第2話:【言えなかった「ありがとう」】
「──君は運が良いね──」
体がフワッと軽くなる。
気づけば砂嵐のような荒々しい音は消え去り、聞こえるはずのない誰かの声がした。
「…………へぇ?」
驚きと困惑で間抜けな声が漏れる。
ギュッと閉じた目を開き、声がした方へ顔を向けると、少女の笑顔が映り込む。
「さぁ! もう大丈夫ですよぉ~!」
心地良い音色のように、少女の声が体に溶けた。
肩まで伸びる真っ赤な髪は、側頭部で三つ編みが施されて可憐さに一役買っている。
顔立ちは整っているけど、どこか幼さが残る少女は、僕と同じ17、8くらいだろう。
そして何よりも、彼女の瞳に引き込まれた。
「うーん? どうかしましたか~?」
「……ぁ」
小悪魔的な微笑みを浮かべ、首を傾げた少女の瞳は翠光。
僅かな光で輝く宝石のようで、澄み切った瞳から目が離せなくなっていた。
「あの、聞こえてますぅ? 目ぇー開けたまま寝てるとか言わないですよね?」
「あっ!? えっと、…………大丈夫、です」
「ふふっ。なら、よかったぁ!」
固まり続ける僕に、いよいよ彼女も眉を歪めたが、やはり最後は笑みを浮かべる。
「それじゃ、下ろしますよ」という掛け声で降ろされれば、足の裏に硬い地面の感覚が戻った。
「……ぁぁ」
若干フラつきながら見上げた光景に、僕は呆然とする。
そこにあったのは崖だ。
転がり落ちるなんて出来っこないほどの反り立つ壁。
(この子が受け止めてくれた……ってことだよね?)
死を覚悟した数秒前から、まさかの無傷で生還。
呑気に見惚れてしまっていたが、助けてくれたのは間違いなく可憐な少女。
結びつかない二つの事象に、僕の頭は混乱していた。
「んっ〜〜〜!」
一人気ままに体を伸ばす少女は、陽の光を存分に浴び始める。
さっきまでの森とは対照で、ここには日の光がよく届く。
青空が広がる空を見れば、伸びの一つもしたくなるけど、困惑状態にある僕はそれどころではなかった。
「あ、あのー……」
「ごめんごめん、ちょっと待ってね~」
「え?」
声をかけようとした瞬間、掌を広げた少女によって遮られる。
それと同時に、僕らのいる位置よりも少し先を指差した。
「あれを先やっつけなきゃだからさ」
「っ!?」
指をなぞった先の光景に、僕は声も出せずに尻を着いた。
『『ヴゥ……、ヴゥゥゥ……』』
「……っっ!」
モゾモゾと体を揺らし、白毛に包まれた生物がのっそりと起き上がる。
僅かな時間でこびり着いた心痕に、体が震えだす。
これまでの全てが夢で無かったことを告げるかのようで、声にならない音が喉から溢れた。
「安心して。誰だって魔獣に追いかけられればそうなっちゃうよ」
「……っぇ?」
「でも、もう大丈夫。私がちゃんと守ってあげるから」
怪物を前にして、少女は振り返ることなく語りかけてきた。
男の僕でもビビっているのに、少女の佇まいには一切の恐怖がない。
揺れる赤髪は勇ましく、横顔から見える翠光の瞳には闘志が宿っている。
「…………ぁ」
一体僕は何を見ていたのか。
恐怖に支配されていた視界が解けると、彼女の全容が見渡せる。
なぜ、化け物を前にして屈しないのか。
なぜ、怪物に立ち向かおうとするのか。
なぜ、笑顔でいられるのか。
その答えは全て、
「だから、──待っててね!」
リンッ──と鳴った剣が教えてくれた。
『『ヴァヴァッッ!!』』
「──っ!」
腰に据えるは鞘。
弧を描くは銀閃。
刃を顕にした少女は、魔獣の威嚇を歯牙にも掛けず、風となった。
『ヴァウッ!』
『ヴァウ、ヴァウッ!』
迫る少女に、魔獣が吠える。
一匹は跳躍。
もう一匹は地を駆ける。
鳴き声一つで連携した白魔は隙がない。
「——ふっ」
それでも少女は迷うことなく、両手で握り締めた剣を水平に構えると。
刹那、
「えぇぇぇ、いっ!」
加速した。
『ガァッ!?』
標的にされたのは、地を駆ける魔獣。
懐に潜り込み、横薙ぎに剣を振る。
次の瞬間には、瞠目した魔獣から断末魔が溢れ出す。
「ふっ──!」
それでもまだ、銀閃は役目を終えない。
素早く身を翻し、残る一体へと跳躍する。
「とぉーーーりゃ!」
『ガガッ!?』
重なる二つの放物線。
赤と白の衝突。
その敗者となった魔獣は、血飛沫を上げて落下する。
「あ……、あぁ……」
僅か数秒で辺りは血溜まり。
自慢の爪も牙も披露することなく、変わり果てた魔獣の亡骸は、白毛が特徴だったとは思えないほど赤く染まっていた。
「おーい!」
「あはは、…………こんなことって、あるの……?」
笑顔で手を振る少女に、僕は口端を引き攣らせながら手を上げる。
今さっきまで隣にいた可憐な少女が、一瞬で血の池を作ってしまったこの状況にちょっと引いた。
本当はだいぶ引いているが、助けてくれたことへの感謝。
それプラス、彼女の可愛さがあるからちょっとという表現にしておこう……。
「エッヘン、私強いでしょ!」
「はい、なんていうか…………やばいですね」
戻ってきた彼女は、開口一番ドヤ顔で言い放つ。
引いちゃうほどの躊躇の無さだが、彼女の人間離れした強さは確かに尊敬に値する。
なぜ彼女はこんなにも強いのか。
異世界ならではのあの職業……………………、『冒険者』だからなのだろうか?
思考を巡らしながら、改めて彼女の服飾へと目を向けた。
赤と黒を基調とした上下の戦闘服。
腰に身につけられた剣と同様に、返り血がついても銀色に鈍く光る胴当てや、籠手。
そしてなによりも目を引いた物を確かめるために、僕は問いかけた。
「あの、その『耳』のようなものと、『尻尾』のようなものは……?」
赤髪から生える三角の耳。
スカートから伸びるふわふわの尻尾。
ヒョコヒョコ動いたり、ゆらゆら揺れたりするそれらを、僕はほぼ確信めいた目で見つめた。
「ような? じゃなくて、本物だよ! 君こそ何なの? まるで初めて獣人を見たみたいだよ?」
「……あー、やっぱりそうだよね……」
「え?」
「いやいや、こっちの話……。その、念の為に……ね?」
「はぁー……?」
ここは異世界なのだから、違和感を持つ方が不自然とさえ思ってしまう。
若干の疑心感を与えてしまったが、少女は眉を顰めるだけだった。
(何はともあれ……、ひとまず助かった……)
腰を抜かしたままの姿勢で、安堵の息を吐く。
(死ぬかと思ったけど、こうして人に会えたのはありがたい)
どうやら言葉の壁はないみたい。
ならば分からないことだらけの世界でも、生き抜くすべは探せるだろう。
僅かな希望を見出した僕は、さらに情報を聞き出そうと立ち上がる。
「……へぇ?」
…………つもりが、力が入らないことに違和感を覚えた。
膝下がソワソワする。
力の入れても、みっともなく地面を掻くだけ。
生まれたての子鹿にすらなれないままの僕は、羞恥心と焦燥感を募らせる。
そんな僕に、彼女は優しく声を掛けてきた。
「無理しなくていいんだよ。どこにも行かないから」
そう言うと、声の主は僕の額を押した。
「あ、ぁ………」
僕は抵抗する事さえ出来ず、後ろへと倒れ込む。
どうやら膝だけでなく、体のあちこちの力が抜けてしまったようだ。
その証拠に筋肉痛でもない僕の体は、寝転んだ状態から寝返りもできないのだから。
「大の字で寝転ぶのって、気持ちいいよね〜」
カチャカチャと剣を外す音が聞こえる。
「よいしょ」と、掛け声を出しながら、少女は僕の隣に寝転んだ。
「太陽の日が気持ち~~~~~い!」
「はい、……気持ちいいです」
遮られることのない日の光が、温かく僕らを照らす。
のんびりした時間が過ぎていき、さっきまでのおかしな状況が嘘みたい。
異世界転移して、見知らぬ美少女と日光浴している今の状況も十分おかしいが、先ほどに比べれば些細なことにしか思えなかった。
「はぁー」
「やっと落ち着いた?」
「え? …………あ、はい」
ふとこぼれた吐息に、少女が尋ねてきた。
「なら良かった。魔獣倒しても、嬉しそうにしてなかったから心配したんだ」
「う、っ!?」
取り繕った笑みを看破され、罪悪感にも似た感情が心を埋めようとしていた。
「それでも、笑顔を見せようとしてくれてありがと!」
「え?」
「ん? どうかした?」
「今……、ありがとう……って」
「何か変だったかな?」
空を見上げていた彼女は、体を直すと不思議そうに僕を見つめた。
「だって、助けてもらったのは僕なんだから、僕の方こそお礼を言わないといけないのに……」
そういう今も、僕はまだ感謝の言葉を言えていない。
そもそもどうして彼女は、見ず知らずの僕を助けてくれたんだ?
いくら彼女が魔獣を瞬殺できるからと言って、危険な行為であることは間違えない。
怪我はしなかったものの、服は汚れてしまっているし…………。
「君、なんか難しいこと考えて生きてるんだね。ひょっとして頭いいのかな? 私賢い方じゃないから羨ましいなぁ~」
「……」
戸惑う僕に、彼女は無邪気に笑う。
場を和ませようとした彼女の粋な計らいに、僕は合わせることができなかった。
それくらい彼女からの『ありがとう』が衝撃的だった。
見知らぬ人のために魔獣と戦い、あまつさえ相手に感謝の言葉さえ告げてしまう。
僕とは全てが、違う。
無言のままの僕に違和感を持ったのか、あどけない笑顔を崩した彼女は口を開いた。
「君の言いたいことがわからないわけじゃないよ。誰かに感謝されたら私も嬉しい。でも、私は感謝されたくて人助けをしてるわけじゃない。さっきも、たまたま君が落ちて来るところが見えたから助けただけなんだよ」
言い終わると、彼女はカラッと笑顔を見せるのだった。
「まぁ〜、さらに言えば、何も考えてなかったけどね~」
「っ!?」
その一言に、鼓動が大きく脈打つ。
だからね、と続ける彼女に目を見開き、耳を傾ける。
「自分にできるか、どうかなんて関係ない。それでも困っている人が目の前にいるなら助ける。ただそれだけだよ」
「……っ」
彼女の話を聞く傍ら、終始僕の胸は針が刺さる思いに駆られる。
『──人助けは、自分のためになんてならない──』
人情の欠片もない言葉。
これが教訓から学んだ指針であり、僕の生き方だ。
人混みにポッカリと空いた空間を、魂律されたように皆が避ける。
でも、いつもその中心には人がいた。
ボロボロで膝を抱えた『誰か』が、潤んだ瞳を向けてくる。
今にも泣きそうな顔で、『誰か』を探して視線を彷徨わせている。
そんな時は決まって、この合言葉を唱えて、目を瞑る。
『──人助けは、自分のためになんてならない──』、……だと。
聞こえない振りをして、見なかった振りをして、その『誰か』と関わらないようにする。
みんなも避けているから。
きっと、特別な【誰か】が手を差し伸べるはずだから。
ただ今は……、心の中に静かな揺らぎが生まれた気がした。
「そんなわけだからさ。君にその気がないなら、無理にお礼なんて言わなくていいんだよ? 私がやりたくてやったことなんだからさ」
「そ、そういうわけでは……!」
パッと起き上がった少女は、どこか後腐れないように言い切る。
僕に罪悪感を与えないようにするためか。
それとも口では言いつつも、やっぱり少し怒っている?
むしろ礼くらい言えよ、と罵られない方がおかしいのだけれど……。
つられるように立ち上がっていた僕に、彼女は驚嘆を漏らすのだった。
「お! 立てましたねぇ~。せっかくだから、近くの村までは案内するよ」
「……ぁ、…………はい。…………お願いします……っ」
完全に時機を逃してしまった。
装備を直し、歩み始めた少女の背を前にして、僕は手をダラリと下げる。
(何やってんだか、……僕は……)
異世界に来たばかりで動揺が抜けきらない。
そんな言い訳も許されないほどの、選択の誤り。
お礼をいうのに、複雑な手順は要らない。
ならこれは、僕の卑屈さが招いた結果。
無意味に本音を隠し、素直になれなかった自分を呪うしかない。
そして何より、少女の善意を傷つけてしまった。
自己否定に拍車をかける僕は、重く項垂れた頭を上げられずに、少女を追いかける。
──その、一歩目を出そうとした時、
「──!」
突然の地鳴りと衝撃音が、僕の背後で鳴った。
「…………え?」
普通だったらすぐさま振り返っただろう。
何も考えず、反射的に。
でも出来なかった。
「っ!?」
顔を上げた先で、絶望に染まった少女がいたから。
「逃げてっっっ!?」
「っ!?」
手を伸ばす少女に、一も二もなく自分の手を重ねる。
血の気の引いた顔。
魂からの絶叫。
何が起こったのかは分からない。
けれど、ただ事ではない。
それだけを理解した僕は、弾かれたように駆け出していた。
「うわっ!?」
彼女の手を掴むと、とてつもない力で前方へと引っ張られる。
体勢はみっともなく崩れ、腹這いのまま地面を滑る。
「ぅっ……!」
ぶつけた顎をさすりながら、地面から体を剥がせば、手を引いてくれた少女が見当たら——、
「っ!」
——崖壁面の方から、バンッと炸裂音が耳朶を打つ。
とっさに音の方へと視線を向ければ、断崖絶壁から土煙が上がっている。
「何、が……」
直感に過ぎない。
けれど、否定も出来ない。
嫌な予感を振り払えないままの僕は、瞳を細めて土煙を見つめる。
「……っ!?」
そして打ち付けられた、少女に言葉を失った。
「…………ぁ、…………っ!?」
彼女がそうなった理由は明白だった。
突如現れた歪な影。
突き刺すような殺意。
警鐘が止まらない体は鳥肌で覆われ、恐る恐る見上げた光景に、ついに呼吸が止まる。
『オォォォォ………』
「ぃぃぃ…………っっっ!?」
僕を覗く白い巨体。
その赤眼に映る自身を見つめ、もう何度目ともなる死を覚悟するのだった。
次回、いよいよプロローグの真相に近づいていきます。
続きが気になる方は、ぜひブックマークやコメントで応援していただけると嬉しいです




