第九十話
翌朝。
境内には、柔らかな朝日が差し込んでいた。
源蔵は、いつものように竹ぼうきを手に石畳を掃いている。
さら、さら、と竹ぼうきが砂をなでる音だけが響く。
トワは、その姿をしばらく眺めていた。
「毎日、掃除をされているんですね。」
源蔵は照れたように笑う。
「祭りがなくなってもな。」
「神さんは、ここにおるから。」
その一言は、ごく自然だった。
特別な信仰ではない。
子どもの頃から続けてきた習慣。
それが、この人の日常になっている。
その時、さくらが社務所の奥から小さな紙筒を抱えて出てきた。
「これ、見つけた。」
広げてみる。
色褪せた一枚のポスターだった。
夜空いっぱいに咲く花火。
提灯の灯り。
浴衣姿の親子。
そして、大きく書かれた文字。
星見町 夏祭り
開催日は、十五年前の日付だった。
端は少し破れ、雨に濡れた跡もある。
それでも、描かれた笑顔は今にも動き出しそうだった。
源蔵はポスターを見たまま動けなかった。
「……懐かしい。」
「これを描いたのは、町の高校生だった。」
「絵が好きな子でな。」
「祭りのたびに新しいポスターを描いてくれた。」
トワが尋ねる。
「今は?」
源蔵は静かに首を振る。
「東京で働いとる。」
「もう二十年近く会っとらんな。」
アオイがポスターをそっと持ち上げる。
「不思議です。」
「色は褪せているのに……。」
ポスターから、かすかな温もりが伝わってきた。
まるで、描いた人の想いが紙に残っているようだった。
その時。
白紙の本が静かに開く。
記録確認
この町には、まだ帰りたいと願う者がいる。
トワは目を見開く。
「帰りたい人……?」
老人が小さくうなずいた。
「町は、人を忘れません。」
「人もまた。」
「心のどこかで、故郷を忘れていないものです。」
レンが腕を組む。
「つまり。」
「その人を探せってことか。」
「ええ。」
老人は穏やかに答える。
「祭りを救うのではありません。」
「帰りたいと思っている人の背中を、少し押すだけでいいのです。」
その日の午後。
源蔵が古いアルバムを持ってきた。
ページをめくるたび、懐かしい祭りの写真が現れる。
金魚すくい。
盆踊り。
神輿。
笑顔。
そして最後のページで、トワの手が止まった。
一枚の集合写真。
高校生たちが、完成したポスターを手に笑っている。
その中央にいた少女。
優しい笑顔で、絵の具の付いた指をピースにしている。
写真の裏には、小さな字で名前が書かれていた。
『美咲 十七歳 最後の祭りポスター』
トワは、その名前を何気なく口にする。
「美咲さん……。」
その瞬間。
さくらが、はっと息をのんだ。
「違う。」
全員が振り返る。
さくらは写真を見つめたまま、小さく首を振る。
「この人。」
「笑ってるけど。」
「泣いてる。」
部屋の空気が静まり返る。
源蔵は写真をそっと受け取り、目を細めた。
「祭りの翌日だった。」
「町を出る日だったんだ。」
「美術大学へ進むためにな。」
少しだけ笑う。
「『いつか、もっと立派なポスターを描いて帰ってくる』って言ってた。」
その約束は、果たされていない。
夕方。
境内に西日が差し込み、古いポスターを金色に染める。
白紙の本には、新しい一文が浮かび上がった。
祭りは、人を待っている。
そして故郷は、約束を忘れない。
トワは静かにポスターを見つめる。
この依頼は、祭りを復活させることではない。
十五年前に故郷を離れた、一人の画家の卵が交わした約束を、もう一度思い出してもらうこと。
それが、この町にもう一度灯をともす、小さな始まりになるのかもしれなかった。




