第11話 二章 昼食会を屋上で~土地神様の話~ 下
土地神様――そう切り出した修一の瞳は、好奇心でいっぱいだった。堪え切れない笑みからは片方の八重歯が覗き、内緒話をするような声色は弾んでいる。
土地神様の祟りと話題が振られた瞬間、暁也はそれと対象の温度を見せた。
「お前、そんな噂信じてんのかよ」
くだらない、といわんばかりに暁也が答えた。彼はオニギリを食べ終わり、缶ジュースを持ち上げた手を止めて胡散臭そうな表情を浮かべている。
修一は、残りのオニギリをすばやく胃に詰め込むと、「だってチェンメ回ってたじゃん。見てないの」とせがんだ。そこに、雪弥はほぼ反射的に口を挟んでいた。
「それ、詳しく知りたいな」
「あれ、お前そういうの好きなのか?」
疑う様子もなく、修一が活気に満ちた瞳で雪弥を覗きこんだ。冒険心が強そうな瞳と距離を置きつつも、雪弥は話を合わせるように頷いた。
「うん、前の学校では、いろいろと都市伝説とか集めていたよ」
「へぇ! そうなんだ、俺もそういう話し大好きでさぁ」
気が合うなぁ、と続ける修一の横で、暁也はジュースを口にしながら、面白くもなさそうにパンの袋を引き寄せた。
暁也にとって、修一という少年は、遠足や旅行先で歩き回るようなタイプで、好奇心の強さに底が見えない友人だった。単純思考だが行動力は強く、良く言えば、いつも自分の気持ちに素直な少年だ。
非現実的な事柄にも興味を持っており、修一が「未確認飛行物体を探そうぜ」「畑に歩く薬草ってのがあるらしいから捕まえて飼おう」「森の精霊がいるんなら、きっと畑道にも何かいるかもしれない」そう提案するたびに、暁也は付き合わされていた。
外を歩き回るのはまだいい、一番厄介なのは、修一が存在もしない物事を信じていることだ。そこだけが唯一、話が合わないところである。
現実主義の暁也は、ありもしない作り話を延々と聞かされる事は好きではなかった。「クリスマスは早く眠らないとサンタさんが来ない」と聞かされるくらいうんざりしてしまう。
「うちの学校ってさ、夜の九時に一回鐘が鳴ったら、翌朝の六時まで鳴らねぇの。で、夜最後の鐘が鳴ったあと学校に入ると、土地神様に呪われるって話なんだ」
「祟りなんかあるわけねぇだろ。くだらねぇ」
「あるんだってば」
口を挟んだ暁也にそう言ってから、修一は雪弥に聞かせるべく話しを再開した。
「最近一番有名な怪談なんだけどさ、この白鷗学園は昔、家も畑も作れない聖地だったらしいんだ。強い神様がいたから、ここに学校を建てるとき、坊さんがその土地神様と約束を交わしてさ。『子供たちの学びのためにこの場所をお借りしますが、夜の九時にはお返しします』っていうもので……」
修一は怖い話を聞かせるように声を潜めたが、その声色は弾んでいた。
「その合図は、夜九時に鳴る最後のチャイムなんだ。俺たちの学校がその土地神様の領地に戻ったあと、敷地内にいたり、侵入しようとすると祟られるって噂だぜ? 肝試しで学校に入ろうとした二年生が、怪異に遭ったって大騒ぎになったらしくてさ、そのあとチェンメが回ったんだ」
「へぇ……」
怪談話ねぇ、と喉元に出かけた言葉を曖昧に濁し、雪弥は頭をかいた。
「それ、元々この学校にあった噂なの?」
雪弥が尋ねると、修一はジュースで喉を潤しながら首を振った。
「昔からある話だって聞いてるけど、俺はつい最近知ったな。他の奴らも初耳だって言ってた。でもさ、山神様の話は昔からあるし、そういうのもあるんだろうなって――」
旧帆堀町の頃からあるという、地域の祭りを修一は話し出したが、雪弥は引っかかりを感じて考え込んでいた。
学校の七不思議は有名であるが、幽霊を一向に信じない雪弥にとって「そんな噂を流して何が楽しいのか」というのが正直な感想だった。しかし、ふと、そこに別の目的があるとしたらという疑問を覚えて考え直した。
「噂が回ったのは、いつ頃なのか訊いてもいい?」
「新学期が始まった頃だっけ」
話しを中断した修一が、そばパンを食べている暁也に問い掛けた。彼は大袈裟に顔を歪めながら食べ物を噛み砕き、数十秒の間を置いて「五月に入った頃だったろ」とぶっきらぼうに答える。
麻薬の卸し業者が発見されたのは五月である。雪弥は「そうなんだ」と心もなく応答して、斜め上へと視線をそらした。修一が「確かにそれが起こったんだから、噂は本当だったんだよ」と楽しげな声を上げた。
「二年生が肝試しやったって話しただろ? 噂が出回ったとき、じゃあ確かめようってなったらしいぜ。正門越えた時、何か聞こえるって騒ぎ出した女の子がいて、そのとき学校にぼんやりと浮かび上がる白いものを皆で目撃したって聞いたな。それから一気に噂が広まったんだと思う」
思い出すような顔で、修一が言葉を続ける。
「声が聞こえるって騒いでた女の子が学校に来なくなって、土地神様って件名の送り先不明のチェンメが出回って、うちは大騒ぎさ。学校に来なくなったその子が、連絡途絶える前に『土地神様が』って同級生に相談してるし、大学生も先生たちも気味悪がって早く帰るようになったらしいぜ? う~む、こりゃあまさしく怪談!」
修一は満足そうに締めくくると、手を止めていたアンパンを食べ始めた。
東京で起こっている事件と、タイミングは合っている。まさかなと思いながらも、勘が嫌な方向に働いて雪弥は強い苺味を喉に流し込んだ。しばらく間を置いたあと、途切れた会話を繋げるように言葉を投げかける。
「……その女の子って、どんな子なのか知ってる?」
「おう、吹奏楽部にいた大人しい感じの可愛い子って聞いてるぜ?」
修一がそう答えた矢先、暁也が間髪入れず鼻を鳴らした。どうしたのさ、と振り返る修一に、彼は馬鹿を見るような目を向ける。
「途中で世遊びに走って退部したらしいぜ? 五月くらいから深夜徘徊の常連メンバーだった。バイクで走っている時によく町で見かけたけど、ケバイ格好とか半端なかったし、見掛けるたび男と一緒だった」
「うっそ! マジで?」
「おう、マジだ。やばい感じの男だったぜ。ありゃあ、もう退学になっても文句はいえねぇだろうな。本人も学校に来る気はないみてぇだし」
飛び上がる修一の横で、暁也は他人事だった。積み上げられた食糧を物色している。
対する雪弥は、神妙な表情で沈黙していた。彼の中では、暁也が語った「やばいの感じの男」と二年生の女子生徒についての関係が、なんとなくの単純なイメージ一つであっけなく繋がり始めていた。
白鷗学園にヘロインと覚せい剤を持ちこんだ外部関係者と、覚せい剤常用者の構想がぼんやりと浮かび上がる。
怪談話は、夜の学園に人を近づけないためにでっち上げたものだとすると、これから大きな取引きを行うというのも、あながちガセでもなさそうだ。二つを関連付けると、どこか予防線を張っているようにも感じる。
もしこの高校生も共犯者となっているのなら、やはりナンバー1が言っていたように、推測通り高校生も覚せい剤に手を出していないとは言い切れなくなる。厄介なヘロインが動いていないという保証もなかったが、覚せい剤については、内部で配っている者がいて、確実に出回っていることを雪弥は思った。
覚せい剤は、興奮と覚醒の薬物である。摂取によって脳が強制的に覚醒するため、効果が出ている間は全く眠気を感じず、記憶力も高いままが持続する。
日本で多く乱用されているのはメタンフェタミンだが、それは主に吸引型だ。合成されたものには手軽に口内摂取できる種類もあり、気軽に始められるとして、今でも社会人だけでなく学生の間でも多く出回っている。
ヘロインは強烈な快楽を及ぼし、直接脳内で強く作用させるため、静脈注射や筋肉注射が主だった。値段も麻薬の中で一番高価であり、規制が厳しいので簡単には手に入らない。
注射器を使う事への謙遜もあって、ヘロインが学生内で出回る事はほとんどなかった。協力者が覚せい剤に手を出していない可能性も捨てられないので、その女子学生の現状については、薬物によって欲が剥き出しになっているとも推測できる。
「大人しい子だったって聞いたけどなぁ」
ややあって、修一が一人呟いた。
暁也が空になったパンの袋をくしゃくしゃにしながら「どうせ聞いただけの話だろ。俺は今年に入ってからのあいつしか知らねぇ」と、刺のある言葉を返す。
「お前が言う祟りとか呪いとかだってんなら、そのせいですっかり人が変わっちまったっていう事になるんだろうな」
「むぅ、なんか厳しい発言だ……もしかして、怒ってんの? 確かに暁也、そういう話とか好きじゃないだろうけどさ」
でも幽霊も怪談も、きっと本当にあるんだぜと修一が唇を尖らせた。そこに非難の感情はなく、好きでもない話を聞かせて気分を悪くしてしまったのなら申し訳ない、という本音が滲んでいた。
そんなちょっとした気分の沈みを察知して、暁也がフォローするようにこう言った。
「別にそんなんじゃねぇよ。ただ、本当はそういう奴だったのかも知れないって話さ。人間、どんなに取り繕っても、根本的な芯みたいなやつは簡単に変われるようなものじゃないだろ。いい奴はどんなに悪党ぶっても悪い奴にはなりきれねぇし、悪党はどんなに善人ぶっても、結局は悪党のまんまなんだ」
暁也は言葉を切ると、食べ物が空になった袋をくしゃくしゃにした。彼を見つめている修一は、よく分からないといった表情で首を傾げる。
――どんなに善でいようとしても、結局のところは〔悪〕なのだ。
思考を続けていた雪弥は、暁也の台詞に引きずられるように、そんな見えない言葉の羅列がすっと自身の身体を突き通すのを感じた。
ついと顔を上げて彼を見つめたものの、一瞬さざ波を立てたはずの心にはすでに静寂が戻り、彼の中では無意識に情報整理と推測が再開されていた。自分が何かを感じて、何かを想ったはずだが、どうしてか覚えていない。
暁也の言葉を聞いた時、雪弥は何かを思い出していたはずだった。しかし、再び静まり返った頭の中では「高校生の中にも覚せい剤を配っている者がいる」と推測された事項ばかりが上がっていた。
多分、気のせいなんだろう。
個人的な心情を置き去りにし、雪弥は仕事へ意識を戻す。
滅多に開閉されなくなった旧地下倉庫に、大量のヘロインがあるらしいという事に関しては、恐らく事件の内部関係者の手引があっての事だろうと容易に推測される。そして、それなりに大学側で地位を持っている者でないと難しい。
入手した情報が次から次へと推測を重ね、頭が重くなると同時に耳鳴りがした。
雪弥は視覚で映し出される風景の向こうに、脳裏を流れていく映像や思考をぼんやりと眺めた。高校生に混ざってのんきに過ぎしている間に、蒼緋蔵家はどうなっているだろうか、と、ふと思ってしまう。
休みがあれば、大ごとになる前に、蒼緋蔵家の問題もあっさり片づけられるはずであった。話し合いをする時間があれば、少なくとも心に余裕は生まれる。
仕事の合間だとゆっくり考えられる時間もなく、父から連絡があったとしても、どちらかと言えばほとんどのらりくらりと言葉を交わしていただけだった。思えば、これまでおろそかにしていた事が、今になって一気に来ているような気もする。
曖昧になっていた蒼緋蔵家との関係を、はじめから妥協の余地もなく断ちきってしまっていたら、どうだったのか。
唯一の家族の繋がりのようにも思えて、母が愛していた『蒼緋蔵』の名字はそのままにしていた。権利関係から一切離れる法律上の手続きは行ったが、父達の意見もあって、その際にわざわざ名字だけは残す方法を取った。
特殊機関の雪弥は、部下やそのとき使う人間には妥協したりしない。「家族でしょう?」と声を震わせる亜希子や父に構わず、蒼緋蔵の名を突き返して「家族とは紙一枚の関係ではないでしょう」と断言し、どこの誰でもないただの『雪弥』となっていれば、こんな面倒な事に巻き込まれなかったのだろうか?
雪弥は不意に、過去の記憶を思い起こした。小学生の頃母が倒れて入院し、一軒家でたった一人になってしまった日の事だ。
あの日は、ひどい雨が降っていた事を、今でもはっきりと覚えている。雪弥は訪ねて来た父に「縁を切ってください」と、専門の手続き書類を突き付けた事があった。彼はその時、「私の息子でいてくれ」と膝を折って抱きしめてきた父を、拒むことが出来なかったのだ。
「おい、雪弥? お前、なんか怖い顔してるけど――」
その一声に、雪弥の思考は現実へと引き戻された。
視界に近づく何かを見て彼が反射的に掴むと、「いてっ」と幼い声が上がった。そこでようやく、修一が自分に手を伸ばしていた事に気付いた雪弥は、慌てて力を緩めてその手を放した。
「ご、ごめん。考え事してて……その、驚いたというか」
「驚かしてごめんな。というか、お前って意外に力あるなぁ」
「あ、うん……」
そうだね、と雪弥は小さく続けた。ひやりと感じた悪寒を隠そうと、笑みを浮かべるものの、今にも引き攣りそうになる感じがあるのを拒めなかった。
それまでの思考が一気に吹き飛んだ脳裏に横切っていたのは、昔国家特殊機動部隊総本部で行われた戦闘実験である。視界を塞がれた状態、両手を拘束された状態など様々なパターンで何十何百と検査が繰り返されたものだ。
その結果、雪弥の身体はハンデや五感のどれを塞がれようとも、常に外敵に対して敏感に反応し対処すると分かった。己の反射行動より、もし冷静な思考回路の反応が遅れていたとしたら、雪弥は一瞬にして修一の腕を壊したあと、完全にねじ伏せていただろう。
内心血の気を引かせる雪弥に気付くこともなく、修一は思い出したように表情を輝かせ「そういえば昨日ストリートバスケの」と話しを切り出した。彼は話しを進めながら、三人の中央に置かれて残っていた最後のオニギリを手に取る。
よく食べる子だなぁ、と雪弥は思い掛けて苦笑した。
実をいうと雪弥は、昔から満腹を感じたことがなく、出された分だけすべて平らげてしまうという底なしの胃袋を持っていたのだ。
そんな自分が言えるような台詞でもないだろうと考え直し、取り繕うようにぎこちない作り笑いを浮かべて、話題があっちへこっちへと飛んで行く修一の話しに付き合う事にした。
暁也は、そんな雪弥の様子をじっと観察していたのだが、抱いた違和感が強い殺気だと気付けなかった。しばらくすると唐突に話を振って来る修一のペースに巻き込まれ、目と表情で語っていたそれを「馬鹿かお前は」と、二度も口にする事になったのだった。




