Chapter 1-(1) 憂いの夏
ミンミンゼミの鳴き声だけが響く静かな部屋の中。節約のためといって冷房は使わず、窓を開き扇風機だけで暑さを凌ごうとしたリビングで悠馬と結希は何をするでもなくボンヤリとしていた。
夏休みを迎えた悠馬たちは、ある悩み事で頭をいっぱいにしていた。それは家族全員が意識していることであるためか、しばらく会話もぎこちない。
羽花の運動会を終えた日のことだ。四人で晩御飯を食べるために街に出てレストランの前で待っていたとき、道路を挟んで反対側にいた三人家族。そのうちの母親が悠馬たちの母親、宮葉百合子であった。
実際に見るのは二年ぶりだった。遠くからではっきりとはしなかったが、身につけていたものや背丈、全てが悠馬たちの母親と合致している。
もしあの人が母親だったのなら、ある意味では拍子抜けだ。同じ街で出会うほどの距離に母親はいたなんて、悠馬たちの想像していた母親との距離よりもずっと近い。もっともっと、遠くへ行ってしまった存在だと悠馬たちは思っていた。
悠馬たちの気分が晴れないのは、母親がとにかく楽しそうな顔をしていたからだ。愛する旦那と子どもとの生活が充実していることが一目で分かった。
そしてそれは、悠馬たちが何年も見られず、ずっと見たいと思っていた母親の姿だった。それを今の旦那と子どもは簡単に引き出してしまったのだ。
自分だってあんな風だったのに。そんな嫉妬も虚しくあの日の夜空に消えてしまった。それがまた、心をきつく締め付ける。
「……お父さんとか、何してるんだろうな」
バラバラになった家族を途端に思い出すきっかけになった出来事を前に、悠馬の頭には父親の顔も浮かんでいた。
その悠馬の呟きに結希は返事をせず、手元の宿題を進めている。また、ミンミンゼミが激しく鳴き出した。
☆
「来たー! 図書館ー!」
「元気なのはいいけど、図書館では静かにな」
子どもというのは体力に底がないのだろうか。そんな愚痴を暑さにやられた拓斗は心で零した。既にお疲れモードの拓斗には目も呉れず、羽花は元気よく図書館に入っていく。
京安駅の出口のすぐ隣にある図書館は駅前ということもあって規模は大きく、蔵書の保管数も豊富だと評判が良い。そして今日は読み聞かせ会のイベントが目当てでやってきた。
羽花の暇つぶしと拓斗の受験勉強を兼ねた画期的な案だと喜んでいたのだが、夏の日差しに完全にやられてしまっていた。
「お兄ちゃん早く!」
しかし暑さなどものともしない羽花は、拓斗の疲労など知らずに入口で拓斗を催促する。拓斗は噴き出る汗を拭いながら、羽花ともに図書館に入った。
冷房の効いた館内はまさにオアシスだった。冷たい空気が労ってくれているように拓斗を癒していく。思わず小さな声が漏れてしまうほどには、この空気に和まされていた。
復活した拓斗は羽花とともに一階にある受付にやってきた。カウンターの奥に柔らかい笑みを浮かべる男性職員が名前を記入するように促す。
羽花は全部ひらがなで大きく書いていく。その下に控えめな字で拓斗も名前を記入した。
記入を確認した職員は「ごゆっくりどうぞ」と言い、その言葉と同時に羽花は嬉しそうに絵本のコーナーへ走って行った。確かに声も出していないし足音も立てていないのだが、何やら静かにするようにの意味を履き違えている気がする。
「宮葉……?」
羽花に注意をしようと拓斗が歩き出そうとした時だった。カウンターの職員が怪訝そうに拓斗たちが記入した名前を見ている。
ふと顔を上げた職員は焦ったように笑顔を作って小さくお辞儀をした。それに合わせて拓斗も軽く頭を下げる。しかし職員の笑顔は明らかに引き攣っていて、仕事中ということも忘れて焦燥感に駆られているように見えた。
「お兄ちゃん、早く!」
本日二度目の羽花の呼びかけに遅れて反応し、拓斗は羽花の元へとゆっくりと向かった。その間も、職員の悩ましい表情のまま、名前欄を見つめている。
拓斗は足を止めて、もう一度、気づかれないように職員の顔をしっかりと見た。初対面だと思っていたが、どこか既視感がある。白くて細身の男性はいかにも読書が好きそうだ。そして優しい笑顔からも温厚な性格が窺える。
――その人が、宮葉という名前に過剰に反応している。
「……羽花、ちょっとトイレ行ってくるわ」
「え? 家でしてきたのに?」
「ん、ちょっとお腹痛くなってしまったから。先に絵本探してきてくれ。周りの人に迷惑をかけないようにな」
「はーい。お兄ちゃんもお大事に!」
そう言って羽花は再び絵本コーナーへと行く。そして拓斗はトイレにはもちろん行かずにカウンターへと引き返した。なおも動揺している様子の職員に拓斗は迷わず声をかける。
「あの」
「え? あ、すみません。何かお探しですか?」
あくまでも拓斗を客として接する職員には申し訳ないが、拓斗は動じずに本題を問いだす。
「突然で失礼ですが、奥さんっていらっしゃいますか?」
「私ですか? ええ、妻がいますけど……」
「その、奥さんの名前って教えていただけませんか?」
「いや、プライベートなことですし……」
「――百合子、じゃありませんか?」
一切引く気のない拓斗に職員は押されるばかりだ。拓斗から出された名前には当然に反応している。それから諦めたように溜息を吐き、笑って拓斗と向き合った。今度の笑顔には動揺の色は見られない。
「やっぱり、あなたたちは百合子さんの前の旦那さんとのお子さんなんですね」
職員は名前記入用紙をカウンターに置いて、左胸に付けていた名札を拓斗に見せた。
「私は相田銀二と申します。妻の名前は……拓斗くんがおっしゃったとおり、百合子です」
「じゃあ、あなたが……」
「はい。百合子さんの再婚相手です」
職員――相田さんは話す度に頭を下げて、事実を口にした。不倫という形をとって母親と結婚しているのだから、拓斗と会うことが関係上、気まずいのはその態度から分かった。
それと同時に、物腰の低い接し方から、相田さんとなら上手くいくのも納得がいく。特に、身体的にも精神的にも追い詰められていたあの時期の母親にとって、相田さんの優しさは心の拠り所だっただろう。
羽花の運動会があった日から二ヵ月ほどが経っている。あのときに見た人は確かに相田さんだったのだ。ずっと家族四人が気にしていた存在である一人の相田さんが、今目の前にいる。
拓斗はカウンターに手をついて相田さんとの距離を詰めた。
「あの、母に会わせてもらえませんか?」
反射的に身を後退させた相田さんは紡ぎ出す言葉に困っていた。はっきりと承諾することもできず、でも断ることもできず、しばし沈黙が続く。
するとカウンターの後方にある事務室から相田さんを呼ぶ声がした。おそらく、これから始まる読み聞かせ会の直前準備に関することだろう。
相田さんはゆっくりと立ち上がり、カウンターにあったメモ用紙に手際よくローマ字を書き始めた。そしてそれを拓斗に手渡す。
「私のメールアドレスです。ここに連絡をください。今晩、妻に聞いてみて、折り返し連絡します」
そう言って逃げるように相田さんは奥の事務室へと姿を消した。
相手の気持ちも考えずに口走りすぎたかもと、拓斗は少し反省をしてメモを折りたたんでポケットに入れた。それでも一歩前進である。
お母さんに会えたら、四人の何かが変わるかもしれない。そう信じて拓斗は絵本コーナーに向けて踵を返した。




