Chapter 3-(2) あの日の温もりを
みんなの楽しそうな声が聞こえる。それもそのはず、夏期講習という名目で行われていた授業は今日で最終日なのだ。実質、明日から本格的な夏休みとなる。もちろん宿題は多く課せられているのだが、遊ぶ時間がようやく確保できて肩の荷も下りるというものだろう。
そんな周囲の賑わいの中、悠馬は自席で学級日誌を書いていた。最後の日に日直が回ってきてしまい、仕事を終えてからではないと帰れない。ツキがないとも思えるが、逆に静かな教室は今の悠馬にとって心地よかった。他の生徒の笑顔は眩しくて、妙な劣等感に苛まれるからだ。
家族六人での集合を途中退席した悠馬は一日学校を休んだ。体調そのものが悪いわけではなかったが、結希に寝ているように言われたからである。拓斗や羽花にも心配をさせていたみたいで情けなかった。
そんな風に気持ちを負の方向へ押しやっていた昨日から一晩、ゆっくりしたおかげで少しは整理でき、こうして登校している。
教室に生徒はほとんど残っておらず、みんな夏休みの開幕の喜びを噛み締めているのだろう。
そんな中、たった一人、教室に残っている真菜が悠馬の元にやってきた。というのも、真菜と二人で日直だから当たり前ではあるのだが。
「宮葉君、風邪大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
「無理しないでね。ほら、夏風邪って長引くと面倒だし」
微笑んだ真菜は悠馬から離れてゴミ箱の整理を始めた。黒板などは悠馬が日誌を書いている間に真菜が掃除してくれて綺麗になっている。残す作業はゴミ捨てだけになっていた。
ゴミもこの夏期講習でかなり溜まっていて、女の子一人で持っていくにはさすがに重い量である。そう思った悠馬は筆箱を鞄に入れて手伝おうと立ち上がった。
しかしそのとき、悠馬の目に忘れていたものが飛び込んできた。鞄に付けているキーホルダーが筆箱を入れた反動で軽く揺れる。それはまだ拓斗も産まれていないころ、お父さんとお母さんと三人で出かけたときに買ってもらったキーホルダーだ。不格好な顔をした猫が描かれているもので、気持ち悪いと笑われたこともあったが、悠馬は捨てることはなかった。お父さんとお母さんから貰った大切なものだったから。
このキーホルダーを見ると、悠馬が小さかった頃のお父さんとこの前会ったばかりのお父さんとが重なる。
あの時は気づけなかったけど、おそらく悠馬は腹を立てていた。自分から家を出ておいて、また暮らそうと言い出したお父さんに、ただ怒りを覚えたのだ。全て自分の都合で動いて、自分の生活が安定し始めたら一緒に住もうとする。それを悠馬は自分勝手としか捉えられなかった。
でも、それ以上にあの場所にいられなかった理由。それはお父さんの不安そうな目だった。
悠馬の機嫌を伺う姿勢が何とも言えない歯がゆさを生み出し、終いには気持ち悪くなる。あのお父さんのお願いの仕方は、親子のそれではなかった。そこにはこれ以上ないほど希薄になった人との関係しかない。それが悠馬の心を襲った嘔吐感の正体だった。
悠馬は深く息を吐いてキーホルダーを外し、真菜に近づいた。
「こっちのゴミ袋は俺が持つよ」
そう言って燃えるゴミと燃えないゴミの袋を持つ。そして悠馬は燃えないゴミの袋にキーホルダーを入れようとした。たぶん、これを持っていても苦しくなるだけだ。それならばいっそ、捨ててしまった方が楽になれるかもしれない。自分から逃げ出せることを期待して、悠馬はゴミ袋に放ろうとする。
しかしその刹那、悠馬の手がガシッと真菜に握られた。驚いて真菜の顔を見ると、瞳を揺らしながらも真っ直ぐに悠馬の目を貫いていた。
「大切なものなんでしょ?」
「あの……手……」
と、悠馬が少し照れながら言うと、みるみるうちに真菜の顔は真っ赤に染まって行った。真菜は慌てて掴んでいた手を離して悠馬に背を向ける。
悠馬は突然のことに動悸を速めていたが、じんわりと温かくなった手に握られていたキーホルダーをもう一度見つめた。
(そうか、白花はあの時のこと……)
悠馬はキーホルダーを鞄に入れてゴミ袋を持ち上げた。
「……ゴミ捨て行こうか」
キーホルダーの入った鞄を見てホッとした真菜は頷いてゴミ袋を持ち上げた。
結局、運命は引き連れていけということなのだろうか。どちらにせよ、真菜には消してはいけないものを教えてくれた気がした。悠馬の心のどこにも、お父さんを完全に消し去りたい自分はいないということも。




