第九十三話『恐慌』
「この辺でいい。その壁にもたれさせてあげて」
麗美香の指示通りに、俺は抱えていたタマを座らせて壁にもたれさせる。人生二人目のお姫様抱っこの相手は見ず知らずの女の子だった。麗美香がタマと呼んでいる人物。そしてこの子の顔はファイルに在ったので本名は覚えている。ただ、取り立ててそのプロフィールには特徴的なものは無い存在だった。まさに無個性。それ故にスパイに向いていたのかもしれないが。
事は半時ほど前に遡る。麗美香と別れて、俺とニーナは家に帰る途中だった。美雨とヤマゲンもそれぞれに寮に戻ったはずである。麗美香からの連絡待ちということで、今日は解散となった。子猫については美雨が部屋に連れて行った。ここの寮はペット禁止であるが、こっそり部屋に入れるつもりらしい。ルームメイトにも頼み込むつもりとのこと。猫が嫌いな人は居ませんから、という美雨の言葉。いや、猫嫌いな人も居るぞと思ったが黙っておいた。
そんな時である。ニーナと一緒に帰宅のバスを待っていたのだが、麗美香から電話があったのだ。
「ポチだけすぐに来て。大至急。他の子には何も言っちゃダメ。わかった?」
一方的に捲し立てられた。かなり焦っている様子だった。他の子に言っちゃダメって、まあニーナしかここには居ないけど、そして今まさに帰りのバスに乗ろうとしていたところなのに、どう言えと。下手な言い方したらニーナの奴も絶対一緒に来るって言うからな。うーん。
「ごめんニーナ。急用ができた。先に帰ってくれ」
不審な顔をして乗り掛かったバスを降りようとするニーナを両手で押し止めて、
「なんか、麗美香が俺にだけ話があるらしい」
あれ? なんか凄く下手な言い方をした気がする。ニーナの目が見開かれて硬直した。そのまま上手い具合にバスの扉が閉まり、中にニーナを乗せたままバスは出発して行った。バスの運ちゃんグッジョブだ。
まあでも、アレじゃ戻ってきそうだなあ。その辺は不安ではあるが、今は急ごう。麗美香の焦った様子が気になる。タマに会いに行って何か不測の事態が起きたのだ。
指定された場所に着いて驚いた。薄暗い公園に麗美香がハルバードの切先を、突き付けていた。その先に女の子が倒れていたのだ。
「麗美香、お前、殺っちゃったのか? すまん、死体遺棄の手伝いなら勘弁だ。まだ犯罪者になりたくないし」
「死んじゃいないよ。ただ、さっきからまったく動かないけど。ちょっとポチ、その子触って確かめて」
おいおい、まさか俺に罪を擦り付けるつもりかこいつ。指紋でも付けさせようってのか。ひでえ奴だ。とりあえず倒れている女の子の傍まで行き、状態を観察する。
微かに呼吸があった。胸が微かに呼吸に合わせて上下しているのが見て取れた。よかったと、死体遺棄の手伝いでないとわかりほっとした。
「遠慮なく、好きに色んなとこ触っていいよ。見なかったことにしてあげるから」
「そんなことしねーーーよっ! お前、何言いやがる」
「ちっ。役立たず。いろいろと調べて欲しかったのに……まあいいわ。じゃあせめて、その子抱えてちょーだい。移動するから」
「それはいいが、なあ、ひとつ確認したいんだが、この子がタマなのか?」
ハルバードの先を倒れた女の子に突き付けたまま、目線も俺に向けずに不機嫌そうに「そうよ。だから?」と吐き捨てた。なおも事情の説明を求めるが、
「説明は後。まだ闘いの真っ最中よ。いいからこの子を抱えて。ここから離脱するから!」
いつもの冗談めいた声音ではなく、本気の声だと感じた。それだけに事態の切迫感が伝わった。詳細がまったくわからないのが不満であるが、麗美香の言を信じるのであれば一刻も早くここから立ち去るのが正解なのだろう。色々聞きたいことはあったが、今は麗美香に従っておいてやる。
そっと丁寧にタマを抱え上げた。タマはぐったりとしていてぴくりとも動かない。ただ、想像よりも随分軽かったので少し驚いた。小柄で細身ならこんなものなのかとよくわからない感想が出た。
「じゃ、ポチが先頭で歩いて。女子寮の方に戻るよ」
◇◇◇
そして女子寮の壁に、タマをもたれさせるに至る。
「で、この子どうするんだよ? このままここに放置するのか? 部屋に連れて帰るんじゃないのかよ」
「ここに女の子が倒れてるって通報しておくから大丈夫よ。後のことは知らない」
公園で見たときと同じく、タマにハルバードを突き付けながらそんなことを言う麗美香。
「ポチ。あんたポチだよね?」
視線はタマに向けたまま、麗美香が尋ねる。質問の意味がわからない。
「意味がわかんねえよ。いい加減事情を説明しろよ」
「そうね。ちょっとわたしも混乱中なので、上手く説明できないけど……この子の身体はタマだけど、中身はタマじゃなかった。別の奴。あいつはわたしの御姉様とか言ってたけど、本当かどうか知らない。なんていうの? 乗り移り? 違うか、えっと、入れ替わりみたいな感じ。あいつがタマと入れ替わったってことよね。たぶん」
「すまん、何言ってるのがよくわからないが、この子とお前の姉さんが入れ替わったってことか? でも、確かタマって、あの子猫になってるみたいな感じだったじゃねえか」
「わたしが知るわけないでしょ。あいつが猫だったんじゃない?」
しかし、そうなると、どうなるのだ?
自称麗美香の御姉様が猫で、その猫とタマが入れ替わった?
いやいや、麗美香の御姉様が猫って意味わかんねえだろう……。
「そんなことはどうでもいいわ。問題は、今あいつがどこに居るか。まだタマの中に居るのか、それとも別の人間と入れ替わったのか……それに、どうやって入れ替わるのか、その方法がわからないから、気をつけなきゃ。ポチも気をつけて。あんたこの子に触ったでしょ。わたしはまだ触れてないから大丈夫だと思うけど」
おい、今こいつ聴きづてならないこと言ったぞ、こいつ。触ると入れ替わられるかもしれないから、麗美香は触らずに俺に触らせたのか? ひでえ奴だ。なにが味方だからだよ。まったく信用できねえじゃねえか。
「だって、わたしが入れ替わられたらポチにどうにかできるの?」
「いやまあ、確かにそうだけど、俺が入れ替わられたらどうするつもりだったんだよ?」
「ポチが入れ替わられても、わたしは簡単に倒せるから問題ないし」
倒すことが前提なのかよ。確かに言う通り、麗美香の判断は間違ってないかもしれないけど、納得いかねー。それに、倒された俺はどうなるんだ?
「ごめん。ほんとは悪かったと思ってる。ごめんね。でも、ポチならやってくれると思ったから」
少し動揺が収まって来たのか、麗美香はそんなことを言った。潤んだ瞳で突然そんなこと言われたら、許そうとしてしまうそんな男心が嫌だ。まったくこいつは卑怯だ。
「まあ、最良の判断だったと納得しておいてやるけど、その代わりちゃんと始末をつけろよ」
「わかってる。ありがとう。絶対あいつ、ぶっ倒す」
麗美香はタマの身体に注視しながら少しずつ距離をとって女子寮方へ移動して行った。
「なあ、このままこの子の身体拘束して監禁とかしなくていいのか? 放置してたらどんどん別の人間に移動してって、すげえ厄介なことになりそうに思うんだけど」
「ポチ。女子高生監禁陵辱で逮捕されたいの? そんなことしたら余罪まで暴かれて大変な事になるよ」
「まて、陵辱とか言ってないし、それに余罪があることが何で前提なんだよ!」
「今のわたしたちにできることはここまでね。後手後手だけど……悔しいけど」
「お前とこの家の力でなんとかできねえのかよ?」
麗美香の家は財閥だ。その権力を使えば、この女子生徒を確保するとかできそうだが。
「どうやら……この件。爺様が絡んでそうなのよ。だから、家は当てにならないわ。むしろ主犯よ」
麗美香の沈痛な表情を見ると、俺は何も言えなくなった。不安要素だらけだ。このまま放置するのも不安だし、タマの傍に居るのも不安である。
「とにかく、他のみんなにはわたしから説明しておく。ポチも充分に気を付けて」
そう言うと、さっさと女子寮の中に入っていった。
人に入れ替わる能力か。俺は入れ替わられているのかいないのか?
麗美香の反応から、俺は俺っぽく見えてたみたいだからたぶん大丈夫だ。なんかあんな話を聞かされたら不安になる。
そうだ、万が一のことがある。まだ俺が俺である内に、ニーナには伝えておかなければならない。麗美香がみんなに伝えると言っていたが、いつ伝えるつもりなのかわからないし。ニーナには帰ったらすぐにでも会うことになる。その時に何かあってからでは遅いのだ。
「お掛けになった電話は、機嫌が悪いためお繋ぎできません……」
ニーナの声が電話口から聴こえる。ごめんよ。どうやらバス停でのことでお怒りのようだ。
「ごめん。ニーナ。ほんとうにごめんって。とりあえず、今から大事な話をするから、聞いてくれ。頼むから聞いてくれ」
そう言って懇願するより他になかった。




