下
どれくらい時間が経っただろうか。
公爵は私をようやく離すと、ボートの座席の下に手を入れ、なんと別の櫂を引っ張りだした。
彼は驚いている私と目が合うと、からかう様に言った。
「予備の櫂があるのを知らなかった?」
私は悔しいので答えなかった。
ボートが岸に着く頃、雨がポツポツと降り始めた。
急いでボートから飛び降り、ボート小屋まで走る。
小屋は鍵がかかっていて中には入れず、仕方なく私たちはひさしの下で雨宿りをした。
濡れた服が冷たく、二の腕をさすっていると、隣にいた公爵が腕を伸ばしてきた。あっという間に私は公爵に抱きしめられていた。
最初は公爵の濡れた服がひんやりと冷たく感じられた。だがそのうちくっついている方が、暖かいということに気づいた。
「不思議だな。……前にも君とこうして、雨宿りをした事がある。そんな気がする」
公爵は不思議なことを言う。
変わった人だな、と少し思ったけれど、嫌な気持ちは全くしない。
私は公爵とくっついていることにあまりに胸がドキドキしていて、そのうち何も考えられなくなった。
どのくらいそうしていただろうか。
公爵は独り言のように囁いた。
「なぜだろう。やはり木の下かどこかで、君と雨宿りをしたような気がする」
「公爵様……」
「明日も、君に会いたい。明後日も、できればそれ以降も」
公爵はそう言うと、顔を私に寄せてきた。私は黙ってそれを見ていた。公爵の秀麗な顔が迫り、私が抵抗する間も無く、彼の唇が私のそれに触れる。ーーーー抵抗する間があったとしても、私は避けなかったかもしれない。
柔らかな唇はすぐに離され、公爵は勝ち誇った様な笑みを浮かべた。
「ドムナ子爵とは出来なくても、私とは違うのかな」
自分でも顔が赤くなるのが分かった。至近距離から熱心に私を見つめてくる青い瞳が怖くて、私は顔を背けて後ずさりをした。
すると公爵は私の顎をとらえ、上向かせた。そのまままたキスをされた。
私は瞳を閉じはしたけれど、彼のキスを避ける気は起きなかった。それどころか、頭の芯がぼうっとする様な高揚感の中にいた。
脳裏に父やドムナ子爵の顔が思い浮かび、複雑な気持ちでいっぱいになった。
ーーーー私はこの公爵と、何をしているんだろう。
水遊びどころか、たいした火遊びだ。
雨はますます激しさを増し、地面に叩きつける様に降り続いた。見る間にそこかしこに大きな水溜りが出来、霧と湿度によって、辺りは全体が白く霞んでいった。
「ここに留まるのも危険だ」
公爵がそう呟いたのをきっかけに、私たちは馬まで走り出した。下着まで濡れた状態で馬の鞍に上がり、水溜りを蹴散らして森の道を進む。
「公爵様。私の家はこのすぐ近くなの。雨宿りをしていって!」
ホルガー城につくと、私たちは中に駆け込んだ。
服が吸い込んだ大量の雨が、玄関の陶器のタイルの上に水溜りを作る。
服の裾を盛大に絞ってから、私は公爵を中に案内した。
一番まともに家具が揃っている客間に公爵を連れて行くと、私は父を探した。
父は三階の廊下で見つかった。雑巾片手に、廊下を徒競走か何かの如く走り回っていたのだ。
「リーナ!どこに行っていたんだ!大変なんだ、また雨漏りしてる」
父は廊下の奥に、何個も鍋を並べていた。天井から不規則に水滴が落ち、鍋にぼたぼたと落ちている。
父は床を雑巾でいそいそと拭きながら、私を見上げて言った。
「ずぶ濡れじゃないか。突っ立ってないで、着替えてきなさい。どこに行っていたんだい」
「……お父様。私…」
振り返った父の顔は、思った以上に優しかった。
私はその事に勇気を得た。
「私、…………ドムナ子爵が、本当は好きじゃないの」
父は一瞬驚いた様に目を丸くした。だが雑巾を置いてゆっくりと立ち上がると、柔らかな表情で口を開いた。
「そうか。てっきり…」
私たちは暫くのあいだ、口を開かなかった。
二人で無言で廊下に佇んでいた。私はずっと言い出せなかった事をやっと言えた緊張感から、服が濡れているのも忘れていた。
「ここのところ、リーナの様子がおかしかったのは、そのせいだったんだね」
「ごめんなさい」
「謝る必要なんて全然ない。何を謝る」
私は床に並ぶ鍋を見た。水が次々と落ちる音が、もはや楽器の様だ。
私の視線の意味に気づいたのか、父は少し情けなさそうに笑った。
「まさかお前、ウチのためにドムナ子爵と結婚しなきゃ、と思っていたのか?」
無言で父の顔を見た。
私は少し怯えた顔をしていただろう。
「リーナ。私はね、本当に困ったら、この城を売っても良いと思っているんだよ」
「そんなの、ダメだよ!」
ここは初代ホルガー伯爵が、当時のガルシア国王から貰った、名誉の象徴そのものだ。
「城に拘って不幸な結婚生活を送るより、ずっと良い。ご先祖も、城よりお前の幸せを願っているに違いないよ」
二人で黙っていると、後ろからコツコツと靴の音がした。
しまった、と慌てて振り返ると、公爵がこちらへ歩いて来ていた。
「すみません、お待たせしてしまって……!」
父は私と公爵を驚いて見比べていた。
「お父様。お墓まいりの帰りに会って、うちで雨宿りをして貰っているの。デーシェン公爵様だよ」
「デーシェン公爵……? 」
「今のお話を少し伺ってしまいました。失礼ですが、城を売られるご予定とか」
「いえ、まだ決まったワケでは…」
「私が買いますよ」
父は素っ頓狂な声を上げた。
「貴方がたはそのままこちらに住めば良い。その代わり、条件があります。娘さんとドムナ子爵との婚約を、断って下さい」
私は息を飲んだ。
そして、父の顔を見た。父は困った様に笑った。
「頼まれずとも、そのつもりですとも」
「お父様、ごめんなさい」
「だから、お前が謝ることはないんだよ」
父はそういうと、濡れた手をズボンで拭った。
「とにかく、二人とも直ぐに着替えなくては。風邪を引いてしまうよ。ーー公爵殿、私の服で宜しかったらお貸しします!」
着替え終わって客間に戻ると、公爵はガウンを羽織って暖炉の前の椅子に腰掛けていた。
彼は私が来たことに気づくと、こちらを振り返り、穏やかに微笑んだ。
暖かく燃える暖炉の火が公爵を照らし、とても素敵だった。
彼は立ち上がって私の方まで歩いてくると、私の背中を押して暖炉の前まで誘導した。
「君も冷えたはずだ。こちらへ来て、暖をとると良い」
私たちは火の前に並び、しばらく黙ってはぜる薪を見つめた。
私は隣に立つ公爵をゆっくりと見上げた。聞きたいことがあった。
「公爵様。……さっきはどうして、ここを買うなんて……?」
公爵は緩慢に首を回し、暗い客間の中をじっくり観察した。
「素晴らしい城だ。お世辞抜きに。君のご先祖への、レスター王の深い敬意を感じる。手放すのは勿体無い」
公爵はそう言い切った後でわずかに苦笑しつつ、思わずの様に漏らした。
「修繕が急務だが」
そう言う公爵の視線は、暖炉の上の装飾された壁に向けられていた。壁を飾る石の彫刻の半分近くが、剥がれ落ちて行方不明になっている。
急に思い出したかの様に、ボロい我が家が恥ずかしくなる。
私が恥じ入っていると公爵は言った。
「私が買ったら君は今まで通り、ここに住めば良い」
「えっ?」
さっきも言っていた気がするが、それはどう言う事なのだろう。
公爵の手が伸ばされ、私の手に触れた。
「もし……私が君に婚約を申し込んだら、嫌かどうか考えてみてほしい」
今言われた事が、信じられなかった。聞き間違いかと思ったが、公爵は真っ直ぐに私を見て、答えを待ってくれていた。
「嫌なはず、ない……」
公爵は破顔一笑した。
その美しい瞳に、言葉を吸い取られる気分だった。
公爵は私の手を取った。
その時、私の手首から腕輪が外れ、濡れた床に落ちた。慌ててかがみ、それを拾う。
よく見れば留め金の一部が壊れ、緩くなっていた。これではすぐに取れてしまう筈だ。
隣から覗き込んでいた公爵が言った。
「その腕輪はきっと、私たちが出会う為にあった」
「この腕輪が?」
「会ったばかりなのに、おかしいかもしれない。でも私は森で会った瞬間から、君が好きでたまらない」
「公爵様……」
火のせいか、告白のせいか、顔が火照って仕方がない。
気恥ずかしさから、腕輪に視線を落とす。
そうして金色に光る腕輪の表面を、指の腹でそっと撫でた。
目を上げて、公爵を見た。
不思議と、公爵とは会ったばかりなのに、見つめ合っているとずっと前から知っている様な懐かしさを感じた。心の奥底が穏やかにあたたまる様な。
「おかしくないです。ーーううん、そう思っちゃう私も、同じくらいおかしいんです」
「君と会った瞬間から、私には何か確信めいたものがあった。こうなるはずだ、と」
「そうかも知れない……。公爵様。私たち、やっぱりだいぶ前にどこかで会ったかな」
公爵は私の左手を引いた。
「きっと、会っている。だから今度は君を離さない」
公爵は私の左手をグッと引き寄せ、私を抱き締めた。
私もそっと両手を上げて、公爵の背に腕を回し彼を抱き締め返す。
胸の中にゆっくりと、けれど確実に、満ち足りた気持ちが広がっていく。
「うん。……私も、ずっと一緒にいたいです」
「私と結婚してくれる?」
あれっ。婚約はどこに行っちゃったんだろう。
少しおかしくなりながらも、私は答えた。
「ーーはい。公爵様と……」
言い終える間合いを公爵はくれなかった。彼は私の顎先をぐっと上向かせると、熱い口づけを降らせてきた。
私たちは客間にやって来た父が驚きのあまり間抜けな悲鳴をあげるまで、そうして抱き合っていた。