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開店前

 仕込みは終わっていた。


 終わっていたことに、店に戻ってから気づいた。豆は水を吸いすぎている。火は落ちていた。ジーナは竈(かまど)の前にしばらく立って、それからやり直した。


 客はまだ来ない。この時刻は来ない。


 扉が鳴った。


「まだ開けてないよ」


「待つもん」


 娘だった。後ろに背の高いのが一人と、商人の男。


 ジーナは何か言おうとして、やめた。追い返す理由が思いつかない。追い返さない理由も思いつかなかったが、体が勝手に厨房へ入っていた。


 アクアパッツァが出るまで、誰も喋らなかった。


 娘は匙を持って、汁をすくって、しばらく黙って食べていた。三口ほど食べてから顔を上げた。


「お兄さん、帰ってきた?」


「まだ」


「よく殴られるの?」


 ジーナは布巾を置いた。


「あのさ」


「うん」


「同情ならいらないよ」


 娘が匙を止めた。


「うちの兄貴は昔から喧嘩っ早いの。あんたが来る前からああだし。かわいそうな漁師の話が聞きたいなら、そこらの誰でもいいよ。この町、いくらでも転がってるから」


 言ってから、少し言いすぎたと思った。この娘は兄を治した。理由は分からないが、治した。


 だが娘は怒らなかった。少し首をかしげて、また匙を動かした。


「そっか」


「……そう」


「おいしい」


「そりゃどうも」


 商人の男が、卓の反対側で葡萄酒を舐めていた。彼は朝からずっと何か落ち着かない様子だったが、ここで初めて口を開いた。


「女将さん。差し出がましいようですがね」


「なに」


「昨日から市を見てましてね。あっしぁ商売柄、品揃えと値を見ると、その町の懐が読めるんでさぁ」


 彼は指を三本立てた。


「ひとつ。樽も腕章も荷札も、印が全部同じだ。二十年商売してますが、港でこれは珍しい。ふつうは三つか四つの店で分けます。ひとつが全部握ってると、荷が詰まったとき町ごと止まりますからね」


 ジーナは何も言わなかった。


「ふたつ。魚が高い。港町で高いってことはねぇんです。船から下ろしてすぐ売るんだから、内陸より安くなきゃおかしい。ここのは内陸と同じくらいでさぁ」


 彼は指をもう一本折った。


「みっつ。網が売ってねぇ。市に網屋がない。船具屋もない。そんな港、あっしぁ見たことがありません」


 ジーナは布巾を畳んで、また広げた。


 この男の言っていることに、間違いは一つもなかった。だからといって、この町の人間が知らないことも一つもなかった。皆が知っている。知っていて、二十年こうしている。


「借りてるからだよ」


 彼女は言った。


「網も船も。買うんじゃなくて借りるの。だから網屋がいらない」


「なるほど」


「あと、雑魚も全部持ってくの。売り物にならないやつまで、一匹残らず。昔は持って帰ってよかったんだけどね」


 娘が顔を上げた。


「だからカッチュッコがないの」


 ジーナは品書きの板を見た。いちばん上に、消していない字がある。消す気にならなかっただけだ。


「それだけの話。同情はいらない」


「今日もない?」


「ないよ」


 娘は皿の汁を最後まですくって、匙を置いた。


「ごちそうさま」


 それから立ち上がって、熊を抱え直した。


「ちょっと海を見てくる」


「昼までに戻ってくださいまし」


 商人の男が慌てて出ていった。娘はもう扉の外にいた。


 店に、背の高い方が一人残った。


 ジーナは皿を下げた。厨房に運んで、桶に沈めて、それから何気なく言った。


「あの子は不思議な子だね」


 返事があるとは思っていなかった。この男は昨日から一度も自分から喋っていない。


「ジーナ殿」


 彼女は手を止めた。


「なに」


 男は卓のそばに立っていた。背が高いので、この店だと梁に頭が近い。


「兄上のこと、ご心配でしょう」


 ジーナは桶から手を出した。濡れた指を前掛けで拭いて――前掛けは網小屋に置いてきたままだった。


「……あのさ」


「はい」


「二年前ね、うちの兄貴、肋骨二本折ってさ」


「はい」


「隣町の教会まで荷車で運んだの。半日かけて。神父様が三日かけて治してくれた。銀貨七枚。それでも一本は曲がってくっついた」


 彼女は自分の声が震えているのに気づいた。止められなかった。


「今朝は三本だったよ。あたし、数えたもん。三本折れてた。息だって止まりかけてた」


「はい」


「三日で歩くわけないでしょ。三日どころか、その場で立って歩いてったんだよ。熊抱えたまんまだよあの子。汗もかかないで」


 男は黙っていた。


「あの子、何なの」


 しばらく間があった。


 厨房の火が小さく鳴った。


「掃除が行き届いております」


「……は?」


「昨日、入ったときに思いました」


 男は店の中を、ゆっくり見回した。卓を、床を、窓枠を、品書きの板を。


「拭かなくてよい卓を、二度拭いておられた。床に砂も落ちておりません。この町は港ですから、放っておけば一日で砂だらけになりましょう。毎朝やっておられるのですね」


「……そんなの、当たり前でしょ」


「当たり前のことを十一年続けるのが、いちばん難しゅうございます」


 ジーナは何も言えなかった。


 この男は質問に答えていない。答える気もないらしい。それが分かるのに、怒る気にならなかった。


「兄上は、戻られます」


 男はそう言って、扉の方へ歩いた。


「腹が減れば戻るものです。ここは飯屋ですから」


 扉が閉まった。


 ジーナはしばらく突っ立っていた。ぼーっとしていた。それから桶に手を戻して、皿を洗った。水が妙に冷たかった。


 品書きの板の、いちばん上の字は消さなかった。

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