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「いい名前だと思いませんか」

 ♞ 


 たとえば冬の空。

 ある星々は大きな三角形を描き、その周りを狩人は棍棒を振り上げ、大小の犬は慌ただしく駆け回る。一際輝く赤い星が南天を焦がす。

 夜空に打たれる無限にも思える点。しかし、頭上にどこまでも続くのは果てのない暗闇だ。地上を煌々と照らす照明設備の光も遥か高い空に届くこともなく力尽きる。

 憂さ晴らしとばかりにその光は地面へと強烈に降り注ぎ、足元に濃い影を作っていた。

 年が明けてすぐに降った雪はひととき美浦トレセンを白く覆ったが、絶え間ない人馬の行き来と昨日降った雨によって、波打ったままに固まった地面に今はその名残をとどめるのみだ。まだ日の昇る前の美浦トレーニングセンターを一人、足を取られないように慎重に歩く。口から漏れ出る濃く白い息を隠すように濃紺のネックウォーマーを口元まで上げた。

 暫くして布留川厩舎に着く。

 馬房には馬の姿だけで人影がない。少し早かったか。ここで待とうかとも一瞬思ったが、身体が冷えて調教に差し障ってもいけない。明かりが点いている大仲の方へと回った。

 扉に手をかけると、中から数人の笑い声が聞こえてくる。

 思わず手を止めた。

 扉に耳を近付けて息を潜める。

 ――府中で乗らないなんてアホなことしてるから肝心のレースを落とすんだよ。二回も飛ばしたらそら感覚が変わっちまうわな。

 ――バカだよなあ。いつまでも過去のレース引きずってさ。

 ――しかも見ろよこれ。やっぱりあの噂ホントだったぞ。

 ……なるほど。随分と楽しそうな話をしている。

 扉に手をかけ、勢いよく音を立てて開ける。雑談に興じていた男たちは驚いた顔でこちらに顔を向けた。

「面白そうですね、俺も混ぜてくださいよ」

「……なんだ、ずいぶん早いな」

 こちらの問いかけを無視し、年嵩の厩務員が何事もなかったように俺に声をかける。一人は手に持った新聞を畳んで机に置き、なにも言わずに俺のすぐ脇を通って外へ出ていった。年嵩の男も続く。

 どうやら歓迎ムードというわけではないらしい。そもそも期待などしていなかったが。

 一人残された若い男は逡巡しているうちに逃げ出すタイミングを逸し、こちらに曖昧に微笑んだ。残念ながら、微笑み返してやるほど俺はできた人間ではないし、それができればもう少し上手に世渡りできたことだろう。

 視線を外し、無造作に机に置いていかれた新聞に目をやる。大日スポーツの今朝の朝刊。一面には『トルバドゥール引退』の文字がこれ見よがしに踊っている。

「よお、待ってたよ岸君」

 間が悪く布留川が入ってくる。一瞬顔を上げるのが遅れた俺の視線の先を、布留川は見咎めた。暫時目を細めると、かっと眉をつり上る。近くの若い厩務員に語気を強めて、

「田中っ! ぼーっとしてるなら先輩について仕事探してこい」

「は、はい! すんませんっ、すぐ行きますっ!」

 茶髪の若い厩務員がこれ幸いとばかりに慌ただしく外へと駆け出していった。布留川はおもむろに新聞を手に取り、つまらなそうに眺めたあと、こちらの死角になるところへと置いた。

「悪いね。さっき入れ違いで出てった奴らがなにか言ったみたいだな」

「気にしないでください。トルバドゥールの故障引退も、俺が府中で乗らなかったのも事実なんで。でも今度は裏じゃなくてちゃんと俺の目の前で言うように伝えといてくれると助かります。ちゃんと聞いてあげるんで」

「これはだいぶ気を悪くしたみたいだね」

 布留川は、勘弁してくれよ、と吐息を漏らして笑った。

 俺のことをよく思っていないのはなにもこの布留川厩舎の厩務員だけではない。トルバドゥールの活躍もあり、ここ数年影を潜めていた不満が俺にも伝わる形で多かれ少なかれ顕出している。

 そして今回乗らされる馬があのカムパネラの全弟であるのだから、火に油を注ぎにいっているようなものだ。俺にとってもいい迷惑である。

「今度乗る馬」

「ワンダラスト」

「……そのワンダラストの新馬戦は乗りますけど、次の騎手はちゃんと探しといてください。万が一ダービーに出れることになっても俺は乗らないですよ」

「そうか。考えておくよ」

 そのつもりはないよ、といった調子で布留川は生返事する。会話が途切れ、特に話すこともないので馬房の方へ向かうおうかと扉の方へ振り返ると、 

「岸君」 

 布留川に呼び止められた。

「はい?」

「調教終わったら時間あるかな。君に会いたいっていう人がいるんだ」

 ……今度はなんだ。このもったいぶった物言いはどうせろくなことではないだろうが。ここまで来たら、毒を食らわば皿までだ。

「いい話でもあるんですかね?」

「もちろんだよ。俺が君に悪い話を持ってきたことないだろう?」

 布留川は屈託なく笑う。

 どの口が言うんだ。

 そうですね、と気のない返事をして部屋をあとにした。

 

阿賀田(あがた)美鈴(みれい)です。よろしくお願いします」

 目の前の女はそう言って折り目正しく挨拶をする。艷やかな黒の前髪が重いボブカット。その顔に浮かべる笑みは人好きがして非の打ち所がないが、それ故にどこか作り物めいていてどこか鼻につく。

「……アガタミレイ」

 名前を反芻すると、女は、ああ、とわざとらしいほどに大きく頷き、メモ帳のさらの(ページ)を開く。右手にペンを取り、

「元の木阿弥の『阿』、加賀百万石の『賀』、我田引水の『田』で阿賀田(あがた)。美人薄明の『美』、鈴を転がすような声の『鈴』で美鈴(みれい)です。すみません。名刺がまだ間に合ってなくて。連絡先も書いておきますね」

 たいしてわかりやすくもないたとえで名前の漢字を告げてペンを走らせると、それを書いた頁をミシン目に沿って丁寧に千切ってこちらに差し出した。

 ――『阿賀田美鈴』。

「いい名前だと思いませんか?」

 阿賀田は満面の笑み。

 女性らしい丸みのある流れるような筆跡。名前とともに携帯の番号が添えられている。

 鈴を転がしたような声、ね。いくら美しい鈴の音であっても、時と場合によっては耳に障るものなのだと気付かされる。

「どうかしましたか?」

 首を傾げて阿賀田が顔を覗き込んできた。思わず半歩退く。

「……初めて見る顔だと思ってね」

 一瞬、僅かに阿賀田の目が泳ぐ。

 布留川に事前に聞いたところによると大日スポーツの記者らしいが、見覚えがない。トレセンや競馬場に出入りしているすべての記者の顔と名前を憶えているわけではもちろんないが、若い女の記者はまだ珍しいので会っていたら流石にわかる。はずだ。

 ――が、阿賀田はすぐに何事もなかったように微笑みを作った。

「今年から競馬取材班に異動になったんです。以後お見知りおきを」

「ふーん」

 怪しいな。少なくとも簡単に隙を見せていい相手ではなさそうだ。

「で、なんで君はこんな朝早くからわざわざ俺に挨拶を?」

「はい。こういった密着取材は初めてなので気合が入ってしまいまして。私、高校、大学と馬術部でしたので馬の扱いには多少心得があるつもりです。迷惑をおかけしないようにしますのでよろしくお願いします。」

 そう言って礼儀正しく頭を下げた。この取材自体が迷惑なんだけどな、という言葉を飲み込み疑問をぶつける。

「なんで俺なのかな。取材する騎手なんていくらでもいるでしょ。それこそこの前の有馬で勝った日鷹とかいいんじゃない?」

「たしかに日鷹騎手は魅力的ですけれど、私が岸さんのことを取材したいと思ったので」

 阿賀田はさも当然の顔で言い切る。

「そんな曖昧な理由でよく密着取材しようなんて思ったね」

 大日スポーツだって取材リソースは限られてるだろうに。ずいぶんと贅沢な記者の使い方だ。そこで、こちらのニュアンスを取り違えたのか、阿賀田がはっとした顔をして慌てて頭を下げた。

「すみません!」

「! お、おい」

「気分を害されてしまったらすみませんっ。素敵なところがありすぎてすぐにひとつを選べなくて、その」

 周囲の厩務員や調教師の視線が刺さる。勘弁してくれ。傍目から見れば新人記者をいびる嫌な奴じゃないか。……否定はしないが。

「もう、わかったから顔上げてくれ。とりあえず」

「はい。わかりました」

 けろっとした顔で阿賀田は顔を上げる。申し訳無さのかけらもない。

 こいつ。

 阿賀田が頬の横に合わせた両の手を添えて微笑む。

「よかったです。誤解されてなくて。私、岸さんのファンなので、嫌われたらどうしようかと」

 ……この女、なにが目的だ。取材の目的があまりに嘘っぽく白々しい。そもそも、だ。騎乗していたトルバドゥールが故障引退を発表したばかり。付き合いの長い大日スポーツがわざわざこちらを刺激するようなこのタイミングで密着取材を依頼してくるなんて、旧知の間とはいえ、いや、だからこそ不自然だ。上司から許可をもらっていないか、もしくは――。

 ……まあ、いい。

「挨拶はこれくらいでいいかな? ちょっとこのあと予定があるんだ」

 これ以上付き合う義理もない。

「えっ! 付いて行ってもいいですか?」

 いいわけないだろ。

「プライベートだからダメだ」

 阿賀田はあからさまにがっくりと肩を落とす。

「そうですか……、残念です。――では、明日からよろしくお願いします! 絶対いい記事にしますねっ」

「……。それは嬉しいね。とっても」

 その曇りない笑顔に、精一杯皮肉に聞こえるように言葉を返した。

 おそらく、まるで効いてはいない。

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