もう一人じゃない
「これはこれはエステシア様」
そう不意に声をかけられ、首を後ろに向ける。そこには父の友人、メリディス公爵がいた。父よりも年上にもかかわらず、若々しい印象がある金髪が魅力的な男性である。
動く椅子がゆっくりと、公爵様の方に向けられた。
「メリディス公爵、お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
「大きくなったようでなにより。あんなにも小柄だったというのに」
メリディス公爵は快活な人物だ。誰に対しても公平に接し、まさに公爵の役割と責任を自覚している振る舞いをする。幼い頃から私も世話になることがあり、うだつが上がらない。
動く椅子に座ったままで、マナー的によろしくない状態であっても、公爵は何も触れなかった。ただ私を見る目は、興味深そうに細められた。七歳のあの事件以来、公爵と会うことすら避けていたため、久しぶりの再会で驚かせたかもしれない。
幼い私の背丈について語る公爵の話を、少し懐かしく感じながらきいていた。少し気恥ずかしいが、騒ぐほどのことでもない。
「それよりも、髪切ったんだな。似合ってるよ」
「ええ、私にも思うところがありまして」
突如、公爵は髪のことに話題を変えた。動揺することなく、話の流れに身を任せる。
「話はきいたよ。驚いただろう、きちんと処罰は下されたとか」
「今でも恐ろしいと思います。しかしかこの事ですから」
一見暫く姿を見なかった友人の娘を、心配している男である。昔から人情深く、私を自分の子供のように可愛がってくれていた。
ドールカシャ家の娘という立場でありながら、私は社交界に顔を出していない。その上デビュータントすら開いていない。ドレスを着ることもなく、男のような仕草を見せる。それらは、公爵の前でわざと振る舞ったものである。
そして、公爵の言葉に"私"として答えてみせた。私の意思で男装をしているから口出しをするな、という意図を含ませて掲げる。
公爵は私の生意気な態度にも怒りを露にすることなく、豪快に笑ってみせる。
「パテラに強制されたのかと思ったが、違ったようだ」
「お父様に限って、そのような意味のないことをされるわけがありませんよ」
私は隣で棒立ちになっている父にウインクしてみせた。父は冷や汗を垂らしながら、私に強く頷いてみせていた。父のポーカーフェイスも公爵には通じなかったようだ。
事件当時父は公爵にしっかり叱られていた。一時期は毎日のように、使用人たちの監督もできない当主など要らぬと、客間から寝込む私の部屋まで怒鳴り声がよく聞こえていた。公爵は父と親しき仲であるからこそ、飾らぬ言葉で厳しく言うことができたのだろう。公爵の帰った後、父は目も当てられないほどの憔悴具合だった。
「ではこれから用事があるため、失礼いたします。公爵様。ごきげんよう」
「ああ、呼び止めてすまなかったね」
軽く一礼をして、動く椅子の車輪に手を掛けて押し出そうとする。
だがその直前に、椅子は動き始めた。
「私の存在をお忘れですか」
「…いいえ、頼めるかしら」
耳元にそっと囁かれる自律型人形の彼の声。声を発する機構はないというのに、彼は平然と話してみせる。
彼はいかにも"執事"らしく、公爵様に対して振る舞っていた。自身の主を立て、自分は影に潜む。
小さくなる公爵様とお父様の姿を見遣り、十分と距離を取った。周囲に誰もいないことを確認すると、彼をからかうように言う。
「なんだ執事らしいこと、できるじゃないか」
「気が向けば、と言ったはずだ」
私はくすりと笑い、動く椅子の手摺を撫でた。少し塗装が剥がれている。もうそろそろ手入れが必要らしい。
「これからもその調子で頼むよ、執事クン」
そう語ると、彼は鼻で笑う。




