リチロの手紙
タグロの予想通り、プワラの花が大雨を呼び長い雨季が終わった。天の底が抜けたような土砂降りの翌日、空は深く澄んだ青に輝き、太陽は喜びに溢れこれでもかとばかりに照り付けている。見慣れた風景が全て磨き上げられて、つやつやと輝いている。
乾季の始まりだ。
それでも、日に一度、夕方にはスコールが降る。雨季のように一日中降ることがないというだけで、本当にからからに乾ききってしまうというわけではない。
だから、太陽がなかなか顔を出さない雨季以上に、実は虹を見やすくなるのだ。
そのことをリチロに話そうと思い、タグロはまた森へ向かう。今日の手土産は新鮮なタタ魚とトラデ貝。どれもタグロ自身が今日の午前中にリーフで獲ったものだ。中でもトラデ貝は、以前リチロと二人で沢山獲って山分けにしたことがある。彼はその味が気に入ったようだったから、きっと今日も喜ぶはずだ。
そのときはタグロが父親から譲り受けたカヤックを使ったのだが、リチロは昔カヤックをやっていたとかで、漕ぐのはタグロよりも遥かに上手だった。確実に潮目を読んで緩急をつけ、すっと滑らかに海面を行く姿に驚いたものだ。おかげで、コランヌ浜から小さな岬を廻って釣りのポイントのママル浜へ行くのに、大して時間がかからなかった。その代わりリチロは潜水が全くできず、釣果のほとんどはタグロの手によるものだった。
乾季になれば海にも出やすくなる。また、リチロと釣りに出よう。カヤックはママルの浜に残してあるから、今度はそっちから出ればいい。楽しい計画にタグロのほほが緩む。
いつものように軽快に森を抜け、広場の手前、パパイアの木陰から慎重にあたりを見回す。誰もいないのを確認して、タグロはまっすぐに小屋へと向かう。網にどっさりの獲物を見て、リチロは何と言うだろう。タグロは笑みを浮かべ、小屋の戸を叩こうとする。
タグロの顔からふっと笑みが消える。振り上げた手を止める。
いつもと違う。
タグロは獲物を地面に置き、そっと扉を開ける。日の光にほこりが舞うのが見える。思ったとおり、小屋の主の姿が見当たらない。留守にしているのか。タグロは一歩中に進む。そして、これがただの留守でないことを知る。
あの青いリュックがない。
タグロは狭い小屋の中をぐるぐると回る。リチロの痕跡はどこにもない。彼は、完全に消えてしまったのか。
ふと、リチロがいつも座っていた椅子に目がいく。その上に小さな紙切れを見つけ、タグロは走り寄る。
―親愛なるタグロ、
メモの書き出しはそんな一言、英語の定型句で始まっている。
―君は見たか、昨日の夕空を。あのとんでもない大雨の後の、この世のものとは思えない壮絶な夕焼けを。
タグロは読み進める。リチロの話す英語はたどたどしいのに、文章はとてもきれいだ。青いインクで記された筆記体が美しい。ふとそんなことを思う。
―俺は、視界いっぱいの夕空と新鮮な空気に誘われて外へ出た。そして深呼吸をして空を見上げたその時、とうとう見つけたんだよ。
―これまでに見たことない、大きな虹だった。完全なアーチを描いていて、七つの色がはっきりと見えた。(そういえば、リチロの国では虹は七色と言われているのだと、タグロは思い出す)
それはマラウ山の向こうにかかっていた。呼ばれている、と俺は思った。
マラウ山の向こうにはママルの浜がある。カヤックを漕ぎ遊んだあの穏やかな浜。遠くにはリーフが見え、その向こうにはトラッカ諸島が連なり、その先は果てしない大海が広がっている。
タグロははっと気づき小屋を飛び出した。網を蹴飛ばしてしまったが、持ってきた獲物のことなどもう頭にない。リチロのメモをしっかりと握り締め、農具小屋から離れた古い山道へ一目散に向かう。
間に合うだろうか。いったい、いつリチロは出発したのだろう。




