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春を謳う  作者: 葵
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君に贈るもの

カスパル邸の朝は静かだが、どこか糸をぴんと張ったような緊張がある。

エドワードは夜明けと同時に起き、鏡の前で髪や衣を整え、庭に出て剣の素振りを百。

学び舎でも誰よりも早く教室へ入り、所作も言葉も模範であり続ける。

その立ち居振る舞いは絵の中の王子のようで、すれ違う者は思わず姿勢を正した。


朗らかな笑顔は陽光のように周囲を和ませ、下の者には気さくに声をかけ、年長者には礼を欠かさない。

学び舎の女子たちはその姿に憧れを隠さず、廊下で囁き合う声が絶えなかった。

「エドワード様は本当に理想の若君ね」

「隣に立つだけで誇らしいわ」

――そんな声が自然と集まり、彼の歩む先にさざめきが生まれる。


誰もが彼を「王子様」と呼びたがる。

完璧で、優しく、誰に対しても公平。

けれど、その原動力がただ一人の少女

――妹ハルナへとまっすぐ向けられていることを、家族すら知らなかった。


少し離れて、その背をフィリオが見つめている。

兄の努力は、幼い彼の胸にもまぶしく刻まれた。

剣を振るう背筋の伸びやかさ、勉学に向かう眼差しの真剣さ、食卓でさえ乱れぬ所作。

どれもが眩しく、憧れずにはいられなかった。


けれど、いつからか周囲の目は変わっていった。

「お兄様は立派ですね」

「きっとあなたも同じようになれる」

そう囁かれるたびに、フィリオは“エドワードの弟”としてしか見られていないことを痛感した。

善意に満ちた言葉であるのはわかっていた。

けれど、胸には重石のように積もり、息をするたびに静かに圧し掛かってきた。


兄のようになりたい。

それが純粋な願いだった。

だが「兄のように」など、どうしてもできなかった。

努力しても、頭では理解できても、身体は追いつかない。

剣を振れば肩は重く、算術の答えは一歩遅れる。

それでも音楽の授業で兄より高い評を得る日もあった。

けれど、不思議なことに胸は晴れなかった。


自分が褒められても、それは「兄に及ばない分野で偶然勝てただけ」と思えてしまう。

誇らしさよりも、むしろ影の濃さを突きつけられたようで、その感情が、幼い彼の中に“劣等感”という名の棘を残していった。


どれほど背を追ってもその姿は遠く、同じ道を歩もうとしても、必ず足並みが乱れてしまう。


だからこそ、願ってしまうのだ。

「兄の影としてではなく、僕自身を見て欲しい」と。


けれど、自分が“兄ではない何者か”だとして、それが一体どんな姿なのか――フィリオ自身にもまだ分からない。

だからこそ、その迷いが胸を掻きむしり、時に息苦しさとなって押し寄せてくるのだった。


そんなフィリオが“自分”に戻れる場所

――それはピアノの前だ。

授業での評価や点数ではなく、誰に比べられることもない音。

指と心だけが正直に響くその瞬間だけは、彼は“エドワードの弟”ではなく、確かに“フィリオ”として生きていた。


白鍵へ指をすべらせ、黒鍵で息を整えると、不思議と胸のつかえがほどけていく。

窓から差す朝の光が鍵盤に砕け、虹の欠片が指先に揺れた。


だから今日も、音に願いを託す。

いつか再び会うその日のために

“エドワードの弟”ではなく、フィリオとして。


兄の手に握られていた青い花を、彼女が小さな腕でぎゅっと抱きしめた場面。

その横で、フィリオの胸は不思議とちくりと痛んだ。

――けれど次の瞬間。


自分が迷いながらも選んだ、小さな画材箱を差し出したとき。

ハルナの瞳がぱっと輝いた。

小さな指で箱の模様をなぞり、抱きしめるように胸にぎゅっと当てる。

その笑顔は、まるで言葉の代わりに「嬉しい」と告げているようだった。


それは兄が渡した花への笑顔とは違っていた。

自分のために、自分が選んだからこそ向けられた笑顔。

世界でただひとり、自分だけに向けられた光だった。


だから今日も、フィリオは静かに音を紡ぐ。

低音には、胸の奥に沈む影をほんの少しだけ忍ばせる。

けれど右手の旋律は、それを優しく包み込むように流れていく。

叩く指先から生まれる一音一音は、誰にも分からない小さな誇りであり、まだ幼いハルナへの秘密の贈り物だった。


だから今日も、音に願いを託す。

次に会うその日には――“弟”ではなく、“フィリオ”として。

ただ僕の音で、君に。

……“喜び”を贈りたい。


ーーーーー


朝の光が白いテーブルクロスをやわらかく染め、湯気の立つ紅茶と焼き菓子が香っていた。

珍しく全員が揃い、場の空気が自然と引き締まる。


カスパルは腕を組み、真剣な顔つきで口を開いた。


「さて――ハルナの誕生日が近い。うちの名誉にかけて、“ハルナにふさわしい”贈り物を考えよう」


その言葉に、空気が一段と張り詰める。


「賛成です、父様」

エドワードは即座に答え、机に広げた花の画集や工芸の本をぱらぱらとめくる。

そして挟んでいた紙を取り出すと、そこには小さな押し花が丁寧に貼られていた。

「僕は……これを形にしたい。ハルナに、手作りの押し花のしおりを渡そうと思うんだ」


「しおり?」ロミオが紅茶を口にしながら首を傾げる。


「うん。これからハルナは本を読むことが増えていくはずだ。勉強もあるし、物語の世界にも触れてほしい。

その時に、このしおりを使えば――花と一緒に、僕の想いも本の中に残せると思うんだ。去年は青い花を贈ったけど、ただ渡すだけじゃなくて、もっと“日々のそばにあるもの”を残したい」


朗らかに笑う兄の横顔に、フィリオは目を細めた。

「兄さんらしいな。ハルナはきっと、しおりを見るたびにエドワード兄さんを思い出す。僕には思いつかないよ」


「あぁ、立派だよ」ロミオも笑って肩をすくめる。

「花は消えても、形を留めて想いを残せる。しおりとは洒落ているね」


フィリオも続けて口を開いた。

「僕は……ハルナと“いっしょに”楽しめるものがいい。絵本も考えたけど、曲を作って贈りたい。

今は楽譜にして送るだけでもいいし、いずれ僕の音で“おめでとう”を伝えたいんだ」


「うん、音はいいねぇ」ロミオは目を細めた。

「じゃあ僕は――世界でひとつの小さな楽器を作ろう。ハルナの掌にちょうど収まる“音の箱”。手づくりにしよう。君たちも手を貸して」


いつも通りの飄々とした調子だが、その目は優しさを帯びていた。


カスパルは皆のやり取りを聞きながら、ゆっくりと紅茶を置いた。

そして花模様の施された小さな木箱を取り出し、机の上にそっと置く。


「これは私からだ。まだ中は空のままにしてある」


息子たちの視線が集まる。


「ハルナが大きくなって、自分で『大切』だと思うものを見つけた時――この箱に入れてほしい。形よりも心が本当の宝になる。だから、その器だけを贈るのだ」


その声はこれからの未来を想っていた。

やがて紅茶の香りに包まれた室内に、静かな余韻が落ちる。


――ハルナのもとへ届けられる日は、もうすぐだった。


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