9-1
決戦から半月後、エイクが兵を率いて館に帰還するという知らせが館に届いた。
戦場はただ締められた。
この戦に勝者はない。
夜半の星を頼りに、その場でひとまずの停戦条約が結ばれ、一時的に互いに不可侵を約束しあった。調印したのはもちろんエイクだ。皇国側からは、そのエイクに手傷を負わせた将軍が出たという。
停戦の知らせは、もちろん中津森の館にも届いていた。
奥方はそれ以来、納得いかない不機嫌な顔をして、執務室の陽だまりに佇むことが多くなった。
そばにイーシュはいない。
侍女も下がらせて、部屋に独り籠もり、面倒そうに自ら淹れた紅茶に奥方は口をつける。
戦に関する執務が無い以上、それが奥方のただひとつの日課となっていた。
ようやく館に到着した傷だらけのエイクたちを、森の民は総出で出迎えた。
英雄たちに花を撒き、歌を、酒を捧げる。
だが今日は様子がおかしい。いるべき者がおらず、出迎えるべき人が来ない。
生還を果たしたものの、どこか引きつった笑顔を浮かべる兵士たち。皆、口数が少なかった。出迎えた側も同じだった。
動かせない怪我人を近くの集落に頼んできたとはいえ、人数は出陣したときの三割以下になっていた。
失われた命は多すぎる。
森は喜びの中にも、取り戻せない悲しみに沈んでいた。
兵士たちを広場に残し、詳細を報告するため、エイクが奥方の執務室に入る。
「奥方様、失礼いたします」
部屋の主は長椅子に気だるく身を預けていた。出陣の前にエイクが見た覇気が無い。
「……エイク、ご苦労だったわね。無事に帰ってきてくれて嬉しいわ」
声にも張りが無い。
ふとエイクが気づく。戦場から送った報告書が、机の上で乱雑に放られて皺になっていることに。
今までの経緯、そして頼まれていたのにどうすることもできなかったティジットのことを謝罪しなければならないのだろうが、それを見て余計にか、エイクの口は硬く、いくらしてもぴくりとも動こうとはしなかった。
奥方がまぶたを開くのも重そうにして、ようやくエイクに目をやる。
「……疲れたでしょう? 報告は後でいいわ。あなたの報告書で、あらかた分かりましたから。下がって構いませんよ。……ああ、まだ元気があるなら、今日くらい羽目を外して、存分に宴を楽しんでいらっしゃい」
厳格な奥方がそう言うのは珍しい。いつも宴の後は奥方にそれとなく説教されるのがエイクの常だというのに。
ティジットのことに触れようとしないので、奇妙なほど歪んだ顔で、ようやくなんとかエイクが切り出そうとする。
「奥方様……」
しかし奥方は首を静かに横に振る。
「今は言わないで頂戴。……そのうち、ちゃんと聞きますからね……」
「奥方様! そんな言い方……あいつはまだ死んだって決まったわけじゃ……」
エイクが必死で身を乗り出したのを、奥方は頷きひとつで抑える。
「あなたが何か思うのなら、自由に行動して構わないわ。人も派遣して頂戴。権限も与えるわ。でも……ごめんなさい。今はなんて言ったらいいのか、わからないのよ……。本当に……馬鹿な真似をしたものね……」
エイクが心底落胆した顔を見せた。それは絶望の顔でもあった。
いつもの奥方なら、「きっと生きているから探し出せ」と言ってくれる。そう、エイクは信じて期待していたのに違いない。それに勘のいい奥方がそんなことを言うと、本当に希望が無くなるようだった。
奥方が察したのか、自分でもできるなら生きていると言いたいのか、申し訳なさそうに微かに苦笑した。そうして、思い出したことがあったらしく、口元に指を沿わせた。
「そうだわ……イーシュを戦場に連れて行ったのはあなたらしいわね」
「はい。イーシュは……」
「心配ご無用よ。ちゃんと館に帰って来ましたよ。謹慎を命じられてはいますけどね」
それでもエイクがほっと肩の力を抜く。帰ったら何らかの処分があることは、道々イーシュから聞いていたのだろう。
奥方はそれを横目で確認したが、少し残念そうな顔をした。
「けど、今言いたいのはイーシュのことじゃないの。あなたのことよ。あなたがしたことは神官の戒律破りを助長させたという行為であり、中津森軍の規律を乱す行為であり……ましてや将軍という身分……重い罰を受けなければなりません。謹慎処分や、来年の精霊祭も参加を禁じられるどころの騒ぎじゃありません。それに、軍規ばかりでなく、神官の戒律はあなたにも及ぶのです。あなたは異民族の出ですが、森の民の一員となった以上は無関係では済まされません」
恐ろしいことを奥方は淡々と、気だるく語る。が、エイクは表情を変えず、まるで他人事のように従順に聞いている。ついに奥方は失笑した。
「意に介さず、という顔ね。ふふ、誰かからすでに聞いたのかしら? それとも軍規はともかく、神官の戒律なんて気にも留めない? まあ、ともかく、その件に関しては不問となりましたよ。戦場の英雄が処罰されるなんてありえないことですからね」
奥方は力なく、表情を変えないエイクを流し見る。
「それに……誰も言わないけれど、皆イーシュを可愛そうに思っているのよ……。あの子自身の処分は下さないわけにはいかないけれど、それ以上はね。気が付かなかったふりをしてくれるそうよ。……厳しい神官の機関にしてはありえないほどの特例です。神官長の英断ですよ。よかったわね」
一言では言い現せない複雑な微笑みを、奥方は浮かべた。
「……ありがとうございます」
難しい顔をしてエイクはそれ以上言わず頭を下げ、部屋を出ようとした。奥方を察した故だろう。これ以上喋らせるのは酷だ。
ところが、奥方の方がもうひとつ、思い出して引き止める。
「……ああ、そうだわ、エイク。よかったら、そのイーシュに会ってやって頂戴」
「イーシュに?」
エイクは訝しがる。
「ええ……。……あの知らせのことを、あなたの口から……。きっと、聞きたがっています。多分、離れの、今は使われていない庭園にいますから」
「庭園……ですか?」
「エイクもきっと知らないでしょうね。もう十年は放置されているもの。いくら注意しても、謹慎中だというのに抜け出してしまうのよ。まあ、でも、神官の戒律をあれだけ破ったのですから、今更もうひとつ破ったところで……ね。神官長も黙認しています。どうしてあんな所がいいのか……。だいたい察しはつきますけどね……」
エイクは戸惑う顔を見せた。あの知らせ、とは、ティジットのこと以外になかろう。しかし、奥方でさえ話を聞きたがらないのに、ましてイーシュに、とは。
様子を察して奥方が言葉を添える。
「……大丈夫よ。あの子は強い娘ですから……」
ふっとこぼれた柔らかい笑みには、自らへの嘲りが含まれているようだった。




