第三十二話 『心の枷』
「ん? そこに誰か倒れていなかったか?」
nullさんは、教員が倒れていた辺りを指差す。
「ああ、その人はエレベータ前に運びました。下の階に降ろそうと思いまして。ここに放置していると、襲われたらいけないので」
「では、おまえと、そこのおまえ、そいつをとっとと降ろしてしまえ」
nullさんは、ヤマゲンにも声を掛けた。急に声を掛けられて、ヤマゲンはまごついている様子だった。
「えっとでも、それじゃ、nullさんとニーナだけになるじゃないですか?」
「そうだが、なにか問題があるのか?」
「二人だけで行くのは危なくないですか?」
「あの男を運ぶのなら、おまえがいないと大変だろう。重そうだからな。
ニーナがいないと闘えんし、残るは、わたしかそこのやつしかおるまい。
おまえ一人じゃ運ぶのきつかろう」
nullさんを信じないわけではないが、ニーナと二人っきりにするのには躊躇いがある。
ニーナの方を窺うと、彼女は大丈夫だと頷いた。ニーナとすれば、一刻も早くあいつを始末したいのだろう。
「わかりました。降ろしたらすぐに戻ってきます」
「じゃあな」
nullさんは、そう言って、ニーナと廊下の向こう側へと歩いて行った。
なんだか釈然としない。上手く騙されたように感じた。
「よし、ヤマゲン急ぐぞ」
考えても仕方がない。ヤマゲンを急がして、エレベータ前へ向かう。
エレベータを待っている間、摩耶先輩に電話をして事情を説明。一階のエレベータ前で合流する手筈を整えた。
なんだか嫌な予感がして仕方がなかった。
◇◇◇
ピ……ピ……ピ
nullとニーナは、廊下の突き当りまで辿り着いた。nullは、受信機を上に向けた後、下に向けた。
「下だな。この下は理科実験室だな」
隣にいるニーナに、nullは下だと合図をする。
ニーナは静かに頷く。
ニーナがいったいどうやってあいつを倒すつもりなのか? nullは訝しんだ。そしてどう倒すのかを口にしないことにも不信感を抱いた。
そう思いつつも、nullには大体の見当がついていた。そのために、nullはニーナと二人きりになったのだった。
急がねばならなかった。何故なら、先程の怪物との戦いの後遺症でnullは意識が朦朧とし始めていた。それに、身体が麻痺から覚め、痛みが強くなってきていた。
受信機を空中に彷徨わせながら、ゆっくりと階段を降りていく。ニーナも後についてゆっくりと降りてくる。
怪物は手傷を負っているはずである。nullは自分が生き延びたのは、怪物が傷を負って逃げたからだと考えた。
改造空気銃のボルトを引き、新しい弾を装填する。一応、保険を掛けておくことにしたのだ。ニーナがあいつを倒せなかったときに対処するためだ。
慎重に階段を降りていく。怪物の動きは緩慢だった。受信機の反応音から、ゆっくり降りている我々が、怪物に徐々に追いついているのがわかる。かなりダメージを喰らったのか? それとも罠なのか?
「おい、ニーナ。やつは、すぐ下だ」
ニーナは、黙って頷く。
「ところで、ニーナ。おまえは、どうやってやつを倒すつもりなんだ?」
ニーナの動きが止まる。
「それは、言えない」
「やはりな。なんて決意に満ちた顔をしているんだ、おまえは。なあ、おまえ、死ぬつもりだろ?」
ニーナは、びくっと身を震わせて、nullを見た。
「まったく。世話の焼けるやつだな。おまえ、やつと相打ちにでもなるつもりか?」
ニーナは口を噤んだまま、俯いて答えない。
「やっぱりな。どんな事情かは知らんが、わたしの目の前で死ぬことは許さんぞ。そんなもの見せられるのは迷惑だ」
nullは鋭い目で睨む。
「あいつは――私が連れてきてしまった……。だから、私が始末しないとダメなんです。あんな恐ろしいこと、またたくさんの人が死んでしまう。そんなことを、ここでまた起こすわけにはいかないんです」
ニーナはnullとは目を合わせず、俯いたまま呟く。
「ふん。責任感? いや、罪悪感か? 生きるより死ぬほうが楽かもしれんな。まあ、わたしのいない所で勝手に死んでくれ。やれやれだ。まったくどうしようもないやつだなあ」
ニーナを手で制して、nullが独りで階段を降りていく。
「nullさん、お願い。私にやらせて」
「残念だが、断る。やつには、先程ぶっ飛ばされた借りがあるんでね。お陰でまだ頭が痛いんだよ。わたしはね、根に持つタイプなんだよ。やつは、わたしが始末する。まあ、おまえがやりたければ、勝手にやればいい。わたしはわたしで勝手にやるさ」
降りていくnullを追いかけて、ニーナはその腕を掴んだ。
「ダメなんです。nullさんは離れていてください」
「なるほど。わたしが近くにいると巻き込まれるというわけか。そういうタイプの何かなんだな。ふふふ。じゃあ、離れるわけにはいかないな」
nullは意地悪く笑って、ニーナを見つめる。
「言っただろう。やつには借りがあるって」
ニーナは自分の手のひらを見つめ、首を振って、手を降ろした。
「なんの真似だ? まあ、いい。そうだ、そのおまえのとっておきを、わたしに教えてくれないか? わたしなら、おまえよりもっと上手く使えるかもしれんぞ」
ニーナは、少し驚いたような表情を浮かべたが、意を決したのか、上着の両ポケットに手を入れて中の物を取り出してnullに近付いた。
「これです」
ニーナが差し出した両掌には、ゴルフボール大のピンク色に輝く透き通った石と、緑色に輝く透き通った石があった。
「ほほう? 見たことのない石だな」
「はい。私の世界で採れる数少ない石です」
ニーナは、石を元のポケットに仕舞った。
「この二つの石を、少しの間、強くくっつけると爆発します。やつの身体の中でくっつければ、やつが吹っ飛ぶぐらいには爆発します」
「なるほど。やつにわざと喰われて、爆死するつもりだったのか」
コクリと頷くニーナ。
「まあ、悪くない作戦だ。一番確実だろうな。だが、不採用だ」
「え?」
ニーナの驚いた顔をみて、nullは吹き出した。
「あはははは。よし、では、行くぞ。ニーナ、おまえはわたしの指示通りに動け。いいな」
ニーナは、反射的に頷いた。
「ふふふ。よし、いま頷いたな。ニーナ、二人でやつを倒すぞ」
ニーナはnullにしてやられたと思った。だが、同時にnullというこの人物なら、もしかしたらあいつを倒せるのかもしれない。
そう思えた。




