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 最期は、穏やかな日のなかで迎えたいと、大病を患ったときにはじめて思った。

 贅沢を言うのならば、涼しい風が吹く晴れの日の太陽が空高くある時間に、思い出を切り取った写真を部屋中に広げて、愛しい人たちと語らいながら、笑顔を眺めて、涙ではなく微笑みを見て目を閉じたい。自分を思い、流してくれる涙はさぞかし胸につかえるだろう。それこそ、目を閉じて眠ってしまうのを惜しんでしまうくらいに、ぐっと重く胸に、魂にのしかかる。花を撫でる風が吹く日ならば、そんな涙よりも、遠い昔を懐かしむときの淡く微笑む優しい目元が相応しいだろう。そして、聞き馴染んだジャズも、美しい旋律のアンティークな音楽も捨てがたいが、それらよりもずっと付き合いの長い彼女の、萎んで丸くなった声に耳を傾けていたい。

 そういえば、こんなときに思い出してしまったが、私はいつから彼女に感謝の言葉を伝えていないだろうか。いまだにお互いのより深いところを知っているとは言えないが、今よりもずっと初々しくお互いを知らなかったころには、小事のたびに声をかけていた気がする。食卓にご飯が並ぶごとに、醤油差しを手渡されるごとに、ご飯を食べ終えるごとに、掃除されていることに気付くごとに、脱いだ背広をハンガーにかけてくれるごとに、感謝の声は忘れなかったものなのに。

 声をかけることを忘れて、彼女は今、おい、あれは、それは、と問うだけで私の欲しいものもしたいことも気になることもわかるようになった。慣れ、というものなのかはわからないが、私はというと、彼女があれは、それは、と聞いてきても彼女の欲しいものもしたいことも気になることもわかると自信を持って言うことはできない。情けないことこの上ないが、私が彼女のことを理解しているのはその程度なのだ。いったい何年連れ添ってきたのか。いや、連れ添ったのではなく、彼女が私に寄り添ってくれていたのだろう。腕を支えるように組んだ彼女を、私は見ようともせずにあちらへこちらへと引き回していたのだ。まったく、こんなときになってそれに思い至るとは、本当になんて情けないのだろう。

 それでも、彼女は私にとって、間違いなく愛しい人だ。

 出会いから何十年。ここで語りはしないが、大恋愛の末に結ばれた私たちは、長い月日の多くの出来事に揉まれ、年をとり、経験を積み、姿も心のあり方も始まりからずいぶんと変わってしまったが、少なくとも私が彼女に抱く感情の核は変わらない。恋から愛に変わり、その愛がより親しいものへ向ける親愛に変わり、カクカクと落ち着かなかった形が丸くなり、鮮やかだった色彩は穏やかに淡く優しく色変わりした。彼女と手をつなぐならば、指と指とを絡ませあうようなものではなく、掌と掌を合わせて指を甲に掛けるようにつなぐ。彼女が私の首に腕を回し、私が彼女の腰に腕を回す情熱的なハグから、お互いが背中に腕を回して肩に手を乗せるハグに、ゆっくりと時間をかけて変わっていったように、愛は愛から愛へと変わった。

 その輝かしく移り過ぎていった過去たちは、写真という文明の利器によって切り取られ、分厚い本となって棚の奥深くに埃を被って眠っている。

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