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荷揚げ場

 銛は父のものだった。


 柄が手に馴染むまで十一年かかった。父の手はもっと大きかったので、握る位置が少しずれる。そのずれごと、マッテオは覚えている。


 港の東手、荷揚げ場の突き当たりに、石造りの二階建てがある。窓に明かりが点いていた。当代が戻っている。小屋の影に隠れて、この時をずっと待っていた。


 夜の船はもう出た。荷揚げ場に人はいない。


 マッテオは扉を蹴った。


 父は十一年前に死んだ。時化ではない。沖へ出すぎたのだ。雑魚まで持っていかれるようになって、獲れ高を増やすしか手がなくなった。だから遠くまで出た。それだけのことで、それを証明する言葉は誰も持っていない。


 船が戻ってきて、父が戻ってこなかった。


 葬式の翌日に人が来た。船は借り物なので、借りは息子が継ぐ。書き付けを出されて、指に墨をつけられた。ジーナが横に立っていた。十四だった。妹の見ている前で、マッテオは黙って指を捺した。


 それからずっと払っている。


 二年前に肋骨を二本折ったとき、妹は銀貨を七枚出した。店の金だ。返していない。返せていない。だから彼は妹の顔を見ない。あんな兄がいる女に、まともな縁談が来るわけがない。近くにいない方がいい。


 今朝、真鯛が三尾あった。小ぶりだが真鯛だ。仲買は雑魚の桶に放り込んだ。


 分銅のことも、数え歌のことも、マッテオには理不尽だと証明できない。証明する言葉を持っていない。だから「ちゃんと数えろ」としか言えなかった。それだけ言って、網小屋の裏に転がされた。


 正しいのに、言葉がない。


 だから銛を持った。


 部屋には四人いた。奥の卓に一人。窓際に三人。


 卓の男は書き付けを見ていた。四十がらみで、指が細く、日に焼けていない。顔を上げて、マッテオを見て、それから銛を見た。


 驚かなかった。


「ああ、朝のか」


 男は書き付けを置いた。


「ヌレッティーニ」


「そう。用件は」


「雑魚を返せ」


 男はしばらくマッテオを見ていた。それから、少し笑った。馬鹿にした笑い方ではない。珍しいものを見た顔だった。


「返す?」


「昔は持って帰れた。親父の代までは持って帰れた」


「昔の話をされてもな」


 男は椅子の背にもたれた。


「あれは畑に撒く。知っているか」


 マッテオは答えなかった。


「雑魚は内陸へ運んで、畑に撒く。豚にも食わせる。値のつかん魚が、畑に撒けば値がつく。一匹では屑だが、十万匹なら商いになる」


 彼は指を一本立てた。


「お前たちが鍋に放り込んでいたものだ。それを俺は畑に撒いて金にした。それだけのことで、この町の網も船も俺のものになった。文句があるか」


「あれは、うちの――」


「うちの、なんだ」


 言葉が出てこなかった。


 鍋、と言おうとした。父の鍋だ。日によって中身が違って、今日は何が入っているかを当てるのが、子供のころの遊びだった。妹は小さすぎて覚えていない。あの鍋は、この男が畑に撒いている。


 それを説明する言葉が、マッテオにはない。


「ないだろう」


 男は書き付けを取り上げた。


「雑魚は持って帰っていい、という決まりはどこにもなかった。これまで誰も書いていない。お前たちの物だという決まりはない。もともと無かったものを俺が取ったことにはならん」


 窓際の三人が動いた。


 マッテオは銛を構えた。


 そこから先は、あまり覚えていない。


 狭い部屋で長物は振れない。それは知っていた。知っていたが、他に持っていくものがなかった。柄を掴まれて、押し込まれて、壁に当たった。誰かが膝の横を蹴った。


 音がした。自分の中で鳴った音だった。


 外へ引きずり出されて、石畳の上に落とされた。荷揚げ場の石は冷たい。頬がついた。銛が少し離れたところに転がって、音を立てて止まった。


 扉が閉まった。


 それだけだった。


 三人は戻っていった。仕事だからだ。誰も彼を責めていない。


 右の脛から下の感覚がない。あるのは熱だけだ。折れている。今朝の肋骨とは違う音だった。


 マッテオは石畳に頬をつけたまま、銛を見ていた。手を伸ばせば届く。届くが、腕が上がらない。


「痛い?」


 声がした。


 顔を動かすと、熊が見えた。


 熊を抱えた娘が、しゃがんでこちらを見ている。後ろに背の高いのが二人。少し離れて、小柄な男が落ち着きなく周りを見回していた。


「……いや」


「嘘」


 娘は右手をマッテオの脇腹に置いた。


 熱が引いた。息が入るようになった。肩の重さがなくなって、腕が動いた。


 朝と同じだった。


 マッテオは笑った。石畳に頬をつけたまま笑った。


「……またあんたか」


「うん」


「ありがてぇ」


 彼は腕をついて、体を起こした。


「今度こそ、雑魚を取り返せる。俺には女神がついてる」


 銛に手を伸ばした。掴んだ。柄が手に馴染む。父の手はもっと大きかったので、握る位置が少しずれる。


 立ち上がった。


 踏み込もうとして、右足が地面を蹴らなかった。


 転んだ。


 石畳に膝から落ちて、そのまま横倒しになった。銛が手から離れて、また転がった。


 右の脛から下の感覚がない。


 治っていない。


 マッテオは自分の足を見た。それから娘を見た。娘は熊を抱えたまま、同じ姿勢でしゃがんでいた。眠そうな目をしていた。


「あんた」


「これ以上やると、どっちかが死んじゃう」


 娘が言った。


「死んだら治せないからね」


 荷揚げ場は静かだった。石造りの窓に、まだ明かりが点いている。

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