第17話 東都マテリアルサイエンス
東都マテリアルサイエンス株式会社――。
名前だけ聞くと、いかにも財閥系らしい会社だ。
無機材料、機能性セラミック、分離膜、表面処理、研究設備、共同開発。そういう言葉が名刺一枚で全部似合う、堅くて強い会社。
そして今、俺はその会社の研究棟へ向かう車の後部座席で、膝の上のケースを見下ろしていた。
中には、あの白い円盤――選択透過概念付与核から作った原器サンプルと、試験用の多孔質セラミック片が収まっている。
見た目は、たいしたことがない。
少なくとも、これまでの流れを知らない人間から見れば、古い実験器具か、試作品の材料サンプルくらいにしか思えないだろう。
だが、その中身は違う。
何を通し、何を通さないか。
その境界線そのものを物質へ与える技術。
バッテリーや永冷石も大概だったが、こいつはもっと静かに危ない。
目立たない顔で、工場や研究所の奥へするりと入っていくタイプの危険物だ。
「緊張してますか?」
前の席から、天城澪が聞いてきた。
「してるように見えるか?」
「少しだけ」
「そりゃするだろ」
俺は苦笑した。
「今までは工房か海鳴りの倉庫だったんだぞ。今回は真正面から材料会社の研究所だ」
「しかも論文の顔をして出ていく可能性があるやつだしな」
「良いことじゃないですか」
天城は振り返らずに言った。
「良い技術が、良い会社の研究所に入る。健全です」
「その“健全”って単語、毎回信用できないんだよな」
「久世さんが言うからです」
ひどい言い草だが、否定はしづらい。
車は湾岸沿いの道路を離れ、低い建物が整然と並ぶ研究開発区画へ入っていく。ガラスとコンクリートでできた四角い建物群。派手さはないが、金が掛かっているのは分かる。無駄のない外観だ。
やがて、車は白い研究棟の前で静かに止まった。
「着きました」
天城が先に降りる。
俺もケースを持って続いた。
エントランスを抜けると、空気が少し変わる。
工房の油っぽい匂いではない。
病院ほど清潔でもない。
薬品と樹脂と新しい機械の匂いが混ざった、研究施設特有の乾いた空気だ。
受付を通り、来客証を首に掛ける。
ロッカーへスマホを預け――ようとして、一瞬だけ手が止まる。
骨伝導イヤホン越しに、イヴが淡々と告げた。
【通信は維持可能です】
「便利だな」
【恒一の表情管理を推奨します】
余計なお世話だ。
研究棟の奥へ進む。
自動ドアがいくつか続き、その向こうに会議室があった。
扉の横のプレートには、簡素な英数字だけが並んでいる。
“材料評価室B-3”。
味気ない。だが、いかにも「大事な話はこういう部屋で決まる」感じのする名前だ。
天城がノックし、中へ入る。
「お待たせしました」
部屋の中には、すでに四人の人間がいた。
五十代前半くらいの男。研究開発本部の部長格だろう。
三十代後半の女性研究員。目つきが鋭い。
四十代の男。材料解析の担当っぽい顔をしている。
もう一人、法務寄りの技術管理者らしい男。
全員が一度、俺を見る。
だが、その視線に露骨な侮りはない。
天城が連れてきた時点で、ただの外部業者ではないと分かっているのだろう。
「東都マテリアルサイエンス、機能性材料開発室の室長をしております、神代です」
五十代の男がそう名乗った。
続いて他の三人も名乗る。
柏木、黒崎、吉峰。
天城はいつもの通り、最低限だけ紹介した。
「こちらが久世さんです」
「本件サンプルの提供元であり、最初期の実証検証を行っています」
“提供元”。
良い言い方だ。
怪しくもあるが、今はそれでいい。
神代が穏やかに笑った。
「天城さんから話は聞いています」
「正直に申し上げると、半分以上はまだ信じていません」
「それはそうでしょうね」
俺も正直に答えた。
「俺だって、最初に見た時は“妙にすごいフィルターだな”くらいの認識でした」
その言葉に、柏木という女性研究員がわずかに眉を上げた。
「フィルター、ですか」
「まあ、そこから始めた方が分かりやすいですよ」
俺はケースを机の上へ置いた。
カチ、と金具を外す。
中に並んでいる白い円盤と、試作用の多孔質セラミック片。
見た目だけなら、先方の研究者が普段触っている材料サンプルと大差ない。
だからこそ、このあとの反応が面白い。
◇
最初の十分は、説明の時間だった。
といっても、俺が話せるのは現象の外側だけだ。
「元になる原器が一つあります」
「それを使うと、既存の多孔質無機材へ“何を通し、何を通さないか”の偏りが与えられる」
「今のところ確認できているのは、粗い浄化、塩分の部分的低減、金属イオン挙動の偏りです」
「一度設定したサンプルは、数年単位で性能維持が見込めます」
黒崎という解析担当が、そこで手を止めた。
「……すみません、確認ですが」
「どうぞ」
「今の説明、理屈ではなく結果の話ですよね」
「そうです」
「理屈は?」
「現時点ではブラックボックスです」
研究者三人の顔が、綺麗に曇った。
気持ちは分かる。
気持ちは分かるが、そこは我慢してほしい。
天城がそこで割って入る。
「今回お願いしたいのは、原理解明ではありません」
「まずは、学術的に成立する外側の説明と、再現可能な運用条件の切り出しです」
神代がゆっくり頷いた。
「つまり、“よく分からないが動くもの”を、研究所の言葉へ翻訳しろ、と」
「ええ。率直に言えばそうです」
さすがに言い方が強い。
だが間違ってはいない。
神代は苦笑し、俺の方を見た。
「久世さん、先に現物を見せていただいても?」
「そのつもりです」
俺は原器サンプルではなく、昨夜作ったばかりの試験片を取り出した。
白い焼結セラミックの円板。
見た目は本当に、ただの多孔質材料だ。
「これは?」
柏木が聞く。
「普通の材料会社なら捨てない程度の試験片」
「でも、こっちはもう設定済みです」
「設定」
「そう思っておいてください」
俺は簡易治具へその試験片を固定した。
研究所側も準備はしていたらしい。
机の上には導電率計、簡易イオンクロマト風の測定器、小型ポンプ、透明配管まで揃っている。さすがだ。こういうのは早い。
最初は濁り水。
これはもう儀式みたいなものだ。
誰に見せても、分かりやすい。
流す。
向こう側へ落ちた液体は、誰の目にも分かるほど澄んでいた。
柏木がすぐ容器を持ち上げる。
「……これは、まあ、高性能濾過材の範囲でも説明はできます」
「そうですね」
俺は頷いた。
「だから次です」
塩水。
こっちは見た目では分かりにくい。
だが導電率計と簡易計測の数字は嘘をつかない。
流した後の液体を測る。
数値が落ちる。
柏木が黙る。
黒崎が一歩近づく。
神代は腕を組んだまま、視線を一切逸らさない。
「……繰り返します」
柏木が低い声で言う。
「事前冷却、事前吸着、相変化材の埋め込み、特殊樹脂層、そういったものは?」
「ありません」
「本当に?」
「本当に」
「構造解析は?」
天城が代わりに答えた。
「久世さん側でやれる範囲ではすでに見ています。少なくとも、既知の仕込み系ではない」
「だから今日ここへ持ってきたんです」
柏木は数秒黙り、それから自分で再度ポンプを動かした。
同じ手順。
同じ結果。
その顔が少しだけ変わる。
「……おかしい」
「はい」
「いや、はいじゃなくて」
初めて彼女の口調に研究者っぽい苛立ちが混ざった。
「おかしいです」
「濾過なら分かる。吸着でも、まだ分かる」
「でも、これは“通す/通さない”の挙動が綺麗すぎる」
俺は心の中で、やっぱりそこに行くか、と思った。
天城も同じだったらしい。
口元だけで小さく頷く。
黒崎がすぐに三本目の試液――金属塩混合液を用意した。
「これもやります」
「どうぞ」
今度は測定に時間がかかった。
色と簡易分析だけでは足りず、向こう側の小型測定器にいくつか流していく。
その間の沈黙が長い。
研究者が一番集中している時の空気だ。
やがて黒崎が顔を上げた。
「偏ってます」
「何が」
神代が聞く。
「通ってる成分です」
「全部ではなく、一部が強く出ている」
「しかも再試験でも傾向が揃う」
柏木が、試験片を見ながらぽつりと言った。
「……これ、膜ですね」
「フィルターじゃなく?」
「フィルターだと説明が雑すぎます」
その言い方に、思わず笑いそうになった。
昨日の俺も、たしかに“すごいフィルター”くらいの理解だったのだ。
そこから一歩先へ進んだ瞬間、材料屋の顔になる。
「膜か」
神代が静かに繰り返した。
「ただの濾過材じゃない。選択性がある」
そこで天城が言う。
「その理解で進めるのが一番自然だと思います」
「自然、ですか」
神代が彼女を見る。
その視線には、少しだけ皮肉が混じっていた。
「理屈が不自然なのに、です」
「理屈はここで作るんです」
天城は平然としていた。
「少なくとも表向きの理屈は」
さすがに研究者側の三人が微妙な顔をする。
だが法務寄りの吉峰だけは、逆に納得したような顔でメモを取っていた。
「つまり」
吉峰が言う。
「完全な真理を出す前に、既存科学の延長として説明可能な範囲を先に固める」
「そうです」
天城は頷く。
「相変化、細孔制御、表面電荷分布、結晶欠陥、アルミノシリケート骨格、いくらでも仮説は立てられる」
「重要なのは、成果が出ること」
「そしてその成果を、学術的に受け入れられる言葉へ整えることです」
柏木が目を細める。
「天城さん、それはつまり」
「はい」
天城は即答した。
「論文です」
◇
その一言で、部屋の空気がさらに変わった。
製品でもなく、事業でもなく、論文。
しかも財閥の材料会社から、だ。
神代が椅子へ深く座り直す。
「具体的には?」
「第一報は性能だけでいいと思います」
天城はタブレットを開いて、すでに何本か書き出していた候補を見せた。
「たとえば――」
画面を回す。
特殊処理無機多孔体の高選択透過挙動に関する基礎検討
花崗岩由来アルミノシリケート多孔体における高選択イオン透過特性
無機系高耐久分離膜の新規挙動に関する予備報告
神代が少し笑った。
「ずいぶん、それっぽい」
「それっぽくするために来ました」
天城が言うと、柏木が小さくため息をつく。
「いや、でもこれは……」
「たしかに論文の顔をしてますね」
「少なくとも、“高選択性セラミック分離膜”としては充分すぎるほど通る」
黒崎も腕を組んだ。
「構造解析は苦しいぞ」
「苦しいけど、性能だけなら本当に出る」
「変に全部説明しようとしない方がいいかもしれない」
「その通りです」
吉峰が口を挟む。
「特許は?」
そこで、少しだけ間が空いた。
俺は黙って天城を見る。
こういうのは彼女の領分だ。
天城は迷わず答えた。
「コアには触れません」
「少なくとも初期段階ではブラックボックス運用です」
「特許で核を説明するより、周辺の実装、容器構造、交換条件、運用ノウハウで囲った方がいい」
「説明義務を負いたくない、と」
吉峰が確認する。
「ええ」
「少なくとも今は」
その判断は正しい。
俺だって、こんなものを正面から“どうやってるか”聞かれたら説明に困る。
異星文明の概念付与核です、なんて通るわけがない。
神代は指先で机を叩きながら、試験片を見つめた。
「……久世さん」
「はい」
「これは、どの程度まで持つんです?」
「数年単位」
さすがに少しざわついた。
柏木がすぐ聞き返す。
「数年?」
「高負荷運転や設定変更を繰り返さなければ、三〜五年」
「低負荷ならもっと持つ可能性はある」
「交換式膜材として考えると、かなり長いですね……」
黒崎の口調には、完全に研究者の欲が出ていた。
「しかも選択性がここまで安定してるなら」
「いや、待て」
「これ、超純水いけるのでは?」
その瞬間、天城が小さく目を細めた。
神代も同じ顔をする。
俺も分かった。
話が一気に大きくなる瞬間だ。
「超純水はまだ早い」
天城が先に釘を刺した。
「方向としては正しいですが、いきなりそこへ行くと注目が早すぎます」
「まずは研究用途、電池材料精製、限定された高純度分離」
「その辺りから入るべきです」
「だが、最終的には行ける」
神代が低く言った。
「たぶん、そうなります」
天城の返事は短かった。
室内が静かになる。
誰も大声は出さない。だが、全員の頭の中で同じ連想が走っているのが分かった。
超純水。
半導体。
希少金属。
資源回収。
海水。
南鳥島。
言葉にしなくても、そこへ繋がる。
そして、その先には民間企業同士の競争だけでは済まない利害が待っている。
神代がそこで、はっきりと口にした。
「レアアース泥にも使えますね」
天城がすぐに答える。
「使えます」
「少なくとも、そう疑われます」
「その時点で政府が来るな」
「来るでしょうね」
「日本だけじゃない」
「ええ」
天城はあくまで平坦に言う。
「アメリカも、中国も、ロシアも来ます」
「たぶん連絡だけなら、めちゃくちゃ来ます」
その場にいた全員が、少しだけ嫌そうな顔をした。
だが同時に、どこかで分かってもいた。
ここまで来れば、それは当然だ。
神代が天井を仰ぐ。
「面倒だな……」
「面倒です」
天城が即答した。
「ただ、まだ時間はあります」
「論文の顔で出すなら、少なくとも最初は“材料科学のブレイクスルー”として扱える」
「しかも東都グループ内の案件です」
「表の窓口が財閥本流に近い以上、いきなり外から手を突っ込まれることはありません」
吉峰が補足するように言う。
「少なくとも、手を出したい側は一度きちんと順番を踏まされる」
「学会、共同研究、提携打診、政府ルート、全部並ぶでしょう」
「待ちぼうけを食うのは、たぶん向こうです」
その言い方が少し可笑しくて、俺は思わず笑ってしまった。
日本政府も、アメリカ政府も、中国政府も、ロシア政府も。
みんな「それをどうやってるんだ」と思いながら、まずは材料会社の窓口へ丁寧な連絡を入れてくる。
しかもその相手が、東都財閥の本流ラインに繋がる会社なら、無理やり取りに来るわけにもいかない。
「嫌な絵面だな」
俺が言うと、天城は少しだけ笑った。
「でも、かなりこちらに有利です」
「確かに」
神代も同意した。
「少なくとも、“拾った瞬間に持っていかれる”類ではない」
「その意味では理想的だ」
柏木が試験片を見つめたまま言う。
「しかし、本当にこれ……」
「論文になるんですね」
「なります」
天城はきっぱり言った。
「正確には、論文にしてしまうんです」
強いな、この人は。
だが、その強さが今は必要だった。
超技術を“それっぽい学術成果”へ落とし込むには、迷いが一番邪魔だ。
「じゃあ」
神代が手を組む。
「進め方を整理しましょう」
「原器サンプルは限定貸与」
「設定変更は久世さん側」
「我々は周辺材料へ転写されたサンプルの評価から入る」
「第一報は性能中心」
「超純水やレアアース回収への直結言及はまだ避ける」
「ただし内部検討は進める」
「それでお願いします」
天城が答える。
「あと、対外説明では“特殊処理花崗岩由来アルミノシリケート多孔体”のラインを維持したい」
「石っぽさを完全には消さない方がいいです」
柏木が首を傾げる。
「なぜです?」
「完全に隠すと逆に不自然です」
「見た目もデータも、ある程度そちらへ寄っている」
「なら、隠しきれない部分は最初から出してしまう方がいい」
「東都E&LのEEL-TCと同じです」
なるほど、と神代が頷く。
確かにその通りだ。
永冷石だって、“花崗岩を基材とした複合材”として出したからまだ通っている。
嘘を大きくつくより、真実の一部だけを出しておく方が強い。
「……面白くなってきたな」
俺がぽつりと呟くと、天城がすぐこちらを見た。
「面白がるのはまだ早いです」
「え、まだ序盤だろこれ」
「だからです」
その返しに、部屋の空気が少しだけ和んだ。
でも実際、序盤なのだ。
この白い円盤が本当に社会へ出ていくのは、まだ少し先。
けれど、その方向だけはもう決まった。
東都マテリアルサイエンス。
高選択性セラミック分離膜。
論文。
共同研究。
学会。
そしてその先の、資源と国家の話。
静かだ。
けれど遠くまで行く。
たぶんこの技術は、これまでのどの遺産よりも静かな顔で、一番深いところまで刺さる。
「……祖父の収集品ってさ」
会議室を出る前、俺は小さく言った。
「こういうの、まだ他にもあるんだろうな」
天城は一瞬だけ黙って、それから答えた。
「あるでしょうね」
「嫌だなあ」
「楽しそうですよ」
「否定できない」
天城がほんの少しだけ笑う。
それを見て、俺も笑った。
たぶん、また忙しくなる。
いや、もうなっている。
でも、それでいい。
表向きは論文。
中身は異星文明の断片。
そんなものが一枚、財閥の研究所へ滑り込んだ。
ここから先はたぶん、もっと面倒で、もっと大きい。
そして間違いなく、面白い。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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