第13話 三章 帰宅後はエージェントへ、県警本部長と話す夜
午後九時五十分、雪弥は携帯電話のバイブ音で目が覚めた。
電気も灯っていない室内は薄暗く、ベランダの開けられた窓から三日月の明かりが差しこんでいるばかりだった。
雪弥は眠りの余韻に浸ったまま、帰宅して早々ナンバー1に連絡を取ったことをぼんやりと思い出した。そのあとの記憶が曖昧で、思い出そうとすると眠気に思考を中断された。
心地よい眠気を貪るように二、三度寝返りを打ちながら、自分からナンバー1に電話を掛けてある用件を言い渡した後、「ちょっと眠いんで切ります」と一方的に通話を終わらせたことを思い出す。
渋々といった様子で上体を起こすと、雪弥は制服のブレザーを脱いでベッドに放り投げた。早朝と帰宅直後にしか触れていなかった、持ち慣れた小型で厚みのある自身の携帯電話を手に取る。
学園に持って行く代理の携帯電話は、ブレザーのポケットに入ったままであった。そちらからナンバー1に掛け直す事も出来たが、操作も不慣れだったのでまだ一度も使用していない。
携帯電話の着信歴には、「不在」の表示がされたナンバー1の名が載っていた。雪弥はようやくといった様子で立ち上がり電気をつける。
一瞬にして明るくなった室内から外を覗くと、心地よいほどの深い闇が小さな明かりを埋まらせて広がっていた。夜風は生温く、かいた寝汗にしっとりと絡みつくようだった。
しばらく、雪弥は部屋の中央からベランダを眺め見た。持っていた携帯電話が静かに震えだしたのを合図に、それを耳に当ててベッドへと歩み寄る。
「はい、もしもし」
『私だ。お前、私の話も聞かずに電話を切りおって――』
「眠かったんです、仕方ないんです」
やかましそうに片眉を引き上げ、雪弥は棒読みで言葉を並べてベッドに腰を降ろした。低い声が『本当に用件だけすませて電話を切るとは』と忌々しげに愚痴りかけて、ふと口調を和らげる。
『そちらの様子はどうだ』
「至って順調ですよ。あれ? さっきも言わなかったっけ」
『だから、私が話す暇もなくお前が電話を切ったんだ』
まぁいいだろう、とナンバー1が重々しい息を吐き出した。
『お前のことだから、うまくやっていると思う。ところでお前、さっき高知県警察の本部長と話したいと言っていたな』
「ああ、そうそう。少し話を聞こうと思って」
答えて、雪弥は大きな欠伸を一つもらした。『眠そうだな』と疑問形式に尋ねる低い声を聞きながら、のんきに背伸びをする。
「う~ん、なんか寝足りない感じ」
『そっちに着いた三日間、しっかり休んだだろう。たっぷり眠ったら三日間戦場を駆けまわれる人間が、任務一日目でというのも珍しいな』
「こっちは、おっさんだってバレやしないかと冷や冷やもんでしてね。非常に疲れるわけですよ。これで僕の寿命が縮んだらどうしてくれるんですか」
『お前ほどの図太い神経の持ち主が、そんな柔なものか』
一言で意見を切り捨て、ナンバー1が興味もなさそうに鼻を鳴らした。
くそっ、と声もなく悪態をついた雪弥は、舌打ちをする仕草で顔を歪める。話しを円滑に進めるためには黙っている方が利口だと自分に言い聞かせるが、唇を引き結んでいないと反論しそうだったので沈黙した。
『高知県警本部長の名は金島一郎だ。すぐに電話させる』
「……了解」
雪弥は、ややあって答えると電話を切った。癖で胸ポケットに携帯電話を入れかけて苦笑する。学生服のシャツにそれがついていないことに気付いたとき、彼は携帯電話を手に持ったままふと顔を顰めた。
「あれ? 金島……?」
最近どっかで見聞きしたような…………
白鷗学園辺りだったと思うが、誰の名字だったかうまく思い出せなかった。「確か事前の資料と、クラス名簿でも見かけたような」と記憶を辿りかけた雪弥の手の中で、携帯電話がバイブ音を上げて震えた。
思い出し掛けた事柄がぷっつりと途切れたが、「まぁいいや」と雪弥は楽観視して携帯電話の通話をオンにして耳に当てた。相手の応答を待ちながら、意味もなく指先を遊ばせる。
唾を呑むような間を置いたあと、相手が息を吸い込んで言葉を切り出した。
『ナンバー4、ですか。……高知県警察本部長の金島一郎と申します』
野太く低い声を、どこか意識的に和らげよようとするような様子で、受話器越しに言葉が響いた。丁寧さを装った台詞だったが、ひどくゆったりとした口調としぼられた声量の奥には竦むような戸惑いを感じた。
特殊機関の名に委縮する者は多いのだ。雪弥は、慣れたように話し掛けた。
「はじめまして、ミスター金島。ナンバー4です。僕のことは好きなようにお呼びください」
『いえ、恐れ多くもそんな…………』
曖昧に語尾が濁り、金島の言葉が途切れた。雪弥は肩をすくめると、「やれやれ」と内心ぼやきながら続けた。
「僕が茉莉海市の白鷗学園に潜入していることは、ご存知ですよね?」
『はい、一の番号を持ったお方から伺っております』
「よろしい。我々は全面協力を求めています。僕が既に白鴎学園に入っている事は、もうご存じですよね?」
『白鴎学園にいる事も、先程、知らされました……』
震えた野太い声が答え、ゴクリと生唾を呑んだ後、それ以上には続かなかった。
金島はきちんと受け答えする場面も見られ、これまでに関わった人間の中で比較すると、ひどく怯えている方でもない。しかし、所々で極端に震え上がっているような気がした。
特に白鴎学園というキーワードを伝えた際の反応を疑問に思った雪弥は、ふと、自分の噂をどこかで聞いたのではないか、というついでのような推測も立ててしまった。勝手な噂に翻弄されて、仕事のやりとりが上手くいかないのを時々鬱陶しく感じる事があった。そういう時は、心の中に少しだけ冷たいものが満ちる。
自分は、そこまで怯え恐れられるようなエージェントではない。気付いたらナンバー4の地位にいた。仕事を忠実にこなして遂行しているだけで、命の重さを軽んじているわけでもなく、守るべき大切なものだと知って――
ぐらり、と脳が揺れた気がした。
どうしてか考えたくなくて、雪弥は今必要のない個人的な思案を振り払うように立ち上がり、意味もなくベランダの奥に広がる夜空へと目を向けた。
静寂したままの携帯電話を耳に当てながら、どこかで同じようにこちらの沈黙を聞いている金島を思い浮かべる。寝起きの汗が身体にまとわりついている心地悪さに、髪をかき上げて、ベランダから吹き込む夜風に身を冷ました。
「我々の許可なく、事件に介入することは認めません。常に指示に従ってください。今起こっている事件で明白になっていることは、白鷗学園に大量のヘロインがあること、そして学園内で覚せい剤が出回っていることです」
東京の事件で我々が動いている事はご存知ですか、と雪弥は落ち着いた口調で言った。金島が電話越しで低く呻き、考えるようにしばらく間を置いたあと、ようやく『東京の事件と聞いております』と答えた。
「東京で、少々腑に落ちない薬物事件が相次いでいるんです。その新たな卸し場所が、この白鷗学園であると我々は考えています」
『先程話を聞かされましたが、今でも信じられません。……何故、学園に』
雪弥は遅い返答を待つつもりで、ベッドに腰を下ろして説明した。
「盲点だった、と捜査に携わっている者は皆一同に述べています。話を聞かされた時は、まさか学校敷地内であるとは僕も思いませんでしたし――いろいろと疑問の残る事件ですが、やはり大量のヘロインが持ちこまれていると同時に、覚せい剤が出回っていることにも強い疑問があります」
また少しばかり沈黙が続くんだろうな、とばかり思っていた。
だから言葉を切ってすぐ、受話器越しからはっきりとした低い声が聞こえてきた時、雪弥は不意打ちを食らって目を丸くした。
『スマックの存在を隠すということを想定して見ても、確かに疑問を感じざるをえません。覚せい剤で欺こうと考えると、逆にそれはリスクばかりでしかない。学生に出回る大半はスピードやMDMAなどの覚せい剤ですが、安易な摂取が出来る錠剤タイプのものが多く、麻薬常用者に愛用されている注射や吸引を避ける傾向にあります』
「……そうですね、通常は売人によってそれらがさばかれる。しかし、覚せい剤はどうやら、学園内の学生にのみ出回っているみたいなんだけど」
答える雪弥は、仕事上の敬語口調ではなく、語尾が思わずいつもの口調に戻った。
これまで様々な警察関係者とコンタクトを取ってきたが、冒頭から数分たらずで、ここまではっきりと意見を述べて話してきた人間は初めてだった。どこか怯えを潜ませていたが、これが本来の金島一郎本部長なのだろうと雪弥は思った。
麻薬の一種であるヘロインは、通称スマックと呼ばれる最も規制が厳しい薬物だ。加工した後はきめ細かい白い粉末になり、そこに砂糖やカフェインなどの添加物が混ぜられて薄められる。赤み掛かった灰色、茶色、黒色をしたものがあるのはそのためだ。
「内部にいる共犯者が配っているらしいけど、やはりそこで発生するのはリスクばかりとしか思えないというのは、こちらも同意見です。覚せい剤は麻薬とは別ルートで来ることが大半で、そう考えると、二つの密輸業者が学園に関わっている可能性も捨てきれない」
既に複数の仕入れ先が存在しているとなると、それはそれで面倒なパターンだ。
『……しかし、そもそも大量のヘロインを持ちこむこと事態、非常に難しく思われます。各国の取り締まりも厳重ですし…………そうですね、可能性としては中国から入荷されていることは考えられます。現在ヘロインが爆発的に広がり、対策はしているものの一向に収まる気配がない、と……ヘロインは大人気だそうで、高価であるにも関わらず歯止めが利かない状況のようです』
大人気、という言葉に雪弥は可笑しくなった。笑みをこぼしながらも、それを口にはせず「その可能性は僕らも考えています」と続ける。
「事実中国からの密輸業者が、茉莉海市の漁港に入っていたとの情報もあります。懸念は、東京の事件では卸業者が口封じで殺され、すぐに白鷗学園という新たな卸し場所が出来た事です。一つ潰しただけでは解決にはならないでしょう」
一度認識を確認するように間を置くと、金島が『その通りですね』と、頷くような衣擦れの音と共にそう答えた。
『すぐに新たな卸し場所を手配した、表に出ていないような別グループが存在している可能性ですね』
「学園に勤める人間をそそのかした線も強いとすると、こっちが解決したとしてもまた新たな被害場所が作られる。だからこそ、東京都こちらの双方で上手く動いて、同時に押さえる必要がある――まぁその中国からの密輸業者が、覚せい剤も一緒に運んできているというのなら楽なんですけどね。それなら話の展開も早い」
途中空気を和らげるように本心交じりに言って、雪弥は苦笑を浮かべた。
すると、数秒の沈黙を置いて金島が声を上げた。
『……一つよろしいでしょうか。密輸業者側が、薬物の製造加工にも携わっていた場合であれば、両方同時に持ち込んできているという可能性は捨てきれないと思います。本業が運ぶ事であるのか、薬物のプロフェッショナルであるのかによっても、事情は違ってくるとは思いますが』
結論としては言えないように、その声は電話越しで口ごもるような音だった。なるほど、と思いながらも雪弥は「続けて」と柔らかく促した。
『自分たちで商品を製造し、別からも商品化された物を仕入れて、同時に売っていた業者が過去にはありました。とはいえ、そうなると相応の設備とスペースを確保した拠点を必要としますし、組織規模もかなり大きなものです。日本警察だけではなく、外の警察機構に協力体勢を求めての捜査になると思われます』
そう想定して現在の学園にあてはめるとすると、自分たちで加工と製造を行い売りこむと同時に、資金・運営のために原料を運ぶ仕事をやっているものとも出来る。
「その場合だと、本業が運ぶ側でないという事にもなるので、今以上に複雑で厄介になりますよね……だとしたら、その後ろには更にデカいバッグがついているだろうし――あ。そうだ。ヘロインに関しては純粋純白で、取引されたあと国内で加工されているらしいです」
詳細まではナンバー1から聞いていない可能性を考え、情報を共有しておいた方がいいだろうと思い、雪弥はそれを伝えた。
金島が『純粋純白』と呟いて息を呑み、慎重に切り出す。
『純粋なヘロインがあって加工もされて、覚せい剤もさばかれているのですか…………確か覚せい剤は、これまでにない症状を引き起こさせているとか?』
「どんなものかは、これから確認するのでまだ判断材料も少ないですね」
『そうですね、まずは物を調べた方がいいでしょう。相手側の意図を知る手掛かりにもなると思います。茉莉海市やその一帯で薬物検挙者は上がっておりませんが、外から業者が介入している場所は限られますので調べ易いかと……』
思案するように声がかすれて、金島の言葉が曖昧に途切れる。
雪弥は風呂に入ることを考えながら、そろそろ会話を切り上げようと思って言葉を発した。
「東京で起こっている麻薬事件はうちの上司が動いているので、たぶん請求したら資料送ってくれると思います。今回の学園の件と関連があるらしいですから。――それから、捜査に邪魔になるので、巡回している警察官の行動はしばらく制限してくださいね」
ではこれで、と会話を終了させかけた雪弥に、金島が『あの』と慌てたように言った。
「ん? 何? 他に何かあります?」
『違うんです、その、一人息子が白鷗学園に通っておりまして』
身内のことを考えて怯えていたのか。
そう安易に納得しかけた時、雪弥は金島の名字を持つ人間が誰であったか気付いた。思い返せば、クラスメイトの暁也の名字は金島であり、彼の父親が県警察本部長である事を学校で聞いていたのだった、という事を思い出して唖然とした。
「そうか、あなたが暁也の……」
世間ってどこで繋がるか分かないな、と思ってつい呟いた。『暁也を知っているんですか?』と尋ねられ、曖昧に「うん」と肯く。
「クラスメイトなんで」
雪弥が答えると同時に、電話越しでガタンッと物音がした。金島が大きく息を呑み、ハッとした様子で慌ただしく言葉を並べる。
『息子はとんだ問題児でして、ご迷惑を掛けているのなら何とぞ――』
「暁也は、友だち想いの良い子ですよ」
不思議に思ってそう口にした。迷いのない言葉に、金島が不意を突かれたように口をつぐむ。
雪弥の脳裏には、受験に悩んでいる学生のふりをしたら、仏頂面で諦めるなと励まされた一件が浮かんでいた。修一と話していた暁也の様子を思い返してみると、やはり普通の高校生であると改めて思う。
強気そうな眼差しからは喧嘩っ早さを覚えるものの、理由もなく突然暴れたり迷惑を掛けたりするというイメージは湧かなかった。以前の学校で問題を起こしたらしい、とトイレ休憩の際に小耳には挟んだものの、本当の事なのだろうかと信憑性を覚えないでいる。
金島がようやく唇を開いたのは、雪弥が夜空に流れた星へと興味を移した頃だった。
『…………そうですか、良い子、ですか……』
囁いた金島は、自身に言い聞かせ噛みしめるようだった。雪弥は、夜空にもう一つ流れ星が落ちないかと顔を向けたまま「良い子ですよ」と思ったままの言葉で相槌を打った。
しばらく間を置いて、金島が最後の言葉を述べた。
『……学園は、あの子たちはこれから――』
「僕がなんとかします」
雪弥は、そう断言して電話を切った。
彼が眺める夜空で、もう一度淡く光り輝く星は現れなかった。