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リチロ

 リチロはタグロよりずっと色が白い。そして、この島の人間たちに比べてずっと背が高い。そのわりに体つきは貧弱で、タグロから見ればひょろっとしている。この島の人間でないことは、一目でわかる。片言の英語は話せるけれど、食べられる植物や毒のある生き物は知らない。

 リチロの本当の名はもっと長いのだが、それはタグロには発音しにくく、どう頑張っても「リチロ」になってしまう。しかし当の本人はそれが気に入ったようで、以来彼の名は「リチロ」になっている。


 小屋の中は長年ほったらかしのわりには小奇麗に片付いている。リチロが掃除したのだろう。明り取りの窓から差す日が光の道を作る。ほの暗い小屋の中、タグロは荷物を避けて適当に座る。リチロは缶詰と水とビールを置くと、青いリュックから一枚の紙を取り出してタグロに渡す。タグロはわぁっと歓声を上げ、それを手に取る。

 異国の写真が、物資を調達するタグロへの礼となる。リチロにとっては他愛のない、けれど、タグロにとってはカネ以上の宝物。見るたびに、今すぐ走り出したくなるような、胸が締め付けられるような、不思議な思いに駆られる。

 遠い遠い見たこともない国は、タグロにとっては年寄りの夜語りに登場する伝説の王国と変わらない。島では見たことのない顔立ちや肌を持つ人々、奇妙な衣装、踊っているような不思議な文字。とても、本当にあるとは思えない。

 けれども、それは確かにこの世にある。写真がそう証明している。

 それを思うと、タグロはいてもたってもいられなくなる。この人たちに会いに、不思議な風景を見に、知らない風に吹かれに行きたくなる。

 今日の一枚は山の写真。この島では見たことのない、ゆるやかな裾野を持つ単独峰。頂には雪を被り(タグロは本物を見たことがないが、教科書で習ったので知っている)、堂々としたたたずまいなのに空気に溶けてしまいそうに儚い。

 リチロのようだ、と、タグロは思う。

 リチロは沢山のことを知っている。タグロはもちろん、島の大人たちでさえもよくわからない遠い国のこと、有名な本のこと、国と国とのやり取りのこと、その他沢山の難しいこと。とてもややこしくて、タグロの頭がこんがらがってしまうこともある。そんなことを話すリチロは村長よりも堂々としていて、どっしりと落ち着いていて、タグロの目にはとても大きく見える。

 それなのに、時々リチロは今にも消えてしまいそうに見える。それは彼が旅人だからなのだとタグロは思っている。

 リチロはある日ふらっとこの島にやってきた。他の多くの観光客と同じように、半そで半ズボン、リュックサックという出で立ちで港に現れた。違ったのはその顔つき。何かを探しているような、しかもそれを早く見つけなければと思っているような焦燥に満ちた瞳。

 島の人間はよそ者の様子には敏感だ。彼の尋常ならざる雰囲気はすぐに島中の知る所となり、人々は彼が何か良からぬことを企んでいるのではないかと警戒し始めた。その空気を察してだろう。リチロは滞在していたゲストハウスを引き払い、懐っこい島の子供たちの中でも特に仲のよかったタグロに、宿代わりになる場所を尋ねた。

 それが、この古い農具置き場だ。

 以来一ヶ月とちょっと、リチロはここに住んでいる。これが島の人間にばれると面倒なので、タグロは友達にも家族にも内緒にしているし、ここへの行き来にはひどく気を遣っている。

 タグロは一度、何をしにこの島に来たのかリチロに尋ねたことがある。いつも穏やかな顔で笑っているリチロは、その時は真剣な顔で答えた。


―虹の向こうを、探しに。


 その言葉の意味はよく分からなかった。虹なんてこの島では珍しくもない。ちょっとスコールが降れば、いつでもどこでも虹は出る。だからタグロは、


―虹の向こうって、ここもそうだと思うけど。


 当たり前のように言った。事実、海の向こうだとか、山の向こうだとか、気象条件さえ合えば、どこから見たってここは虹の向こうになるだろう。海の向こうからフェリーに乗ってきたリチロだって、ここがその場所と言ってもおかしくないはずだ。虹の向こうを目指しているならここが終着点で、ならばずっとここにいればいい。(タグロは何でも知っていて穏やかなこの異国人を、兄のように慕っていた。いつまでもこの島にいればいいのにと思っていた。)

 けれど、その言葉を聞いたリチロは、


―タグロ、それは違う。


 優しく、しかしきっぱりと言い放った。


―君にとってそうでも、俺には、違う。


 そうして、ふっと遠くを見た。

 そのときのリチロの寂しい笑顔、思いつめたような遠い眼差しを、タグロは忘れることができない。

 今この瞬間も、リチロは時々、遠い場所を見る。タグロの他愛もない話、誰々の家の豚が仔を産んだとか、誰それが森の精霊に化かされたとか、そんなことを笑って聞きながら、ふと会話の途切れた瞬間に、その目は遥か遠くを見ている。

 心がさ迷い出ている。


―もうすぐ、


 タグロはリチロの心を引きとめようとする。リチロがふっと夢から覚めたようにこちらを見る。


―雨季が終わるよ、リチロ。


 タグロは笑う。リチロの白い顔をひたと見すえて笑う。


―プワラの白い花が咲いた。そしたら雨季は終わるんだ。プワラが黒い雲を呼んで大雨が降る。そしたら、きっと虹を見られるよ。


リチロは少しタグロを見て、ふっと笑う。そして、


―そうだな。


ぐしゃぐしゃとタグロの頭をなでる。


―そうだと、いいな。


ふと呟いたリチロの声は、それでも寂しげに響く。

 頭上の手の重さが、タグロには妙に悲しい。


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