第一話
世界が白く溶けた。
柊は眼鏡を外し、瞼をこすった。何も見えない。いや、見えないのではなく、見ている対象が存在しないのだ。自分の手も、体も、重力すら感じられない。浮遊しているのか、沈んでいるのか。そうした認識すら揺らいでいく感覚。
まるで胎内に還ったようだと、彼は思った。
次の瞬間、世界が逆転した。
柊は地面に叩きつけられた。いや、叩きつけられたというより、地面が彼を吸い込むようにして現れた。空気が肺に流れ込み、心臓が暴力的に鼓動を始める。痛い。目が、耳が、全身の感覚が一度に目覚め、悲鳴をあげている。
「ぐ……あ……」
呼吸をしようとしても、肺は空気を受け付けない。口をあけ、閉じ、あけ、閉じ。何度か繰り返すうちに、ようやく身体が現世に適応し始めた。天井を見つめる。木造の天井。和室だ。
いや、違う。光の加減、木目の模様。柊は身体を起こそうと試みた。肘をついて、ゆっくり。四肢が、自分のものとは思えぬほど重い。
「……ここ、どこ?」
呟きながら、彼は辺りを見渡した。
部屋は薄暗い。窓から差し込む光は、夕陽の色だ。朱色に染まった壁。その光の中を、塵埃がゆっくり漂っている。柊は眼鏡を探した。転移の際、どこかに落としたのだろう。視界はぼやけているが、形ははっきりしている。
人がいる。
部屋の隅に、一人の男が立っていた。
焦げた髪。傷跡。柊の視界がぼやけているせいか、その男の詳細は掴めない。だが『戦ってきた人間』の匂いは、明確に伝わってきた。このような表現は非科学的だと、いつもなら自分は考えるのだが、今の彼にはそれを拒否する力がなかった。
「目が覚めたか」
男は砕けた口調で言った。朱く染まった顔の表情を読むことは難しい。だが、その瞳には何かしらの感情があることだけは確かだ。
「俺はクロウ。お前の……相棒みたいなもんだ」
柊は眼鏡をかけ直した。メガネは眼鏡は枕元に置かれていたようだ。一度かけると、世界がようやく正常になった。そして、目の前の男の全容が見えた。
焦げた髪。右肩から首にかけて走る傷痕。左腕には火傷の跡。三十代前半に見えるが、その眼はもっと古い。何度も何度も『何か』を経験した人間の眼。
「相棒?」
柊は首をかしげた。自分は誰とも約束していない。友人に誘われたわけでもない。昨日まで自分は日本の、平凡な大学生だった。朝起きて、講義に出て、図書館で過ごして、帰ってきて、眠った。その繰り返し。
何ら特別なことなど起こらなかった。
なのに、今、自分は知らない男の前で、知らない部屋の中に倒れている。
「……俺、どうなってるんですか?」
敬語が出た。恐怖が言葉を丁寧にさせたのだ。
「お前は転移した。別の世界に」
クロウは部屋の窓へと歩み寄った。背中で語る男。朱く染まった外の世界を指差す。
「ここはもう日本じゃない」
柊は立ちあがろうとした。膝が震える。もう一度、試す。力が入らない。焦燥が、心を揺さぶる。
いや、待て。冷静に。今、どうするべきか。
柊は深呼吸をした。三度。鼻からゆっくり吸って、口からゆっくり出す。医者から習った不安神経症への対処法。生理的な恐怖反応を鎮めるために、最も効果的な方法の1つ。
「転移、というのは……」
柊は言葉を紡いだ。落ち着きを取り戻すために。自分の思考を外部化するために。
「異世界転移ってやつですか?」
「そのもんだ」
クロウは振り返った。朱い逆光の中で、男の表情は読めない。だが、その声には何らかの同情があるように聞こえた。
「お前は今、『運命の糸』に選ばれた。神の玩具だ」
「神?」
柊は眼鏡をぐっと上げた。それは思考の癖だ。困惑した時、眼鏡を上げるとすこし冷静になるのだ。
「冗談ですか」
「冗談じゃない」
クロウは腕を組んだ。
「お前がここに来たのは、ただの気紛れじゃない。神の意思だ。その世界を『生かすか』『滅ぼすか』を選別するためにな」
世界を滅ぼす。
その言葉が、柊の脳に引っかかった。理解できない。というより、理解したくない。そのような事柄が存在するはずがない。世界とは、それは在るべき自明の存在だ。選別の対象ではなく。生も死も、そうした大仰な概念ではなく、ただ、そこにあるだけの存在だ。
「……その話、詳しく聞きたいんですが」
柊は立ちあがった。膝は依然、震えていたが、これ以上、座っていることに耐えられなかった。
「どの部分から?」
クロウは口元を緩めた。冷笑か、同情か。その表情の意図は、依然として読めない。
「ここはどこか。俺はなぜここにいるのか。そして、世界を選別する、とはどういう意味か」
「順番に答えてやる」
クロウは窓を指差した。
「まず、ここを見ろ」
柊は窓へ歩み寄った。歩みは未だ不安定だが、数歩進むことで、身体は少しずつ適応し始めていた。窓のそばにたどり着き、外を見た。
朱く染まった街が広がっていた。
レンガ造りの建物。ガス灯。馬車。その光景は、柊が学んだ歴史の教科書に載っていた。蒸気機関の時代。近世と近代の狭間の時代。
「なるほど。つまり、時間も空間も、この世界は別である、という事ですね」
「そういうこった」
クロウが続ける。
「お前は特別な力を持ってる。その世界の『異質な感情体質』ってやつだ。簡単に言えば、お前の感情が、この世界の理法に干渉する。怒れば火が出る。悲しめば雨が降る。喜べば人は引き寄せられる」
「感情共鳴魔法」
不思議と、その言葉は柊の脳に自然に現れた。自分で考えた言葉ではなく、どこかから降ってきたような、そのような感覚。
「そうだ。その呼び方でいい」
クロウは頷いた。
「だからお前はこの世界で力を持つ。この世界の人間より遥かに強力な」
「でも、感情が安定すると、その力は弱まる。逆に絶望や狂喜に陥ると暴走する」
また、言葉が勝手に口から出ていた。何かしらの情報が、柊の脳に直接、流れ込まれているような錯覚。いや、錯覚ではなく、そうした現象が実際に起こっているのだ。柊は自分の意図しない言葉を発している。
これが『神秘失行症』か。
またしても、その言葉が浮かんだ。柊は眉をひそめた。
「俺は、何を思い出してるんですか?」
「思い出してるんじゃなく、神が思い出させてるんだ」
クロウが言った。
「お前がここに来た理由だけは、神が思い出させる。それ以外は全部、お前自身で判断しなきゃならない」
「転移のルール」
柊は呟いた。
「ルール1、世界にいていい期間は無期限である。ルール2、その世界を存続させる場合次の世界に行ってもらうこと。ルール3、その世界を滅ぼす場合その世界が滅ぶ光景を観たあとに次の世界に行ってもらうこと。ルール4、存続か滅ぼすかを選んだ後にチートスキルをまた1つもらい次の世界に行けること。ルール5、転移の場所はランダムに決まる」
完璧に、言葉が出た。
柊の眼鏡の奥の瞳が、か細く震えていた。自分が何を言っているのか、自分で理解できていない。だが、言葉は止まらない。それは知識ではなく、『命令』のようなものだ。
「……違う。これらのルール、本当ですか?」
柊はクロウを振り返った。
「2と3、おかしくないですか?」
クロウの顔色が、かすかに変わった。
「何がおかしい」
「存続させた場合、次の世界に行く。滅ぼした場合も、その光景を見たあとに次の世界に行く。つまり、どちらを選んでも、次に進める。その世界の人間にとっては、生死に関わる選別でも、転移者である俺にとっては、どちらを選んでも結果は同じ」
柊の思考が、研ぎ澄まされていた。不安は依然として心を蝕んでいるが、論理的な部分は正常に機能していた。
「ならば、俺が滅ぼす側をもし選んでも、俺は何の罰も受けない。という事になる」
「……」
クロウは答えなかった。その沈黙が、全てを物語っていた。
柊は眼鏡をかけ直した。もう一度。何度も。その動作は、今や彼の思考の一部になっていた。
「クロウさん。お願いします」
丁寧な口調で、柊は言った。
「この世界について、教えてもらえますか?」
クロウの唇が、かすかに動いた。冷笑か、それとも別の感情か。
「いいだろう。お前が知るべきことを、全部教えてやる」
男は窓の外を指差した。朱く染まった街。その遠くに、白い塔が見えた。
「この世界の名前は『グレイシア』。この国は『聖光教国セリアス』。そして、その塔の中にいる女が、この世界を統治してる」
「女性ですか」
「そうだ。セリア・ルミナスという名の、銀髪の聖職者だ。この世界の秩序を守るために、全力で戦ってる」
クロウの声に、微かな感情が混ざっていた。敵意か、尊敬か。
「お前がこの世界で最初にやることは、その女に会うことだ」
「セリア、ですか。その人が、俺が滅ぼすか存続させるかを判断するのに、重要な人物だという事ですね」
「そういうこった。ただ……」
クロウの声が、低くなった。
「その女は、お前の『選別』という概念を、猛烈に拒否する。この世界の人間は誰もが平等に生きる権利があると主張してる。だから、お前がどう選ぼうが、その女は絶対に譲らない」
「なるほど。つまり、俺と彼女は対立軸にある、という事ですね」
「そういうこった」
柊はゆっくりと、思考を整理した。情報量が多すぎる。だが、一つ一つ、論理的に処理していけば、状況は見えてくるはずだ。
自分は転移した。理由は、この世界『グレイシア』を存続させるか滅ぼすかを選別するため。その判断によって、次の世界に行く。その際、チートスキルをもらう。
感情共鳴魔法によって、自分は超人的な力を持つ。だが、それは感情の揺らぎに依存する。つまり、力を求めれば求めるほど、自分の精神は不安定になる。
セリアという女性が、この世界を統治している。彼女は、柊の選別という概念に反対する立場にある。
つまり、柊が世界を滅ぼそうと決めれば、セリアはそれに抵抗する。その抵抗を押し切るか、あるいは別の道を探すか。それが柊に与えられた問題なのだ。
「クロウさん。あなたはどちらだと思いますか?」
柊は尋ねた。
「この世界を、存続させるべきか、それとも滅ぼすべきか」
クロウは窓から目を離し、柊に向き直った。朱い逆光の中で、男の眼は深い。
「俺の意見か」
「はい」
「お前の選択で何人死ぬと思ってるんだ。世界全体?そんなもん、個人の悲しみの前には無意味だ」
クロウの言葉は、静かだった。だが、その言葉の奥には、何かしらの怒りが潜んでいるような気がした。
「でも、それでも生きていかなきゃならないんだよ、俺たちは」
個人の悲しみ。そして、それでも生きていく、という現実。
「なるほど。つまり、俺は……」
柊は眼鏡をかけ直した。今度は違う意図で。自分の目を隠すために。
「この世界に身を置いて、この世界の人間たちの悲しみを知る必要がある、という事ですね」
「そういうこった」
クロウが頷いた。
「さあ、行くぞ。セリアに会いに」
朱く染まった街へ。柊は、その男と一緒に部屋を出た。
天井の木目が、彼の視界から遠ざかっていく。そして、これからの物語が、ようやく始まろうとしていた。




