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我がクラスに転入生がやってきた。
いや、この表現は間違っている。
我がクラスに“地球少女”がやってきた。
二年一組担任教諭の桜井成美先生は、物静かそうな少女を引き連れ、黒板にチョークを擦りつけ、丁寧な筆跡で彼女の名をデカデカと書いた。
『青地球香(あおち・きゅうか』……そう、『地球』と――。
球香は成美先生に促され、しゃべりだした。
「わたしの名は、青地球香……またの名を、『地球』。みんな、よろしく」
これではドン引きしたクラスメートが静まりかえるか、あまりのジョークのよさにクラスメートが騒ぎ出すかのどちらかだろう。
そう思っていた。
けれど、それは大きな間違いだった。
クラスメートは皆、球香のジョークともいえる言葉を平然と聞き流し、あまつさえ拍手までして迎えていたのだ。
それがあまりにも自然だったため、わたしは自分がオーバーな思考をしていたのだと、思うようにした。
それがこの世界の掟だからだ。
この世は平穏に満ちていて、異常などという掟破りは起きるはずがない――それこそが、わたしの日常なのだ。
わたしが考えに熱中していると、とうとつに成美先生がわたしと夜魅を名指しする。
否、『救世主』のわたしと『征服者』の夜魅を名指しする。
「『救世主』の清水さん、『征服者』の滝川さん……『地球』から、お話があります」
『地球』から、わたしと夜魅に話がある――。
平然と成美先生はそう言い、球香を見ると、にこりと微笑みかけた。
球香はこくりと頷くと、名前も知らぬはずのわたしたちの名を呼び、
「二人とも、起立」
と平和的に促す。
成美先生はおろか……その場にいるクラスメートでさえ、この混沌とした事態になるのはさも自然だと言う風に、ただ素知らぬ顔をしていた。
禍々しく、不気味で歪――今の雰囲気を表すなら、そのようになるだろう。
「ナルミンもだけどよ。お前ら……一体なんの冗談だ? 今日はエイプリルフールかなにか……ではないよな。とにかく、だ……悪い冗談はよせ!」
影勝が席から立ち上がり、木偶のように反応を示さない存在となってしまったクラスメート、それに成美先生を一喝する。
その言葉が合図となり、わたしの元には光輝と水希……夜魅の元には影勝と暗夢が集う。
すると、そのときを待っていたかのように球香が言葉を発した。
「無駄だよ。みんな、わたしの術式にかかっているの。だから、無駄だよ」
この現象は自分が起こした――そう球香は淡々と言いのける。
「術式、ですか……これはまた、ファンタスティックなことを言いますのね。自称・地球さん」
「ファンタスティック……その言葉の響き、好き。今度から、使ってみるね。ありがとう」
煽るような暗夢の言葉に対し、当の球香は苛立った様子をみせない。
どころか、この状況を彼女は楽しんでいる節さえも窺える。
てんで感情が読めない――わたしは嫌悪感に襲われると同時に、人間の本能ともいえる恐怖が芽生えだした。
「そんで……あんたの“お話”とやらは、なんだい。おれは分からず屋でも頭ごなしでもないから、聞くだけ聞いてやろう。さっさと言え」
光輝は半ば球香を脅しつけるように、先を促す。
対する球香は困り顔になって、首を傾げるのみ。
けれど、次にわたしがまばたきしたとき、彼女は合点がいったとばかりに表情を明るくさせ、何度か頷くのだった。
「そうこなくっちゃ」
それでようやく、球香――『地球』の“お話”が始まった。
「さっきも言ったと思うけど、わたしは『地球』。単なる名前ではなく、わたしは惑星の『地球』。醜悪な人類に心底困り果てた、しがない『地球』……」
そこで『地球』は話を中断すると、呆けたように口を半開きにする。
なにごとかと見守っていると、彼女はとうとつに口を押さえ、くしゃみをした。
明らかに、わたしたちの間で緊張の糸が切れる。
『地球』は場を仕切り直すとばかりに咳払いを行うと、それからまた話し出した。
「そんな高貴である『地球』のわたしが、わざわざ人間にまでなった理由はね、『救世主』と『征服者』……そのどちらが正真正銘の存在なのか、わたしの手で確かめたかったからなの。だって、そうでしょう? 『救世主』と『征服者』が二つ同時に存在するだなんてこと、本来ならあってはならない。そう、矛盾しているの」
『地球』が引き放った鮮烈という言葉の矢。
それはわたしの心の根底に存在する、小さいがとても厄介な“闇”という的を射ぬいた。
射ぬかれた“闇”からは、たくさんの膿がとめどなくあふれ出し、わたしの心に粘っこく浸透し始める。
静寂。戦慄。
そして憤怒。
「なにが正真正銘の存在よ。あなた、わたしたちとなんら間柄のない赤の他人じゃない。それなのに勝手なことばかり言って……そんなのふざけてる!」
気づくとわたしは怒声を上げ、学校机を片方の拳で何度も何度も叩いていた。
「光凛、落ち着け」
光輝がわたしをなだめているのにも関わらず、怒りは収まらなかった。
けれど、そばにいた水希が身を震わせながら怯えていることに気づき、わたしは正気を取り戻した。
机を叩くのをやめると同時に、自分の拳が悲鳴を上げていたことにわたしは気づいた。
「…………」
わたしは忌まわしい物体を机の下に隠すかのように、ズキズキと痛む拳を膝の上に降ろした。
それから、なおも身を震わせている水希にわたしは視線を移し、「ごめんなさいね」と静かに謝った。
わたしの一挙一動をピクリともせずに見守っていた『地球』は、悠然たる面持ちで話を再開した。
「乗り気、ではないんだ。ふぅん……思った以上に、『救世主』のほうはだいぶ偏屈な人間みたい。変わった人……ううん、変わった『救世主』だね」
その『地球』の言葉は、わたし自身の救世主像を酷く汚すものだった。
「言いたいことはそれだけですか? もしもそうなら、もうこれ以上わたしたちに関わらないでください。そして、近づかないでください」
水希が『地球』に懇願したことで、彼女が『地球』という未知の存在に対し、畏怖していることが判明した。
畏怖――それはわたしでさえ、同じことだ。
わたしは『地球』という偉大なる存在と対面し、動揺している。
酷く錯乱している。
それが不思議ちゃんのようなちんぷんかんの少女、であるとしてもだ。
「関わるな、と言われても……それは『救世主』と『征服者』の二人が決めること。『救世主』の配下でしかない、あなた如きが出る幕ではないの。お分かり?」
『地球』の最後の問いかけには、どこか水希を卑下する響きがあった。
それっきり、水希は黙りこんでしまった。
「『救世主』、または『征服者』。それを名乗るのはどちらか一方。決して、二つが二つ存在してはならない。そんなに名乗りたければ、どちらか一方を蹴落とすこと。……うん」
――わたしからは以上だよん。
場の雰囲気を読み取ったのだろう、そうして『地球』は話を締めくくった。
すると次の瞬間、木偶のように反応を示さなかった成美先生やクラスメートがとうとうに反応を示した。
沸き起こる拍手や喝采。
木偶から、人間へと戻ったのだ。
わたしはその現象を馬鹿みたいに眺めることしかできなかった。
次第に拍手や喝采はやんだ。
成美先生は『地球』に席の場所を教えると、定時にショートホームルームを終えた。
成美先生が教室から出て行ったあと、わたしは『地球』が前列の席で、クラスメートの一人と仲良く話していることに気づいた。
すでに、わたしの近くにいた光輝と水希は自分の席に戻っていたし、夜魅の近くにいた影勝や暗夢も同様だった。
「…………」
わたしは『地球』を一瞥したのち、まだ茫然自失としている夜魅に視線を向けた。
なんとなく――いや、小学生時代からの付き合いで、わたしは夜魅がこの『地球』からの果たし状を受けるつもりでいるのだと察していた。
「……ふぅ」
わたしは昼休み、夜魅と話し合う覚悟を決めた。