは門の脇で崩れるように泣き伏していた。
声をかけるだけで壊れてしまいそうに見えた。
それでも近づいて、そっと肩に手を置く。
次の瞬間、強く振り払われた。
「触るな!」
その声に、胸が痛んだ。
涙で濡れた顔のまま、アルトが私を睨む。
「誓い、忘れたのかよ」
あまりにも悲しい問いだった。
「忘れるわけない」
そう答えながら、私は自分の声が震えていないことに驚いた。
震えていたら、きっと一緒に崩れてしまっていた。
「でも、今のままじゃ届かない。思いだけじゃ、先へは進めない」
「そんなの、わかってる!」
アルトの叫びが刺さる。
「でも、行きたかったんだよ!」
その言葉に、私も泣きたくなった。
わかっている。
誰より知っている。
この人が、どれだけその日を待っていたか。
それでも私は、持っていたネームタグを差し出した。
「これ、みんなから」
掌の上の銀が、朝の光を受けて鈍く光る。
アルトはそれを見るなり、顔を歪めた。
「なんだよ、これ」
「餞別、だって」
「餞別?」
掠れた声で繰り返した後、アルトはそれをひったくるように受け取った。
その瞬間、私は息を止めた。
次に何が起こるか、どこかでわかっていたのかもしれない。
「こんな物!!」
乾いた音を立てて、タグが石畳の上に散らばる。
私は目を閉じそうになった。
でも閉じなかった。
これはアルトの痛みだ。
受け止めなければいけないと思った。
しゃがみこんで、一つずつ拾い上げる。
石の隙間に入り込んだものを指先で探り、袖でそっと汚れを払う。
冷たい金属が、妙に重かった。
その時、屋敷の扉が開いた。
振り返ると、みんなが旅支度を整えた姿で出てくるところだった。
先頭を歩くカイル様は、すでに兜をかぶっている。
左のこめかみから頭頂部へと走る、二本の赤い線。
勇者カイルを示すその印が、朝の陽を受けて鋭く光っていた。
誰もアルトに目を向けなかった。
向けれなかった、のだと思う。
そのまま全員が門へ向かって歩いていく。
私は一度だけ、地面に膝をついたままのアルトを振り返った。
声をかけたかった。
でも、今はかけてはいけない気がした。
私は唇を噛み、みんなの後を追う。
街の外れまで見送ったところで、ガレス様が振り返った。
「アルトを頼む」
今度は笑っていなかった。
ソフィア様も静かに頷く。
「お願いします」
先生は優しく微笑んだ。
「人生を楽しむのよ、エリシア」
クロード様は、短く言う。
「頼んだ」
カイル様は、しばらく私を見ていた。
「忘れるな。お前たちは仲間だ」
私は深く頷いた。
「いつか、必ず追いつきます」
その言葉に、誰も笑わなかった。
ただ、ガレス様が小さく「おう」と返し、みんなはそのまま歩き出した。
背中が遠ざかっていく。
私はその姿が見えなくなるまで見送ってから、踵を返した。
急いで屋敷へ戻る。
けれど、さっきまでいた場所に、アルトの姿はなかった。
「アルト?」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
屋敷の周りを見回す。
門の外。
塀沿い。
通りの先。
どこにもいない。
急に、朝から胸に残っていた不安が形を持った気がした。
あれだけ傷つけられて、一人きりにされて。
もし、自暴自棄になっていたら。
もし、このままどこかへ消えてしまったら。
「アルト!」
気づけば私は走り出していた。
裾を握り、王都の通りへ飛び出す。
まだ、間に合う。
そうであってほしいと願いながら、私は必死に彼の姿を探した。




