Chapter 1-(2) 弱点
「それはまた答えづらいこと聞かれたな……」
白い照明に照らされたテーブルを悠馬、拓斗、結希は囲んでいた。時刻は二十二時。羽花はもう部屋に戻って穏やかな寝息を立てている。
そしてそのテーブルの上には『うんどうかいのおしらせ』と書かれたプリントが置かれている。
今日の保育園からの帰り道、羽花から聞かれたことは想像もしていなかった。これまで何も言ってこなかった羽花が、突然に問いだしたこと。どうして宮葉家には両親がいないのか。
その場は適当に濁そうと思ったのだが、悠馬は言葉が出てこなかった。悠馬を見つめる羽花の目に、何だか簡単に流していいことではないと教えられているように感じたからだ。
しかし、普通に考えれば気づけたはずのことだった。羽花はまだ五歳だ。そんな幼い子にとって、親がいないという特殊な状況を簡単に受け入れられるはずがない。
何も言ってこないからと悠馬たちは見過ごしていた。その自分の無神経さに嫌気が差す。
もしかしたら、迷惑をかけまいとして無理をしていたのかもしれない。その心の奥底で我慢をする羽花を想像すると胸が締め付けられた。
「これで何か言われたのかなあ」
結希はプリントを持ち上げて口をへの形にして眺めた。プリントに大きく記載してある親子競技の知らせ。今年から導入されるものだけに、親という言葉への注目度も大きかったのだろう。急にその単語に引っかかったのも、運動会のことが影響しているのかもしれない。
生きてはいるが、羽花の側に親はいない。これは何とかしてやりたくても簡単には変えられない事実だ。周りのみんなが親子で楽しく競技に参加する中、寂しく見るだけの運動会。想像するだけで寂しいものがある。
「……じゃあ、俺らが出るか」
結希からひょいとプリントを取り上げて拓斗が言った。
「親じゃなくても出られるの?」
「一応、年齢制限とか書いていないしな。俺たちの家族事情は保育園側も知ってるんだし、兄弟だからアウトってなこともしないだろう」
確かに、そんなところで差別をしてしまうと痛いのは保育園側だ。お兄さんに見せてという保母さんの言葉が、見に来てもらうためだけの意味とも考えにくい。
「とにかく、こんなことで羽花が落ち込むなんて嫌だしな」
「なに〜。拓斗お兄ちゃん、羽花に優しいね〜」
「うるさい」
「あう」
ニヤニヤと笑う結希を拓斗が軽くチョップした。こんな風なおふざけができるまでに拓斗は帰ってきたんだと思うと、悠馬も自然と笑みが零れていた。
それに拓斗の言っていることは尤もだ。悠馬も、そして結希も、この運動会の親子競技で羽花が思い詰める姿は見たくない。悠馬たちが参加したところで羽花の悩みが解決するとは考えにくかったが、ただ傍観するよりは幾分寂しさが紛れるはずだ。
「そうなると、出場競技を決めないとな」
悠馬は親子競技一覧に目を通した。親が参加できるのは二人三脚、親対抗徒競走、親子リレーの三種目だ。二人三脚は当然、親と子がペアとなって行う。親対抗徒競走は親同士が競うもので、かっこいいパパを見せるための競技だろう。そして親子リレーは親と子が交互にバトンを繋いでいく。
「あ〜、これは私が自動的に二人三脚っぽいね」
競技を見た結希が苦笑いで頬杖をついた。当たり前だが羽花と体格や歩幅が一番近いのは三人の中では結希である。そして性別や年齢の違いもあって悠馬と拓斗は結希より足が速い。そうなると自ずと二人三脚は誰が適しているかが見えた。
結希が二人三脚に出場することはあっさり決まり、残りは二つだ。どちらも走力を問われるものだが、徒競走の方が同時スタートということもあって差が顕著な競技と言えるだろう。
「なあ、俺が徒競走出ていい?」
その普通なら遠慮しそうな競技に拓斗が名乗りを上げた。お互いにリレーに出ようとして揉めるものかと思えば、予想に反して意見は分かれていた。
「もちろん。じゃあ俺が親子リレーってことで」
悠馬はプリントの下部に切り取り線で分けられていた申込用紙にそれぞれの名前を書いた。よく見れば園児との続柄を記入する欄もあり、兄弟が出ても問題はなさそうだ。
「よし、お兄ちゃんお姉ちゃんの羽花と運動会頑張るプログラム! 頑張るぞ!」
「名前長いな」
「本当だね」
「うるさい! 頑張るぞ!」
羽花を起こさないように小さく団結した兄と姉は、お知らせのプリントから申込用紙を切り離した。子どもながらに気を使っていた可愛い妹の心からの笑顔を取り戻すため、固い決心をしながら。
☆ ☆ ☆
翌日、昼休みを迎えた悠馬は教室の机で悩んでいた。あれから拓斗と結希と話し合った結果、羽花のために三人でこっそり練習をしようということになった。しかし運動会まではそれほど時間があるわけではなく、闇雲に走っていれば自然と速くなるというような期間は残されていない。そうなるとちょっとした走り方のコツなどを知りたいのだが、先生となる人が全く思いつかないのだ。
最初はミラアはどうだろうと考えた。足の速さは言うまでもなく、実力は疑いの余地がない。しかしミラアの足の速さは天性のものすぎて参考にならないだろう。それにミラアが誰かに指導するなんてことは想像できなかった。
どうしたものか、と悠馬は教室を出た。集団で昼御飯を食べに行く人たちとすれ違いながらトイレに向かう。
「ん?」
すると妙な臭いが悠馬の鼻を通った。トイレの嫌な臭いではなく、下手したらそれ以上に不可思議な悪臭だ。
「トイレより悪臭……てことは!」
悠馬はバッと後ろを振り返った。そこには悠馬の想定した通りの人物が立っていた。
「やっぱり汚田!」
「トイレより悪臭とか言ってんじゃねぇよ!」
しばらく姿を見ていなかったために気づくのが遅れたが、トイレ以上の悪臭を放つ人間などこの世に汚田しか存在しない。そして今日も元気にブサイクだ。
「こんなところで何してんの?」
「トイレの前なんだからトイレに行くに決まってるだろ!」
「え、トイレ行くの……?」
「何で汚いものを見る目なんだよ! トイレはみんな行くだろ!」
汚田くらいにもなるとトイレなど不要だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。そして補足すると汚いものを見る目なのは常にだ。
そんな風に挨拶がてらに会話をすると、やや不機嫌になりながら汚田はトイレに入って行った。あの不機嫌な顔は、好きな女の子の家に下着が干していなかったとき以来のものだ。
悠馬はトイレを後にして教室に戻ろうとした。久しぶりに見る汚田はなかなかに強烈で今も頭の中で回っている。
するとそこで悠馬はあることに気がついて歩んでいた足を止めた。あまりに崩れた顔面を見て咄嗟に思い出せなかったが、汚田は陸上部のエースだ。短距離走の実力は申し分ない。それに多少は生まれつきの才能があるにせよ、汚田はずっと陸上部で走りを磨いてきたのだ。ということは、走り方に関しては知識があると考えられた。
悠馬は再び回れ右をしてトイレの前に立った。すると更に変な臭いを纏った汚田が出てきた。
「汚田!」
「うお! 何だよ、まだいたのかよ」
「これといってお願いがあるんだ」
「お願い?」
悠馬からお願いなんて考えることもなかったのだろう。汚田は半目で悠馬を見ている。またろくでもないことに巻き込まれると疑っているような眼差しだ。
「今度、俺の妹が通っている保育園で運動会があるんだ。それで俺たち親子参加の競技に出るんだけど、走り方のコツとか教えてくれないか?」
「断る」
「え〜、なんでだよ」
「面倒だ。俺にだって練習がある。以上だ」
一方的に会話を切り上げて汚田は教室の方へ向かって行った。断るにしてももう少し言い方がありそうなものだったが、心を綺麗にする余裕がないと考えると自然と優しい気持ちになれた。
だが、今はそうやって諦めている場合ではない。陸上部の知り合いは汚田しかいないのだ。
「ふっ、使いたくはなかったが、あの力を解放するしかないか……」
悠馬は気持ち程度の腕まくりをして、汚田に聞こえるような声で言った。
「そっか、それは仕方ないな。悪かった、急なこと言って」
「ふん、分かればいいんだ」
「じゃあ、俺たちはミラアと練習するしかないな〜!」
「なん……だと……」
ミラアという単語が出た瞬間に汚田の足は止まった。汚田の中の緊急停止ボタンが押されて急ブレーキがかかったような強さだった。そして頭の中で華やかな光景が浮かんでくる。夕暮れの運動場で、悠馬にあれこれ言いながら、ミラアと楽しく放課後を過ごす。何と幸せな時間だろうか。
これを恋だと知っている汚田は、ここで退く男ではなかった。
「じゃあな、汚田……」
「仕方ないから付き合ってやろう」
汚田はガシッと悠馬の方を掴んだ。計画通りという悪い笑みと肩を触られて嫌な気持ちが混じって引き攣った笑顔になった悠馬だったが、これも羽花のためだ。無駄に回数を増やす心拍数を抑えるようにして悠馬は必死で取り繕った。
「そうか、ありがとう! じゃあ放課後に待ち合わせよう」
汚田は相変わらずミラアに弱い。これは今後も使えそうな手段だと悠馬は心の中で笑った。
そしていい加減、肩から手を離して欲しかった。




