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11話 本当にずるいよね

 ひかりの笑みは、いつも通りに見えた。


 明るくて、軽くて、少しだけ人をからかうような、俺が昔から見慣れている表情。けれど、その目元だけが違っていた。薄い膜を張ったみたいに、どこか曇っている。


「ごめん。邪魔しちゃった?」


 その言い方が、逆に痛かった。


「違う。これは――」


「凛さん」


 俺の言葉を遮るように、雪乃が袖を握る指に力を込めた。


 細い指なのに、不思議とほどけない。彼女は俺の隣に一歩寄り、ひかりに向かって丁寧に頭を下げた。


「先ほどは失礼しました。ですが、今の時間は私がいただいたものです」


 穏やかな声だった。


 しかし、そこには明確な線が引かれていた。


 ここから先は入ってこないでください、と。


 ひかりは一瞬だけ黙り、それから笑った。


「そっか。専属メイドさんだもんね」


 冗談めかした声なのに、胸が重くなる。


 俺は雪乃の手を見た。離せと言うべきだ。ひかりに誤解させる前に、この場を整えるべきだ。分かっている。分かっているのに、雪乃の指がかすかに震えていることに気づいてしまった。


 彼女も怖がっている。


 ひかりに奪われることを。俺がひかりの方へ自然に戻っていくことを。自分だけが、無理やり隣に立っている存在なのだと突きつけられることを。


 だから俺は、また一拍遅れた。


 その一拍が、ひかりを傷つけた。


「……凛ってさ、そういうとこあるよね」


 ひかりは小さく呟いた。


「どっちも傷つけたくない顔して、結局どっちも曇らせる」


 返す言葉がなかった。


 花壇の前で、夕方の風が三人の間を通り抜ける。ラブコメなら、ここで誰かが怒鳴って、誰かが転んで、妙な誤解で笑いに変わるのかもしれない。


 けれど、現実の沈黙は笑えない。


 ひかりは俺ではなく、雪乃を見た。


「雪乃さん。凛のこと、本気なんだよね」


「はい」


「じゃあ、分かってると思うけど、凛は面倒だよ。疑うし、逃げるし、勝手に自分の価値を下げるし、優しくされたら裏を探す」


「存じています」


「それでも好き?」


「はい」


 即答だった。


 ひかりの顔が、少しだけ歪んだ。


 雪乃は俺の袖を離さないまま、続けた。


「凛さんが面倒な方であるほど、私はそばにいる理由が増えます。凛さんが自分を嫌うなら、その分、私が凛さんを大切にします。凛さんが逃げるなら、逃げた先まで迎えに行きます」


「重いね」


「はい」


「そこ、認めるんだ」


「凛さんに対してだけは、軽くなれません」


 その言葉に、ひかりは笑った。


 今度の笑みは、少しだけ泣きそうだった。


「そっか。なら、私は負けてるのかもね」


「ひかり」


 名前を呼ぶと、ひかりは俺に向き直った。


「勘違いしないで。別に告白とかじゃないから」


「分かってる」


「分かってない顔してる」


 ひかりはいつもの調子で言った。


 でも、その声は少し震えていた。


「私はさ、凛が昔からずっと兄さんと比べられて、勝手に期待されて、勝手に失望されて、それで人を信用できなくなっていくのを見てた。だから、凛が誰かにちゃんと見てもらえるなら、それはいいことだと思う」


 ひかりは雪乃を見た。


「でも、凛を大事にするなら、凛の逃げ場まで奪わないで」


 雪乃の指が止まった。


 その言葉は、彼女に深く刺さったらしい。


「……私は、凛さんを追い詰めていますか」


「追い詰めてる。でも、救ってもいる。そこが厄介なんだよね」


 ひかりの言葉は鋭かった。


 俺が言えなかったことを、代わりに言ってくれているようだった。雪乃の好意は重い。怖い。だが、それに救われている自分もいる。だから拒めない。だから余計に、すれ違う。


 雪乃は俺の袖から、ゆっくり手を離した。


 離された瞬間、なぜか胸が軽くなるより先に、少しだけ寂しくなった。


「申し訳ありません」


 雪乃は頭を下げた。


「私は、凛さんの隣を失うことばかり恐れていました。だから、凛さんが息をする余白まで、自分のものにしようとしていたのかもしれません」


 その声は静かだった。


 けれど、痛いほど曇っていた。


「ですが、諦めるつもりはありません」


 顔を上げた雪乃の瞳には、涙ではなく熱があった。


「凛さんの逃げ場は残します。けれど、逃げた先の景色に私がいないとは限りません」


「それ、反省してるのか?」


「しています。少しだけ」


「少しだけかよ」


 思わず突っ込むと、雪乃はほんのわずかに微笑んだ。


 その微笑みを見て、ひかりも小さく息を吐く。


「まあ、それくらいじゃないと凛には届かないか」


「おい」


「事実でしょ。普通の好意なら、あんた全部嘘だと思って捨てるじゃん」


 否定できない。


 ひかりは俺の前まで歩いてきて、人差し指で俺の胸を軽く突いた。


「凛。ちゃんと選びなよ。今すぐ誰かを選べって意味じゃない。黙って逃げるのをやめろってこと」


「……分かってる」


「分かってるだけじゃ駄目。言葉にして」


 俺は息を吐いた。


 言葉にするのは苦手だ。


 特に、自分の感情は。


 けれど、ここで黙ればまた二人を傷つける。


「雪乃」


「はい」


「お前のことは、まだ全部信じられない。でも、そばにいてほしくないわけじゃない」


 雪乃の瞳が揺れた。


「ひかり」


「うん」


「俺にとって、お前は大事な幼馴染だ。だから、変に距離を置くつもりもない」


 ひかりは数秒黙った後、苦笑した。


「ほんと、ずるい答え」


「悪い」


「でも、今はそれでいいよ」


 そう言って、ひかりは一歩下がった。


「私は帰る。雪乃さん、今日は凛を貸す」


「貸す、ですか」


 雪乃の目が少し細くなる。


「所有権を主張しているわけではありませんよね」


「冗談だって。怖いなあ、専属メイドさん」


「凛さんに関する冗談には敏感ですので」


 二人の間に、また妙な火花が散った。


 けれど今度は、さっきより少しだけ軽かった。


 ひかりが去った後、雪乃はしばらく黙っていた。


 そして、小さく呟く。


「凛さん」


「何だ」


「私は、少しだけ我慢しました」


「そうだな」


「ですので」


「ご褒美はないぞ」


「まだ何も言っていません」


「顔に書いてある」


 雪乃は不満そうに唇を結んだ。


 その顔が妙に可愛くて、俺は目を逸らした。


「……手なら、少しだけ」


 自分で言ってから後悔した。


 雪乃が目を見開く。


「よろしいのですか」


「少しだけだ」


「はい」


 雪乃は恐る恐る、俺の手に触れた。


 指先が重なる。


 その瞬間、彼女は本当に幸せそうに微笑んだ。


「温かいです」


「普通だろ」


「いいえ。凛さんの手です」


 重い。


 甘い。


 どうしようもなく逃げ場がない。


 けれど俺は、その手をすぐには離さなかった。


 夕暮れの校舎裏で、俺たちはしばらく黙って立っていた。勘違いも、不安も、嫉妬も、全部きれいには消えない。


 それでも、ほんの少しだけ。


 俺は雪乃の本気を、嘘ではないものとして握り返していた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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