9.花嫁喪失事件③
――何が起きたのか、全く分からなかった。ただ一つ言えるとしたら、僕は重大な謎を見落としていたという事で……
僕の腕の中では、指を恋人結びで絡め合ったモモちゃんがうっとりと幸せそうな顔で甘えるような声を出しながら僕に身体を擦りつけていた。本能的に反応しそうになるのを必死で抑えつつ推理しようとして……駄目だ。
モモちゃんは……振り解くには魅力的すぎる。それになにより――
「お分かり頂けましたか? それでは、旦那様に春茅先輩と百花お嬢様の婚約を取りはからって頂きますが……千歳お嬢様にもご協力頂けますね?」
「…………ッ!?」
――愛するちと先輩が……悲しそうな顔で僕を見ていた。
あ、あはは……そ、そうだよね? これはどう見ても……愛し合う恋人の姿な訳で……っていうか、モモちゃんは僕の事が好きらしいし、僕もモモちゃんの事が嫌いじゃないってそういうことじゃなくて!?
――ち、違うんですちと先輩!? これは決して浮気とかではなく……ッ!?
だけれど、僕は結局その言葉を口にする事はできなかった。
ちと先輩は見た事もないほど表情を苦しそうに歪めていたのだ。普段の僕なら真っ先に駆けつけただろう。だけど、できなかった。腕の中には立った今口づけをした女の子がいるわけで、っていうか何がどうなってるの? 僕は一体何を――
混乱のあまり硬直した僕を尻目に、事態は刻一刻と悪化していく。真っ先に動いたのは……流石と言うべきか、ちと先輩のお父さんだった。
「この度は……ッ誠に申し訳ありませんでしたッッッ!!! 後日正式な謝罪とささやかですがお詫びの品をお送りさせて頂きますのでッ、なにとぞ、なにとぞ穏便にッ!!!」
土下座だった。ただの土下座ではない。即座に庭園に飛び降り、土の上に直に頭をつけたのだ。即座にお母さんもそれに続き、事態に完全に置いてきぼりを喰らっている三白の親族達に平伏して許しを請うていた。使用人達も続々とそれに続いていく。
その傍らでは才賀先輩が隠しきれない驚愕を浮かべながらも、三白の方を見ていて――
あいつは……笑っていた。まるで復讐を果たしたような、暗い愉悦に浸っていたのだッ!
「三白君ッ――」
「ざまぁみろ春茅……!! 俺の気持ちが分かったか!? 1番を決められなかった自分を恨め!!」
奴は満足げにそう言うと颯爽と身を翻して退出していく。未だに事情を理解できない彼の親族達もそれに続いていき……僕たちだけが残されていた。
お父さんが……真っ青になって燃え尽きたような表情で僕を見た。
お母さんが……能面のように無表情になって鋭い眼光を僕に突きつけた。
二見さんが……信じられないとばかりにモモちゃんを見た。
ちと先輩が……激しい怒りに苛まれ、いやそれだけじゃない。憎悪、嫉妬、怨嗟その他あらゆる負の感情を僕にぶつけていたのだ……。
「あ、あ……ち、違うんです。これは……その――」
僕はどうにか言葉をひねり出していた。だけれど、それには何の叡智も込められていない。ただの言い訳に過ぎないものなのだ。……我がことながら、僕はまるで夢の世界に居るような気分でそれを聞いていた。
ちと先輩は言った。
「違わないさ……そうか。君は……私より妹を選んだんだな……」
「そんな……つもりじゃ……!?」
「……完璧なタイミングで? そんな礼装まで着て? 花嫁をさらっておいてか? 馬鹿にするなッ! 予め百花のために計画していたんだろうッ!? そんなことよりも、部外者の前でこれだけの醜態を晒したんだ。君には責任を取ってもらわなくては困る……」
吐き捨てるような物言いだった。
あ、あれ? おかしくない? だ、だってだよ? 僕はこれまでちと先輩の隣を歩けるようにずっと頑張ってきたんだよ? つまり、ちと先輩に好かれたかったんだよ? じゃあ何で、僕はちと先輩に嫌われてるの? これじゃあまるでフラれたみたいで――
――気がつけば、僕は絞め殺された鶏の断末魔みたいな声で縋りついていた
「先……輩――」
「気安く話しかけるな虫酸が走るッッ!!! 君がその未来を選んだんだろう!? さよならだッ! 二度と私の目の前に現れるなッ!!!!」
あは、あははははは…………。僕……どうしよう……? 死んだ方が……良いのかなぁ?
あは、あははははは………………。
「おい待て春茅! 貴様が着ているのは、学生の身分じゃ買えない値段の代物だぞ!? 何処でそれを――」
「――叔父さんッッッ!!! そんな事はどうでも良いでしょうッ!!!」
才賀先輩が、必死で僕の事を味方してくれている……。
だけれど、ちと先輩はそれを一顧だにせず、不愉快そうに梅谷さんと共に僕を捨てて退出していった……。
「そもそもどうやって今日の事を知ったんだ!? 俺ですら少し前まで知らなかった事を…………ッ!? そうか……これが目的だったのか!?」
そこで才賀先輩は戦慄の表情を浮かべながら見た。僕も死にそうな顔でそれを追った。
「姫乃正気かァァァッ!? 敬愛する百花ちゃんのためとはいえ、千歳ちゃんと春茅を破局に追い込んだというのかァァァァッッッ!?」
そうだ……。よく思い返してみよう。今日の僕はお休みだから普段より遅い朝食を取っていたのだ。そしてそこに現れた姫乃ちゃんは、慌てて来ましたと言わんばかりに割烹着姿でしゃもじまで持っていて……
……違う。違う違う違う! お屋敷の人間を世話する姫乃ちゃん達の朝ご飯がそんなに遅いわけ無いじゃないか!?
これは姫乃ちゃんの偽装工作だッ! 僕の推理力を知っていた姫乃ちゃんは、わざと僕に偽の手がかりを与えていたんだ。どうして? 僕の意識を偽の手がかりに誘導して、真の狙いに気付かせないために!
……そこで僕は、秋風の言葉を思い出していた。
『ねぇ春茅君。貴男の他の人の気持ちを汲む姿勢って、とっても良い物だと思うわ。だけれど、貴男はそれに驕ってしまっている。それに驕って、当然するべき筈の推理を怠ってしまっている……。それでは、複雑怪奇な動機の網を操る事など出来やしない……』
「あぁ……僕は……ッ!?」
ぐうの音も出なかった。秋風の言った事は正しかったのだ。僕は姫乃ちゃんの気持ちを汲んで誘導された結果、当然するべき推理を怠って……一番大切だと思っていたはずのものを失ってしまった――
絶望した僕を尻目に、事態はどんどん悪い方向へ進んでいく。
既に僕に出来る事はない……。ただ、審判が下されるのを待つだけだ……。
「おぉ……百花……何たる事だ……」
気がつけばお父さんは大地に崩れ落ちたまま頭を抱えていた。もちろん自分の娘のしでかした不祥事のために……ではない。
「愚かな……愚かな父を許しておくれ……そして教えておくれ。どうしてこんな真似をしたのだ? お前は……三白の倅を愛しているのではなかったのか?」
――気持ちの通じない愛娘のことが、最後まで理解できなかった事に。
ここまでくれば僕にも分かる。全ては姫乃ちゃんの陰謀だったのだ。
二見さんがモモちゃんと三白君のお見合いを推しているというのも嘘。姫乃ちゃんが僕の失恋を狙ってお父さんに嘘の報告をあげたのだ。お父さんも、娘の仲の良い相手の言葉を全面的に信用してしまった。
……だから、遥かに格下の三白の家との婚約にも応じたのだろう。全て、娘の幸せを願って――
とんだすれ違いだった。みんな、踊らされたのだ。既にモモちゃんは婚約を土壇場で破棄するという令嬢として致命的な醜聞を持ってしまった。それはきっと、彼女の将来に暗い影を落とすだろう……。
そこで僕はモモちゃんを覗き込んだ。
モモちゃんは大混乱に陥り震えつつも、少しずつ復活したようだった。今は僕の腕から離れて静かに騒動の最中にある眼下を眺めていて――
「お嬢様――お幸せに」
「ありがとう姫乃。貴女は……最高に主人想いの従者だわ」
――モモちゃんの瞳は決意を秘めていた。
きっと”1番”を決めたのだ。他のあらゆる事象を投げ捨てでも守りたい、”1番”を。
――僕は……それを決めてるつもりで、決められていなかった………………
「リョウっち、こっちだよ」
モモちゃんはニコッと笑うと、まるで遠足にでも行くかのように壁の向こう側、道路へと飛び降りた。それなりに高い壁だけど、もちろんそこには僕の使った”足場”があるので問題ない。
”足場”。そう、タクシーだ。僕は渋る運転手さんを説得して、タクシーの天井を踏み台にして壁をよじ登ったのだ。
身軽に地面におりたモモちゃんは、全てが上の空の僕を引っ張ってタクシーの乗り込んでいく。車内で待機していた運転手さんは騒動を良く理解していないようで、見事に花嫁を救い出してきた僕を映画みたいじゃないか、と笑って車を発進させていた。
……追っ手から逃げ延びるために。
「それで……どっちに行くんだい?」
「……あ、リョウっち、ホテルの予約してたんだ! えへへ、運転手さん! 江ノ島の先なんだけど……王子ホテルまでお願いします!」
モモちゃんは目敏く後部座席に置きっ放しになっていた荷物から予約票を見つけ出していた。
……一方、僕は――
タクシーは進んでいく。路地の入り組んだ住宅街を通り抜けると、湘南海岸の方へと進路を向けて……。
鼻歌を歌うモモちゃんは終始ご機嫌だった。
「リョウっち……難しく考えなくて良いんだよ? ただ純粋に、今を楽しも?」
――ちと先輩……。
僕が内心で未練がましく思っているのも気にしない。それどころか平然と僕の頬にキスをすると、楽しそうに午後の予定を決めていく。
「あ! いきなりホテルは……やっぱり早いよね。まずはランチにするし! ってよく見たら予約も済んでるじゃん! そういうわけで運転手さん! 行き先変更するし! 七里ヶ浜の――」
あぁ……空が青い。冬は空気が澄んでるから、夏以上に深い青色に見えるのだ。天頂付近は海のように深く、地平線付近は川のように淡く。
「……ちと……先輩……」
僕は……泣いた。
その後の事は良く覚えてない。とにかく自暴自棄になっていたのだ。だから一緒に美味しいイタリアンを食べて、モモちゃんと僕の服を買って、暫く2人で湘南を散策して……それからホテルに泊まったのだ。
もちろん部屋はダブル。大きなベッドに枕が2つだ。
後は……何も言うまい。いつの間にやら薄暗くなった部屋の中で、僕はガラスの向こうの湘南の海を眺めていた。それに合わせて安楽椅子がぎいと音を鳴らす。
後ろでさっきまで鳴り響いていた水音はいつの間にか止んでいた。同時にバスルームの扉が開かれて――
「リョウっち…………私……綺麗……かな?」
「モモちゃん………………」
悲しみのどん底にいる僕に向かって、シャワーを浴び終えたモモちゃんが声をかけた。
長く伸びた黒髪はしっとりと潤いを保っていて、ほんのりと上気した肌はお湯を弾いて艶々としている。僅かに残された雫が勝ち気そうな口元を通ってツンと自己主張した乳房の間に滑り込み、そのまま染み一つ無い肌を下へ下へとゆっくりなぞっていく。
モモちゃんへの親愛と恨みで板挟みになった僕は、切ない表情を浮かべていただろう。一方、生まれたままの姿になったモモちゃんは服と一緒にわだかまりも放り捨てられたのだろうか。水滴の行き先を少しだけ隠すと、はにかみながらもうっとりと瞳を細めている。
「……えへへ、好きだよ……先輩……」
そう言うと、そのまま一直線に僕の胸へと飛び込んできた。
そうして抱き留めたモモちゃんは――
「今は……他の事は全部忘れよ?」
――泣き笑いを浮かべていた。
そうだ。モモちゃんだって僕への愛情と裏切りの板挟みになっているのだ。だけれど、僕と違って覚悟を決めた彼女はずっと強くて――
「リョウっち…………私が居るから……」
蜂蜜のように甘い言葉だった。
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