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異世界娯楽  作者: モカ


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第三話

血が流れる。


その言葉が、食卓の上に置かれた料理から立ち昇る蒸気のように、ゆっくりと空間に広がった。柊はパンに手を伸ばしかけて、止めた。食欲が、急速に萎んでいくのを感じる。


「……俺のせいで、ですか」


声は、自分でも驚くほど小さかった。


クロウは何も言わない。セリアも、何も言わない。その沈黙が、答えだった。


柊は眼鏡をかけ直した。指先が微かに震えている。それは空腹のせいではない。


「いや、待てよ……」


思考中の癖が出る。呟きが、口から漏れる。


「俺がこの世界に来たことで、人々の心に火がついた。秩序を守りたい者と、変化を求める者。その対立は、俺が来る前から——」


「あった」


セリアが、静かに遮った。


「ありました。あなたが来る前から、その種は確かに存在していました」


セリアはテーブルの上のチーズを一切れ取り、自分の皿に置いた。だが、それを口に運ぶ気配はない。ただ、手を動かすことで、何かの感情を押し殺しているように見えた。


「この世界の秩序は、完璧ではありません。生まれたときに役割が決まるという仕組みは、多くの人に安定をもたらしました。でも同時に、自分の人生を自分で選べないという苦しみも生んでいます」


「それでも、あなたはその秩序を守っている」


「ええ。それが私の役割だからです」


セリアの声は揺るがない。だが、その瞳の奥には——柊にはそう見えた——深い疲労のような色がちらついていた。


「秩序がなくなれば、この世界はもっと多くの人が傷つきます。不完全であっても、今の仕組みがあるから、人々は最低限の暮らしを営めている。それを壊すことは、私には許容できません」


「でも、変化を求める人たちは、その『最低限』じゃ足りないと感じている」


柊の言葉に、セリアは一瞬だけ目を伏せた。


「……ええ。その通りです」


クロウが、ようやくパンをちぎった。乱暴に、だが手慣れた動作で。


「とにかく食え。腹が減ったまま考えても、ろくな答えは出ねえ」


その言葉は、この重い空気の中では妙に人間味があった。柊は小さく頷き、パンを手に取った。硬い。だが、噛み締めると、素朴な穀物の味が口に広がった。この世界の味だ、と思った。この世界で育った麦で作られた、この世界の食べ物。


それを滅ぼすか、存続させるか、自分が決める。


パンの味が、急に苦くなった。


しばらくの間、三人は無言で食事を続けた。肉料理は塩漬けの何かを焼いたもので、脂が少なく、素朴な味だった。チーズは硬く、酸味が強い。水は、金属製のコップに注がれていた。この時代の、この世界の日常がそこにあった。


柊は食べながら、思考を止められなかった。


自分の存在が火種になっている。秩序派と変化派。その衝突は、自分が選別を終えるまで続く。いや、もしかしたら選別が終わった後も——


「セリアさん」


柊は食事の手を止めて尋ねた。


「一つ聞いていいですか」


「どうぞ」


「変化を求めている人たちは、具体的に何を望んでいるんですか。秩序が壊れればいい、という漠然としたものなのか。それとも、何か明確な目標があるのか」


セリアは少し考えるように、銀色の髪を耳にかけた。蝋燭の光がその髪に反射して、一瞬だけ橙色に染まる。


「彼らの多くは、自分の人生を自分で選びたいと思っています。鍛冶屋の子に生まれたら鍛冶屋になるしかない。聖職者の家に生まれたら聖職者になるしかない。そうした決まりから、解放されたいと」


「それは、分からなくもないですね」


柊は率直にそう言った。日本で生まれた自分は、少なくとも大学に行くか就職するか、ある程度の選択肢があった。その当たり前が、この世界には存在しない。


「ただ」とセリアが続ける。「自由というものは、それだけでは人を幸せにしません。自分で選べるということは、自分で責任を取らなければならないということです。この世界の人々が、その重さに耐えられるかどうか。私には……確信が持てないのです」


その言葉には、嘘がなかった。少なくとも柊にはそう聞こえた。セリアは秩序を盲目的に守ろうとしているのではない。自分なりに、この世界の人々のことを考えた上で、今の体制を維持している。


だが同時に、その考え方には危うさがあるとも柊は感じた。「人々が耐えられるかどうか分からないから、選択肢を与えない」。それは保護なのか、それとも——


思考が、外部からの音に遮断された。


塔の下の方から、何かが聞こえる。複数の声。怒号のような。


セリアの顔が強張った。クロウは食事の手を止め、窓のない壁の向こうに意識を向けた。その動きは素早く、職業的だった。


「始まったか」


クロウの声は、予想していたかのように平坦だった。


「何が始まったんですか」


柊が立ち上がろうとすると、セリアが制止した。


「座っていてください。あなたが姿を見せれば、余計に混乱します」


「でも——」


「セリアの言う通りだ。座ってろ」


クロウも同調した。だが、その身体はすでに椅子から離れている。


「俺がちょっと見てくる。セリア、こいつを頼んだぞ」


クロウはそう言い残し、食堂の扉を開けて出ていった。廊下に彼の足音が響く。速い。だが、慌てた足音ではない。何度もこういう場面を経験してきた者の、制御された動きだった。


扉が閉まると、食堂には柊とセリアの二人だけが残された。


塔の下から響く声は、少しずつ大きくなっている。言葉の一つ一つは聞き取れない。だが、その声の調子から、怒りと興奮が伝わってくる。


柊は、自分の胸の奥で何かが揺れるのを感じた。不安だ。恐怖に近い不安。それと同時に、テーブルの上のコップの水面が、微かに波打っていた。


——感情共鳴魔法。


柊は自分の感情が、この世界の物理に干渉していることに気づいた。怒りで火が出る。悲しみで雨が降る。そして今、不安で——水が揺れている。


「落ち着いてください」


セリアの声が、鋭い。彼女は柊の視線がコップに向いたのを見逃さなかった。


「あなたの感情は、この世界に影響を与えます。今、不安を感じていますね。それは仕方のないことですが、できるだけ——」


「分かってます」


柊は深く息を吸った。そして吐いた。論理的に考えろ。感情を制御しろ。自分は今、この世界のルールに組み込まれている。感情の揺らぎが大きくなれば、それだけ力が増す。だが、暴走すれば取り返しがつかない。


水面の揺れが、少しずつ収まっていく。


「……すいません」


「いいえ。あなたが自覚しているだけ、まだ良い方です」


セリアはそう言いながら、自分の椅子に深く座り直した。その表情は、先ほどまでの凛とした聖女のそれとは少し違っていた。疲れた、一人の若い女性の顔。


「セリアさん」


「はい」


「あなたは、怖くないんですか」


唐突な質問だった。だが、柊はそう聞かずにはいられなかった。


セリアは少しだけ目を見開いた。そして、窓のない壁をしばらく見つめてから、静かに答えた。


「怖いですよ。当然です」


「でも、逃げない」


「逃げられません。私がいなくなれば、この世界の秩序は崩壊します。それは、もっと多くの人が傷つくことを意味します」


「それは……責任感ですか。それとも、義務感ですか」


セリアは答えなかった。代わりに、微かに笑った。それは、先ほどの諦めたような笑顔ではなかった。もっと複雑な——自分でも答えが分からない、という種類の笑みだった。


塔の下の怒号が、さらに大きくなった。何かが壊れる音が混ざっている。柊は反射的に立ち上がった。


「やっぱり、見に行った方が——」


その時、食堂の扉が勢いよく開いた。


クロウではなかった。


扉から飛び込んできたのは、若い男だった。柊より少し年下に見える。薄汚れた作業着のような服を着て、額に汗を滲ませている。茶色い短髪は乱れ、頬には煤のような汚れがついていた。この世界の一般的な労働者——おそらく、秩序によって生まれたときから何かの職業を割り当てられた、そんな若者に見えた。


だが、その目は燃えていた。恐怖と興奮と、それから——希望のようなものが、その瞳の中で渦を巻いている。


「セリア様! 下で……下で揉め事が!」


若者はセリアに向かって叫んだ。だが、その視線はすぐに柊に移った。柊と目が合った瞬間、若者の表情が凍りついた。


「あんた……もしかして……」


若者は柊を凝視した。その目には、畏怖と期待が同居していた。


「選別者、か?」


柊は答えられなかった。正確には、答えるべき言葉が見つからなかった。自分はこの世界にとって何なのか。救世主か。破壊者か。それとも、ただの——


「リューク」


セリアの声が、食堂に響いた。凛とした、聖女の声。先ほどまでの疲れた表情は消え、統治者としての顔に戻っている。


「下の状況を報告しなさい」


リュークと呼ばれた若者は、セリアの声で我に返ったように姿勢を正した。だが、その目はまだ柊を捉えたままだった。


「……あ、はい。秩序派の連中と、変化を求める……俺たちの仲間が、塔の前で言い合いになってます。まだ暴力沙汰にはなってないですけど、時間の問題です。クロウさんが間に入って押さえてくれてますが、あの人一人じゃ——」


「分かりました。私が行きます」


セリアが立ち上がった。その動きには迷いがない。


「セリアさん、待ってください」


柊が呼び止めた。


「俺も行きます」


「駄目です。先ほども言いましたが、あなたが姿を見せれば——」


「余計に混乱する。それは分かってます。でも——」


柊は、自分でも意外な言葉を口にした。


「俺がこの世界を選別するなら、この世界を知らなきゃいけない。安全な部屋の中で飯を食いながら、外で人が傷つくのを待ってるだけじゃ、何も判断できません」


セリアの深い青の瞳が、柊を射抜いた。数秒の沈黙。塔の下からは、まだ怒号が聞こえている。


「……あなたは、正直な方ですね」


セリアの声は、かすかに柔らかくなった。だが、すぐに元の硬さに戻る。


「ただし、条件があります。あなたは私の後ろにいてください。自分から前に出ないこと。そして、感情を——」


「制御する。分かってます」


セリアは一瞬だけ、柊の目を見た。そして、小さく頷いた。


リュークは二人のやり取りを、呆然と見ていた。その表情には、何かを理解しきれない戸惑いがあった。選別者という存在が、自分たちの世界を滅ぼすかもしれない者が——なぜ、この世界を「知ろう」としているのか。


「行きましょう」


セリアが扉に向かって歩き出す。柊はその後に続いた。リュークも、少し遅れてついてくる。


廊下を早足で進みながら、柊はリュークの方を一度だけ振り返った。若者の目が、まだ自分を見つめている。


その目に宿っている感情を、柊は正確に読み取ることができなかった。ただ、一つだけ分かることがあった。


この若者は、この世界に何かを求めている。


そしてその何かは、今の秩序の中には存在しないものだ。


階段を下りるたびに、怒号が近づいてくる。蝋燭の光が壁に揺れる影を落とし、その影が——まるで人の形をした何かのように——柊たちの前を走っていった。


塔の入口が見えた。朱い光が、開け放たれた扉から差し込んでいる。


その光の中に、人々の姿があった。

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