第18話:理不尽な制約と、真紅の逃亡者
「お前……まさか、本当に……美紀、なのか……?」
シンの掠れた声が、ミキ(美紀)の耳元で震えていた。
仮面が完全にズレ落ち、涙を流すシンの素顔がそこにある。
ミキの胸に、狂おしいほどの愛おしさが込み上げた。「そうだよ、私が美紀だよ!」と、その胸に飛び込もうとした――その瞬間だった。
『――いけません、美紀』
頭の中に、冷徹に響き渡る女神の声。
『忘れたのですか? あなたがその身体で彼と深く結ばれ、新しい命の種を宿す前に自ら正体を明かせば……世界の因果が歪み、あなたのその肉体は今すぐ塵となって消滅します。もちろん、お腹の子の魂も永遠に失われるでしょう』
(そんな……っ! 今ここで、シンに本当のことを言ったら、私は消えちゃうの……!?)
目の前で、答えを待つように自分を見つめているシン。
言いたい。本当のことを言って、あの優しいシンを今すぐ抱きしめてあげたい。けれど、もし今消えてしまえば、シンは今度こそ完全に壊れて、世界のすべてを滅ぼす本物の怪物になってしまう。
ミキは奥歯を噛み締め、溢れそうになる涙を必死に堪えながら、狂いそうな思いで首を振った。
「ち、違います……っ! 違います、シンさん……! 私は、私は美紀じゃありません! 私はただの、駆け出し戦士のミキです……っ!」
「え……?」
シンの瞳から、一瞬にして光が消えていく。
「私は……あなたが、あまりにも悲しい目をしてあの箱(棺桶)を見ているから。だから、少しでも元気づけたくて……街で聞いたお名前を、勝手に呼んじゃっただけです……っ!」
涙ながらに、必死に嘘を紡ぐミキ。
その涙を、シンは「本当のことを言えない悲しみ」ではなく、「自分の異常な執念に怯えている涙」だと誤解してしまった。
シンはゆっくりと手を離し、自嘲気味に、力なく笑った。
「あぁ……そう、だよな。すまない、お前を怖がらせた。……美紀は死んだんだ。俺の妄想だ。容姿も体型もこんなに違うお前が、美紀なわけがない……」
シンの凍りついた心が、さらに深い闇の奥へと心を閉ざしていく。
ミキは胸が引き裂かれそうだった。(違うの、シン、私はここにいるのに……!)
だが、二人が感傷に浸る時間は残されていなかった。
背後で、気絶していた聖騎士長ガイルの身体が、うっすらと光の魔力を放ち始め、意識を取り戻しかけている。
「くっ、聖騎士たちが目を覚ますか……。ここを離れるぞ」
シンは、まだ服の肩紐が千切れたままで、自分のマントの衣装を必死に押さえているミキの腰へと、不意に腕を回した。
「ひゃぅっ!?」
次の瞬間、ミキの身体がふわりと宙に浮く。
シンはミキの豊かな肉体を、文字通り【お姫様抱っこ】の形でしっかりと腕の中に抱きかかえた。
「掴まっていろ。舌を噛むなよ」
シンが仮面を乱暴に被り直した瞬間、彼の身体から爆発的な影の魔力が噴き出した。
影の高速移動術――。
聖騎士たちが目を覚ました時には、そこには黒い砂が舞うだけで、仮面の魔導士と真紅の女戦士の姿は、影も形も消え失せていた。
時速数百キロにも達するような、凄まじい速度で聖王国の荒野を駆け抜ける。
風圧でミキの真紅のスカートがひらひらと 捲れそうになるが、シンは彼女の破れた胸元と太ももを、自分の大きな漆黒の外套でガッチリと覆い隠し、ただ前だけを向いて走り続けた。
腕の中に感じる、あまりにも美紀に似た、けれど美紀ではないと否定された温もり。
胸の中に広がる、もどかしくて、切なくて、狂おしいほどのジレンマ。
二人は一言も交わさぬまま、深夜、厳重な警戒が敷かれた聖王国の王都の壁を影の魔術で密かにすり抜け、場違いなほど静まり返った『安全な隠れ家(寂れた廃屋)』へと滑り込むのだった。
正体の答え合わせは、まだ、できない。
けれど、二人の距離は、悲しいほどに近づいていた。




