17 黒衣と星空
蝉の声が響く真夏の昼下がり。雪はまた黒い着物を着ていた。
正式に忍びになる者たちの影名授与の儀式があるためだ。年に一度のこの儀式、先日の雨禊の儀ほどではないにしても、かなり大切なものだろう。
この儀式において、雪の出番はない。ただ霧崎の娘として、それを見守っていればいい。
ピンと背筋を伸ばし、指の先にまで神経を通わせて。お面に隠れていて見えない表情までも、しっかり作る。
今年忍びになるのは、3人。そんなものか、と思った。もっと多いものと思っていた。
確かに訓練生として霧崎の忍びの訓練を受ける者は少なくない。それでも十数人ほどだが。その中から、忍びとして実務に就くのが、3人。忍びが不足するわけだ。
「その名を捨て、影に生きることを誓うか」
「誓い申し上げます」
3人それぞれが、当主に宣誓を行う。参列できる全ての忍びが見守る中、式の中心となる緊張感を、雪は知っていた。
自分と同じ年頃の男女に、頑張れ、と心の中で声援を送る。
「えいしゅん」
「ありがたくお受けいたします」
白い扇子を父から受け取る忍びたちの姿を見ながら、父の命名センスはさすがだな、なんて思った。
ふと目が合った。
たった今、えいしゅんという影名を授かった男だった。ドキッとするも、彼は隣の詩乃の方も見る。そして、深々と頭を下げた。
これも儀式の一環か、と少しだけ気を抜く。やや抜けていた自分の心を見透かすような鋭い視線だった。
気を抜いてはいけない。お面をつけているとはいえ、周りは人の心を見破ることに長けた忍びたち。見透かされることが、あってはいけないのだ。
あれ以来、兄の婚約者の話は誰も触れなくなった。まるでタブーのように。
ただ、どこかピリピリとした空気が続く。姉の口数が減り、食事が終わるとすぐに部屋に戻ってしまうくらいには、家族の時間が減った。
詩乃はいつも通り無邪気に遊びに来てくれるが、綾乃が雪の部屋に来ることもなくなった。
これは、嫌だ、と感じた。こんな寂しい家族じゃない。もっと温かくて、優しい家族だったはずなのに。
まだ決まってもいない兄嫁という人に、家族を壊されたような気分になった。
真夏の夜は、じめじめとした湿気にうんざりする。なんとなく眠れなくて、雪は部屋を出た。部屋着のままだが、この時間なら誰もいないだろう、と。
そばの縁側に座り、空を見上げる。ちょうど半分になった月が見えた。
「……きれー」
都会の明かりが届かない森の中。星空がはっきり見えた。少し手を伸ばしてみて、よく知らない星座をなぞるように指を動かす。
「雪?」
そんな時だった。その声に、ハッと隣を見る。困ったような顔の兄が立っていた。
「また夜更かし?」
「……ふふ」
心配してもらえることが、嬉しくて。雪の笑い声を叱るわけでもなく、兄は隣に座った。
「星を見ていたんです」
「珍しいものでもないだろう」
「いいえ。わたしが前にいたところでは、こんなにたくさんの星は見えませんでした」
「……そっか」
それは、どこか複雑そうな声。
「お兄様」
雪が兄の顔を見つめる。
「わたし、もう大丈夫ですから」
過去はもう吹っ切れている。運が悪かったと考えられるようになった。だから、兄が心配することなど、何もない。
「わたしは、とても幸せです。この家にきて、毎日のように思います」
「うん」
「だから、お兄様も、ご自分の幸せのことを考えてください」
幸せになってほしい。兄にも、姉や妹にも。そう願えるほどに、心に余裕ができた。
「お兄様は、これから長いこと霧崎の名を背負っていかれるお方。プライベートの部分で少し自由にしたくらいで、霧崎の看板は傷つきません。そうでしょう?」
「……綾乃のようなことを言うね」
その言葉に、雪は少し驚いて。でも次には、ふっと笑ってみせた。
「嬉しいです」
「嬉しい?」
「はい。お姉様のようになることが目標ですので」
その言葉に、兄は苦笑をこぼした。
「それは困るね」
「困りますか? どうして?」
「綾乃は頑固だろう? 意地っ張りで、ちょっとしたことに怒る。雪も困ったことはない?」
「でもお姉様は、信念を曲げられません」
姉の真っ直ぐに伸びた姿勢を、雪は思い出す。
「この家を守ること。霧崎の名に恥じない行動をすること。気をつければいいのは、その2つだけです」
それを聞いて、兄が笑った。雪の頭に手を置き、愛おしそうに指で撫でる。
「雪にそう言ってもらえてよかった」
なぜだろう。なぜか、言葉が出なかった。その無言の間を紡ぐように、兄が口を開く。
「あの通り、難しい性格だからね。当主の娘という立場もあるから、友人を作るのも難しかったんだ」
「……お姉様の小さい頃のお話ですか?」
姉は訓練生に混ざって忍びの訓練を受けたことがあると言っていた。きっとその頃のことだろう。
「強がっていた姿も、寂しくて隠れて泣いていた姿も知っているから。綾乃をわかってくれる人がいてよかった」
「詩乃がいるではありませんか。それにお兄様も、お姉様のことが好きでしょう?」
「それでも」
当然のことなのに。何を言っているんだろう。そう首を傾げた雪に、
「雪は、特別なんだよ」
兄は静かにそう言った。
外から来た人間。兄の中で、雪はまだそちら側なのだろうか。後から出会った人間が、硬くなった綾乃をわかってくれた、ということだろうか。
「僕は、幸せ者だ」
兄が星空を見上げる。
「かわいい妹たちがいて、ものすごく幸せなんだ」
その横顔が何を意味しているか、雪にはわからなかった。ただ、「幸せ」を語っているはずなのに、少しだけ寂しそうにも見えた。




