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10話 嫉妬しています

 放課後の十分間は、なぜか校舎裏の小さな花壇前で始まった。


 人通りは少ない。けれど完全な密室ではない。雪乃が選んだ場所らしい、逃げ道を残しているようで、実際には俺が落ち着いて話を聞くしかない絶妙な場所だった。


「それで、話って何だ」


 俺が尋ねると、雪乃は鞄から小さな手帳を取り出した。


 黒革の手帳。嫌な予感がした。


「凛さん専属メイド業務計画表です」


「今すぐ燃やせ」


「まだ初稿です」


「完成させるな」


 雪乃は真面目な顔で手帳を開いた。そこには、朝の挨拶、昼食管理、放課後の同行、休日の健康確認、精神状態の観察など、俺の生活を完全に包囲する項目が整然と並んでいた。


 怖い。


 怖いのに、字が綺麗すぎる。


「凛さんが私の好意を信じられるまで、私は行動で証明します。そのためには継続的な接触と、適切なケアが必要です」


「恋愛を業務改善みたいに語るな」


「凛さんは論理的な方ですので」


「俺のせいにするな」


 そう返すと、雪乃は小さく笑った。


 昨日より、少しだけ自然な笑い方だった。胸の奥が変に熱くなる。俺が一言返すだけで、彼女が安心したように笑う。その事実が、重くて、甘くて、厄介だった。


 雪乃は手帳を閉じると、今度は少し真剣な顔になった。


「本題は別にあります」


「まだあるのか」


「はい。ひかりさんのことです」


 その名前が出た瞬間、空気がわずかに硬くなった。


「ひかりがどうした」


「私は、ひかりさんに嫉妬しています」


 真正面から言われて、言葉に詰まった。


 雪乃は目を逸らさない。


「あの方は、私よりずっと前から凛さんのそばにいます。凛さんの子供の頃も、弱いところも、笑い方も、私の知らない凛さんを知っています。それが、少し苦しいです」


「でも、ひかりはそういうんじゃ――」


「分かっています」


 雪乃は穏やかに遮った。


「分かっていても、嫌なのです」


 その声が、妙に切実だった。


「凛さんが私に見せない顔を、ひかりさんには見せる。私には言葉を選ぶのに、ひかりさんには雑に返す。私はそれが羨ましくて、悔しくて……少し、嫌いになりそうになります」


「雪乃」


「ですが、ひかりさんは凛さんに必要な方です。だから奪いません。今のところは」


「最後」


「本音です」


 めんどうという言葉が頭をよぎったが、口には出さなかった。出したら負けな気がした。


 雪乃は胸元のリボンに触れた。


「私が欲しいのは、凛さんの全部です。でも、いきなり全部を求めれば、あなたは逃げます」


「分かってるなら加減しろ」


「なので、今日は十分だけにしました」


 そう言われると、何も言えない。


 たしかに、彼女なりに我慢しているのだろう。俺からすれば十分でも重い。けれど雪乃からすれば、本当はもっと近づきたいのを必死に抑えているのかもしれない。


 その想像が、少しだけ胸を締めつけた。


「凛さん」


「何だ」


「私のこと、少しは怖くなくなりましたか」


 答えに困った。


 怖い。


 今でも怖い。俺の生活に自然と入り込み、逃げれば先回りし、他の女子との距離に嫉妬する。普通なら距離を置くべき相手だ。


 だが、それだけではない。


 雪乃は俺の弁当を作り、俺が食べるだけで泣きそうに笑う。俺の言葉一つで傷つき、俺の不安を家の前で遮り、俺自身さえ見ないふりをしてきた弱さを見つけてくれる。


「怖いよ」


 正直に言った。


 雪乃の睫毛が震える。


「でも、前ほどじゃない」


 彼女が顔を上げた。


「本当ですか」


「嘘はつかないって言っただろ」


 雪乃は数秒、言葉を失ったように俺を見つめた。


 それから、ゆっくりと微笑む。


 綺麗で、甘くて、少し危うい笑みだった。


「では、今日はそれだけで十分です」


 そう言って一礼する彼女は、まるで主に仕えるメイドのようだった。けれど顔を上げた時、その瞳は従者のものではなかった。


 好きな相手を逃がさないと決めた、一人の少女の目だった。


「凛さん、最後に一つだけお願いがあります」


「内容による」


「頭を撫でてください」


「……は?」


「今日は我慢しました。ひかりさんとの時間も奪いませんでした。計画表も一部しかお見せしていません」


「見せた時点でアウトなんだよ」


「ですから、ご褒美をください」


 耳まで赤くしながら、雪乃は真剣に言った。


 ずるい。


 重いことを言った直後に、そんな顔をするな。


 俺はしばらく迷った末、彼女の頭に手を置いた。絹みたいに柔らかい髪が指先に触れる。雪乃の肩が小さく跳ねた。


「これでいいか」


「……はい」


 声が、今までで一番小さかった。


 雪乃は目を伏せ、幸せそうに息を吐いた。その姿は、学年一位の完璧な美少女でも、俺を包囲する専属メイドでもなく、ただ好きな相手に触れられて喜ぶ女の子だった。


 俺の心臓が、うるさく鳴る。


 その時だった。


「……へえ」


 背後から、ひかりの声がした。


 振り返ると、花壇の陰にひかりが立っていた。表情は笑っている。けれど、その笑みは少しだけ硬かった。


「十分だけって、そういう時間だったんだ」


「ひかり、これは」


 言い訳を探す俺の袖を、雪乃がそっと掴んだ。


 そして、ひかりへ向けて静かに微笑む。


「はい。凛さんとの大切な時間です」


 空気が凍った。


 ひかりの目が、ほんの少し揺れる。


 雪乃は俺の袖を離さない。


 まただ。


 俺が何かを選ばないせいで、誰かの表情が曇っていく。


 胸の奥が痛んだ。


 ラブコメみたいに騒がしい放課後のはずなのに、その痛みだけは、やけに本物だった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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