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春を謳う  作者: 葵
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母の便り

季節は秋。

空気は澄み、朝露は草の上でひときわ冷たく光り、庭の木々は赤や黄金に色づきはじめていた。

その日、セレスティア邸にはひときわ柔らかなざわめきがあった。

月に一度、セレナからの手紙と花が届く日だからだ。


けれどクラウスの胸には、僅かな影があった。

本来なら――とりわけ女児にとって、母は常に傍らにあるべきだ。

最低でも5歳までは母の手と声で守られ育つのが当然とされている。

世間の常識から見れば、セレナが娘の傍にいないことは異例であり、欠けた姿と映るだろう。


泣けば抱き上げ、笑えば頬を寄せ、眠りにつくまで歌を添える。

それをセレナは誰よりも美しくできる人だと知っている。


だが、彼女はいない。

歌姫としての務めを果たすために旅に出ている。

その姿を、クラウスは決して責めはしなかった。

むしろ、彼は誇りに思っていた。

セレナは檻に閉じ込められる存在ではない。翼を持ち、歌と共に世界へ羽ばたくべき人だ。

だからこそ、彼は送り出したのだ。

たとえ世間から「母は娘の傍らにあるべき」と囁かれようとも

――クラウスは、愛する者の翼を折ることだけは決して望まなかった。


ーーーけれど。

その背を見送るたび、クラウスの心に浮かぶ問いがある。

母を知らぬ時間を過ごすハルナは、寂しさを抱いてはいないか。

父や従者がいかに尽くしても、母の温もりに代わることはできないのではないか。


セレナが羽ばたくことを望みながら、その代償を愛しい我が子に背負わせていないか。

その思いが、クラウスの胸をふと締めつけるのだった。


それでも、彼は信じたかった。

花に込められた色も、手紙の言葉も、セレナの歌もすべてが娘の心を満たし、母の存在を伝えてくれるはずだと。

今日もまた、それを確かめる日が訪れた。


今月の花は、淡い色合いのコスモス。

秋風に揺れながら咲くその姿は、ひとひらごとに羽のような繊細さを宿し、束ねられてもなお野の風景をそのまま連れてきたようだった。

白に近い薄紅、淡紫、光にかざせば透きとおる花弁清らかで儚いその色彩は、まるで遠い地からセレナが娘に届ける“抱擁”のように見えた。


ハルナは柔らかなクッションに背を預け、差し出された花束を小さな両腕で抱きしめた。

ひとつ、ふたつ、指先に触れるたびに、くすぐったそうに瞬きをして、それでも離すまいとぎゅっと胸に抱き寄せる。

その仕草に、館の空気はひときわ和やかに満たされていった。


クラウスは封を切り、娘の耳に届くように、柔らかく読み上げた。


「ハルナ、元気にしている? 私は今、ある村のお祭りに呼ばれて歌を披露しています。そこで新しい歌を教えてもらうの。今度帰ったら、あなたにも必ず聴かせたいと思っているわ。このコスモスは旅先で見つけたものよ。光にかざすと透きとおって見えるでしょう? 離れていても、私の心はいつもあなたと一緒。――愛しているわ、ハルナ」


文のひとつひとつから、母の溢れるような愛情が滲み出ていた。

まだ幼いハルナが言葉の全てを理解できるはずはない。

けれど、母の愛は意味を超えて胸の奥へまっすぐ届いていた。

小さな手が花弁をぎゅっと握り、頬にすり寄せるその仕草が、何よりの証だった。


クラウスには分かった。

セレナの想いは確かに娘へと届き、その小さな胸を温かく満たしているのだ、と。


彼はハルナを抱き上げ、コスモスとともに窓辺へ歩み寄る。

秋の陽光が差し込むと、花弁はふんわりと透きとおり、ステンドグラスのように淡い輝きを放った。

その光景はまるで、母セレナの歌声が色となって舞い降りたようで、ハルナは瞬きも忘れて釘付けになった。


――その時。


「……マ……」

小さな声が空気を震わせた。

クラウスは息を呑み、幼子の顔を覗き込む。


もう一度、小さな唇が動く。


「ママ」


今度ははっきりと。

それは――母に向けて放たれた、かけがえのない“最初の呼び声”だった。


クラウスの胸は大きく震えた。

遠い地で歌う妻へ、確かに繋がる呼び声。

娘の心が選び取った“母への名”は、どんな距離をも越えて届く。


――セレナ、聞こえているか。

お前の娘は、母を呼んだ。

お前の愛は、確かにこの子の胸に根ざしている。


クラウスは花越しの光を見上げ、ハルナを抱きしめた。

その透明な輝きの奥に、愛する妻の面影を重ねながら。

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