第8話 凍てつく湖と、水晶魚の天ぷら
北の大地は、想像を絶する寒さだった。 吐く息は瞬時に白く凍りつき、まつ毛に霜が降りる。
「さ、さむ……寒いです、ボルグさん……!」
リズは毛布を三枚重ねにして体に巻き付け、ミノムシのような姿でガタガタと震えていた。 一方、ボルグは平然としたものだ。 薄手のシャツの上に革鎧、その上に防寒用のマントを羽織っているだけだが、顔色一つ変えていない。
「動いていれば温まる」 「それはボルグさんが人間サイズの馬車を一人で引いてるからですよぉ……!」
文句を言いながらも、リズは窓の外に広がる銀世界に見とれていた。 一面の雪原。遠くには氷を纏った針葉樹林。 そして目の前には、巨大な鏡のような場所が現れた。
「……着いたな」
ボルグが足を止める。 そこは、完全に凍結した湖だった。 厚さ数メートルはある氷盤が湖面を覆い、太陽の光を反射して青白く輝いている。
「今日はここで野営だ。晩飯はこの湖の主を狙う」 『ほう! 湖の主か! 水竜か!? ようやく我の出番だな!』
魔剣グラムが鞘の中で色めき立つ。 だが、ボルグが荷台から取り出したのは、細い釣り竿と、バケツだった。
「いや、狙うのは『クリスタル・スメルト(水晶公魚)』だ」 『……は? 小魚?』
*
クリスタル・スメルト。 極寒の清流にしか生息しない、体がガラスのように透明な小魚だ。 その身は淡白ながらも上品な甘みがあり、骨まで柔らかい。市場に出れば「泳ぐ宝石」として金貨で取引される高級食材である。
「だが、問題がある」
ボルグは氷の上に立つと、足元をコンコンと踏み鳴らした。
「ここの氷は『万年氷』だ。普通のツルハシじゃ傷一つつかん。穴が開けられなければ、釣り糸も垂らせない」 『……嫌な予感がするぞ』 「頼む」
ズドッ。
ボルグは躊躇なく魔剣を氷に突き立てた。 硬度ダイヤ並みの氷が、まるで発泡スチロールのように貫かれる。
『冷たぁぁぁいッ! やめろ! 我を氷漬けにする気か! 刀身が縮むぅぅ!』 「円形に切り抜け。直径30センチだ」
ギャリリリリ……!
ボルグは魔剣をコンパスのように回し、分厚い氷盤を円形にくり抜いた。 ポカリと空いた穴から、黒々とした冷たい水面が顔を覗かせる。
「完璧だ。いい穴釣り(アイス・フィッシング)ができる」 『屈辱だ……。世界を切り裂く刃が、ただの穴開けドリルとは……』
涙声の魔剣を氷に突き刺して固定し(竿置き代わりだ)、ボルグは釣りを開始した。 入れ食いだった。 餌を垂らすたびに、透き通った美しい魚がピチピチと跳ねて上がってくる。
「すごい! 綺麗なお魚!」 「こいつは鮮度が命だ。釣り上げて数分で味が落ちる。だから――」
ボルグは湖上でコンロに火を点けた。 中華鍋に油を並々と注ぎ、加熱する。
「その場で揚げる」
ボウルに小麦粉と卵、そして隠し味に「冷たい雪解け水」と「エール(ビール)」を混ぜ合わせる。 衣は冷たければ冷たいほど、揚げた時にサクサクになる。この極寒の環境は、天ぷらにとって最高の調理場なのだ。
生きたままの水晶魚に粉をまぶし、衣液にくぐらせ、熱した油へ投入。
ジュワアアアアアア……ッ!!
氷の世界に、小気味よい揚げ音が響き渡る。 衣の中で水分が蒸発し、魚の旨味が凝縮されていく。 パチパチという泡の音が小さくなったら、揚げ上がりの合図だ。
「『水晶魚のフリッター』だ。塩を振って食え」
黄金色に揚がった熱々の小魚。 リズはフーフーと息を吹きかけ、恐る恐る口に運ぶ。
サクッ……。
軽快な音。 ビールの炭酸効果で空気を含んだ衣は、驚くほど軽く、サクサクと崩れる。 そして中からは、ホワホワの白身が……。
「んんっ……! 溶ける……!」
リズが頬を抑えて悶絶する。 苦味や臭みは一切ない。 ほのかな塩気が、魚本来の繊細な甘みを極限まで引き立てている。骨も全く気にならない。 熱々の油と、外気の寒さのコントラストが、美味しさを倍増させていた。
「はふ、はふっ、美味しい……! 衣はカリカリなのに、中はクリームみたいです!」 「内臓のほろ苦さが、また酒に合うんだ」
ボルグは揚げたての魚をつまみに、冷えたエールを煽る。 「寒い中で食う熱い飯ほど、贅沢なものはない」
バケツ一杯の魚があっという間に空になった。 満たされた二人が、後片付けをしようとした時だった。
ズ……ズズ……。
足元の氷が、低く唸った。 いや、振動している。 釣り穴の水面が大きく波打ち、水位が急激に下がっていく。
『おい人間。下からとんでもないデカいのが来るぞ』
魔剣が、これまでにない真剣な声で警告した。 ボルグの目が鋭くなる。 小魚の群れを追って、この湖の「本当の主」が浮上してきたのだ。
「……どうやら、デザートの時間らしいな」
氷盤の下から、巨大な影がゆらりと姿を現そうとしていた。 目的の獲物――『氷雪クジラ(アイス・ホエール)』との遭遇は、唐突に訪れた。




