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癌だそうだ。末期の。
あちこちに転移した癌は、私の食道をも侵食し、満足に食べることも飲むことも叶わなくなった。白いカーテンで作った隣のベッドとの境の影で、彼女が涙をぬぐって微笑みを作ってから私の前に現れることを、私はわかっていた。どんどんと衰えていく体は痩せ細り、骨と血管ばかりが青く浮き出た腕に刺さる点滴の針を、彼女が絶対に見ないことも、私の手を握る瞬間、ちょっとの間だけ震えてためらうことも、気にしていた皺が深くなり、隈が濃くなり、だるそうに体を丸めて歩くことも、私と同じように痩せて行っていることも、私はわかっていた。
けれども、これは言ってはいけないことだろう。彼女のことを思うならば、そして私の夢を思うならば、それは黙っているべき秘密なのだ。
最期のときを、家で過ごすと担当の医師に伝えたとき、医師は私の目をわかっていたように見て、後ろに控えていた彼女を振り返った。彼女は疲れきった顔に笑顔を浮かべ、私ではなく医師の目を見て頷いた。灰色の重い雲が空を厚く覆っていたからか、彼女の瞳の光は蛍光灯の白々とした光を強く反射させていた。充血しっぱなしだった瞳が、そのときばかりは白く輝き、それなのに強い蛍光灯の光のせいで顔の陰影は濃く深かった。下から力なく見上げるばかりの私は、彼女の瞳の白さを覚悟の表れなのだと思った。
久しぶりの我が家に帰ったのは、雲の切れ目から光の柱が幾本も降り落ちる日の午前だった。車椅子に乗っているのも疲れるくらいに衰弱した私は、若いころの意地と夢で建てた家があまりに古びて見えることに驚いた。そんな家の玄関の扉に、あがらない腕で手をかけたとき、あまりの懐かしさと安心に涙がこぼれた。
車椅子を押す息子のぎょっとした雰囲気に気がつき、慌てて涙を拭こうとする私の手の上に手を重ね、涙もろくなりましたねお互い、と彼女はお気に入りだと話してくれたハンカチでそっと私の目元を押さえた。暗くなった視界で、ぐずっと鼻をすする音が聞こえた。
和室に似合わない上等なコンポには、埃避けのレースがかけられており、雑多に畳みの上に積んでいた本の山は、真新しい本棚の中にきっちりと納まっていた。胡坐をかいて一日の大半を過ごしていたこの自室で、私は敷いた布団の上で寝返りすらもままならない状態のまま、開け放した縁側から見える猫の額ほどの広さの庭を眺めて過ごした。
私の介護は大変だった。満足に動くことができない私の寝返りをさせることも、からだのマッサージも、トイレや風呂まで、彼女の仕事となった。腰を何度も叩きつつ、スムーズに立ち上がることさえできなくなりつつも、彼女はヘルパーを呼んだりせずに一人で私の介護と家事をこなした。
私はそんな彼女の姿を見るばかりで、動かない体と痛みに焦れていた。そして、溜まり溜まった黒い澱をついに吐き出したのが、家に帰ってまだ一週間と経たないある日のことだった。
温かい濡れタオルで私の体を拭ってくれていた彼女の手を、叩き落として罵った。
部屋の中の、彼女が施した埃避けのレースが気に食わなかったり、本棚の重みでずっしりと沈み込む畳が嫌だったのだ。枕もとの看病に必要なものが置いてあるお盆も、どうしても視界に入る点滴も、針が入っている腕も、回診してくる医師も、なにもかもが気に入らなくなっていた。心の内を覆った不快な靄は、凝り固まって心にも大きな癌を作り上げてしまっていた。その吐き出し口が欲しかったばかりに、彼女に当り散らした。
呆然と私の罵りを受け止めていた彼女を、力の入らない腕で押すと、彼女は簡単に後ろに尻餅をつき、しばらくしてふらふらと立ち直って、私の乱れたままの衣服を正しはじめた。
今度は私のほうが呆然とした。ひどい言葉を吐きかけた自覚はある。彼女の頑張りや思いやりをすべて踏みにじってしまった自覚もある。自分勝手な八つ当たりであることもわかっている。彼女が私の言葉にひどく傷ついてしまうこともわかっていた。怒鳴られるかもしれない、ぶたれるかもしれない、泣かれるかもしれない。最悪、私の看護のすべてを誰かに任せるのかもしれない、と覚悟して罵った。
それなのに私の衣服を正す彼女の手は未だに優しく、丁寧だった。
しん、と無言で気まずい空気のなか、衣服を正し終えた彼女は、老いて荒れた手で私のやせこけた頬をなでた。ぼんやりとした感覚が、彼女の指の冷たい温度を捕らえた。
頑張りましょう。
そう、彼女は言った。
頑張りましょう、私も、何をすればあなたが喜ぶのか、本当はよくわからないんです。それでも、私は頑張りますから、あなたも、私と一緒に頑張ってください。
曇りの日は、身近な景色を見やすくする。彼女は我が家の薄暗い闇を後ろに従えて、無表情だった。疲れ果てて暗くにごった彼女の瞳の中に捕らえられた私は、はじめて見た彼女の暗い表情に怖気づき、そして感動した。
ぼたぼたと溢れる涙を、拭おうとしてくれた彼女の手を必死に掴んで、頑張ろう、頑張ろうと繰り返した。彼女は子守唄でも歌うように、ゆっくりと体を揺らしながらそうですね、そうですねと相槌を打った。
そんなことがあってからも私の心はひどく漣立ち、かと思えば、暮れ落ちた夕凪のように静かになったりした。
電信柱にとまるカラスの黒い瞳がじっと私を見つめている気がしたり、すずめが鳴きながら私のそばにまで来るようになったり、シンと静まったあとにざあざあと雨が降る音が聞こえてきたり、私の心は安定しなかった。
家に帰ってきたときはあんなにあたたかな気持ちで、安心して涙すら流れたというのに、病院を出てさらにゆっくりと流れる時間と、じんわりと隅から食らっていく闇のように迫ってくる死の影に、私は口を呆けさせて待っているしかなかった。いかほどの恐怖か。それは住み慣れていたはずの場所がまったく見知らぬ場所に思える恐怖にも、広い密室の中で一人、一定の速度で増してくる水にただ体をぬらすしかない恐怖にも、暗闇の中で唯一温かなはずの光の輝きがどんどんと冷たく細く狭まっていく恐怖にも似ている。けれども、それらの恐怖よりも、曖昧でいて、それなのにはっきりとした結末のある恐怖に、私は蝕まれながらもひたすらに耐えた。
なによりも怖いのは夜だ。もはや動くのもつらい体の天辺にある脳みそはなかなかボケないらしい。まだはっきりとした意識と痛みの螺旋の中で、私は庭を越えた遠く向こうの町の明かりがぼんやり霞むのを見ながら、取り留めなく絶望したり恐怖したりを繰り返す。掻き毟りたくなる衝動を叶えることもできない私は、喉の奥で痰が絡まった悲鳴を小さく上げるばかり。
そんなとき、彼女はいつの間にか起きてきて私の手を握り、じっとして座っている。昼間の八つ当たりも、無茶なわがままも、下の世話や医師に深く頭を下げることも顔色を変えずに、しかし確実にやつれながら彼女はこなした。見ることはできなかったが、すっかりと光も弱くなった月明かりに照らされた彼女はきっと、世に生き残ってしまった天上人のように美しく儚い姿なのだろう。狂った心地のする私は、薄くなった手足の感覚を懸命に働かせ、彼女の冷たい手を握り返す。そうやってじっとしていると、喉の奥に絡まった粘つく悲鳴は、胸の底にトンと沈みこんでいく。そしてようやく訪れた穏やかな心地の中で眠りに入っていけた。




