第二話
朱に染まった街は、思ったより息苦しかった。
柊は街路を歩きながら、その感覚に戸惑っていた。空気そのものが赤くなっているわけではないのに、すべてが朱色に見える。石造りの壁、古ぼけた看板、行き交う人々の衣装。『グレイシア』という名の世界は、どうやら常にこうした薄明の中にあるらしい。夕焼けが一日中続いているような、そんな不思議な光景。
「慣れればどうってことねえよ」
クロウが肩越しに言う。焦げた髪の男は、この街に明らかに馴染んでいた。所々に切り傷が見える腕の動きは、自然で、洗練されている。何度もこの街を歩いているのだろうか。それとも、その世界によって、その街によって、彼の立場が異なるのだろうか。
その男の正体についても、柊にはまだ明らかにされていない。ただ、このサポート役と呼ばれる存在は、自分よりも確実にこの世界を知っている。
「クロウさん。この街の人々は、セリアという女性をどう見ているんですか?」
柊は呟くように尋ねた。思考中の癖が出ている。彼は歩きながら、周囲を観察していた。
クロウは一呼吸置いて答える。
「崇拝してる、と言ってもいい。聖女だからな。この世界の秩序を守る存在として、大体の奴らが信仰している」
「秩序、ですか」
「そうだ。この世界にはルールがある。生まれたときから、お前は何になるべきか、どこに属するべきか、すべてが決まっている。そのルールをセリアが守らせているからこそ、この街は『安定』している」
柊は眼鏡をかけ直した。今度は、思考を深めるためではなく、周囲の光景を遮るためだ。
「つまり、セリアという存在は、この世界の秩序そのものを体現している、ということですね」
「そういうことだ。だからな、お前がこの世界を滅ぼすと決めれば、その女はそれに全身全霊で抵抗する。自分たちの世界が消えるのを、ただ黙って見ていることなんて、あの女にはできないだろうからな」
街の人々が、柊たちを避けるように歩いていることに気づいた。彼らは視線を合わせてこない。クロウはそれに気づいていないのか、あるいは気にしていないのか、相変わらずの歩調で進んでいく。
やがて、街の中心部が見えてきた。
それは、一つの塔だった。白い石造りの塔が、朱い空を突き抜けるように立っている。その塔の頂上には、光が灯っている。まるで灯台のように。あるいは、この世界全体を見守るかのように。
「あれが聖域だ。セリアの居城にして、この世界の秩序を守る場所」
クロウが指を指した。塔はたしかに、圧倒的な存在感を放っていた。
「あの中に、セリアがいる。お前と話し合うために、待ってるはずだ」
「話し合う、ですか」
柊は1つ思った。いや、待てよ……セリアという女性が、本当に自分と『話し合う』つもりなのか?クロウの言葉によれば、彼女は柊の『選別』という概念を「拒否する」らしい。そのような相手が、なぜ会おうとするのだろうか。
その答えは、すぐに与えられることになった。
塔の入口に、一人の人影が立っていたからだ。
背の高い女性。銀色に輝く髪が、朱い光に反射している。その服装は、この世界の聖職者のそれのようだ。白い長衣に、金色の紋章が刻まれている。だが、最も印象的なのは、その瞳だ。
その瞳の色は、まるで宝石のような深い青。この世界全体を見つめるかのような、そんな強い意志が込められている。
「ようこそ、選別者。一応歓迎するわ。」
女性の声は、静かだった。だが、その一言には、この世界の意志が込められているかのような重みがある。
この女性が、おそらくセリアなのだろう。柊が選別するのに必要のある『重要な人物』。
セリアは柊を見つめた。その目には、敵意はない。だが、同時に譲らない決意が、明確に存在していた。
「率直に言いますが、私はあなたの役割を認めていません。だって人には平等に生きる権利が与えられているのですから。だからこそあなたの選択によっては抵抗をさせていただきます」
「セリア。今日から激しくなるぞ」
クロウが横から声を掛ける。セリアはクロウの一言で顔が一瞬だけ青くなる。だがそれを柊に悟らせないようにと、笑顔になるのだが、その笑顔は何かを諦めたような、そんな笑顔だった。
柊はクロウの言葉に疑問を抱く。激しくなるってなんだ?何か激しくなるのかと。疑問を抱くが聞きはしない。いやセリアが隠そうとしているから聞けないのだ。
そうしてお互いに沈黙が訪れる。だがそんな沈黙もすぐに、1つの音によって破られることになる。
「グーーー……」
沈黙を破るのは柊の腹の音。その腹の音を聞いたセリアはため息をつきながら言う。
「はあ…。とりあえずご飯にしましょうか。詳しい話はご飯を食べてからでも遅くはないですからね。」
「すいません。セリアさんのお言葉に甘えさせてもらいます。」
塔の内部は思ったより薄暗かった。
朱く染まった街の光が遠ざかるにつれ、石造りの壁に沿って蝋燭の灯が幽かに揺らいでいる。その光さえも、どこか儀式的で、この世界の『秩序』を象徴しているような気がした。
セリアは先を歩き、柊とクロウはそれに従う。階段を上り、廊下を進む。その間、一言も声を発さない。重苦しい沈黙だ。先ほどのクロウの言葉——「今日から激しくなるぞ」——がまだ、柊の脳裏に引っかかっている。
何が激しくなるのか。何を隠そうとしているのか。
柊は自分の推論能力を信じたい。しかし、情報が不足している。セリアの反応も奇妙だった。クロウの言葉で顔が青くなり、その直後に諦めたような笑顔。あれは何だ。恐怖か。覚悟か。それとも——
「こちらです」
セリアの声が、思考を遮った。彼女が立ち止まったのは、一つの大きな扉の前。装飾的な木製で、金色の取っ手がついている。重厚で、この塔の中でも重要な場所に見える。
セリアが扉を開く。
中には、食卓があった。白いリネンで覆われたテーブルに、幾つかの皿が並んでいる。パンらしき物、チーズ、そして何かの肉料理。蒸気機関時代の食事にしては、質素だが丁寧に用意されている。
「お腹が空いているご様子でしたから、簡単なものですが一応」
セリアが席に着くよう促す。柊は素直に従った。クロウもテーブルに着く。
「ところで、セリアさん。先ほどクロウさんが『激しくなる』と言っていましたが、それはどういう意味ですか?」
柊は直球で尋ねた。思考中の癖が出ている。
セリアとクロウの間に、一瞬の緊張が走った。二人の視線が交錯する。クロウが先に口を開く。
「お前の『選別』に異議を唱える者たちが出てくるってことだ。セリアだけじゃなくてな」
「異議を唱える者たち、ですか」
「そうだ。この世界には、秩序に満足していない者たちがいる。お前の出現は、彼らに『別の可能性』を見せてしまったんだ。希望をな」
クロウの言葉は淡々としていたが、その背後には何かしらの複雑な感情が隠されている気がした。
セリアが静かに言葉を継ぐ。
「選別者。あなたがこの世界にいるという状況は、人々の心に火をつけてしまいました。秩序を望む者と、変化を望む者。その二つの感情が、今、この世界で衝突し始めているのです」
柊は、その言葉の重さを感じた。自分の存在そのものが、この世界を揺さぶっているということか。
「それで、激しくなるんですね」
「そういうことだ。お前の選別までの間に、この世界は分裂する可能性がある。その過程で、血も流れるかもしれない…」
それを言うクロウの声は、出会ってから一番低かった。




