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炎獄の娘(旧版)  作者: 青峰輝楽
第三部・七公裁判篇
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3-22・断たれた希望

「どけ、おまえたち。アトラウス・ルーンさまだぞ。御領主の名代であられる」

 警護団長のダリウスは大声でそう言って、下町の男達に通り道を開けさせた。名代、というのは別段任命されている訳ではなく、事実上そうなっているだけに過ぎず、金獅子の前で堂々と名乗るには支障のある事だが、アルマヴィラの下層の人々しかいないこの場では、威厳を持って皆を黙らせる大きな効果があった。

『あれがアトラウスさまか』

『ルーン家の濃い血を引いているのに、確かに俺たちと同じように黒髪黒目だな』

『まだ若いのにさすがに堂々としてなさる』

 人々は概ね、好意的にアトラウスを受け入れていた。これまで、ルーン家の黄金色をこそ、ルルアの娘の末裔と崇めてきた民であるが、その黄金色の筆頭であるルーン公爵の権威が失墜した今、高貴な生まれでありながら民と同じ色を持つアトラウスは、まるで次の支配者、この降って湧いた災厄からの救いの使者であるかのように感じられていた。

「あ、アトラウス卿!」

 ティラールは、アトラウスの姿を見てほっと胸を撫で下ろした。憎い恋敵であり、ローゼッタに対する仕打ちを聞いて以来人間的にも蔑視する相手ではあるが、生死がかかったこの場面での登場は、ヴィヴィの為にも救いの手だと思ったのである。

「ああ有り難い、アトラウス卿、この者たちは何を吹き込まれたか、わたしが下町の男を呪殺したなどと思い込み、わたしの身分を明らかにしてもまるで信じようとしないのです。挙げ句、このように年端もいかぬ少女に、わたしを庇ったからとひどい暴力を振るう始末で」

 ふらふらしながらティラールはアトラウスに歩み寄ろうとした。

 ……が。信じがたい事が起こった。かれが得られたのは、アトラウスの冷たい視線と言葉のみだったのである。

「私に近づくと、この警護団長がおまえを即座に叩き斬る。迂闊に近寄ったり、不審な動きをしない方が身の為だ」

 アトラウスの言葉が頭に染みこんでくるのに、ティラールは暫し時間を要した。叩き斬る……とはどういう意味だろう? バロック公の息子である、この自分を、アルマヴィラの警護団長が? 警護団長のダリウスとも、長逗留の間に顔見知りになっている。

「な、何を仰っているのか? わたしがまさか判らない筈がないでしょう、アトラウス卿。このように、暴力を受けてぼろぼろになってはいるが、わたしは間違いなくティラール・バロックですよ? まさかわたしが呪術を使って人を殺めるなどと、本気で思われている訳ではないでしょう?」

 ティラールは本当に訳がわからずに呆然としてアトラウスの無表情な顔を見つめた。何度も会話を交わした間柄であるのに、ぼろぼろの姿になっているからと言って見間違える事などあるだろうか? 呪術を使うと聞いて、目くらましで姿を変えていると思い込みでもしているのだろうか? 咄嗟にティラールの頭に浮かんだのはそれくらいだった。

「わたしは本物のティラールです。あなたの……許婚のユーリンダ姫にも声をかけて頂く……先日も、姫の所でお会いしたではありませんか!」

 こう言えば流石に判るに違いないと望みを持ってティラールは食い下がった。足元に倒れたヴィヴィの為にも、アトラウスの助けは絶対に必要である。だが、アトラウスの答えは、ティラールの希望を打ち砕くものであった。

「ティラール卿は先日イルランドへお帰りになった。従者の方に確かにそう聞いたのだ。こんな状勢のアルマヴィラにこれ以上滞在していても仕方がないと仰って、単独で先に発ってしまわれたと、知らせを頂いた。ご不在を盾に恐れ多くも宰相閣下のご子息の名を騙るとはとんでもない不届き者め。確かに顔は似ていなくはないが、おまえにはまるで大貴族の気品などない。痴れ者の呪術師め、この私の目が誤魔化せるとでも思ったか!」

「ザハド、ザハドがそんな事を! それは奴の虚言です。確かに奴とは袂を分かったが、わたしがユーリンダ姫を放ってイルランドへ帰る筈がないでしょう!」

「黙れ! 薄汚い呪術師の分際で私の許嫁の名を口にするなっ!」

 そう叫ぶなり、アトラウスは短剣の柄でティラールの頬を容赦なく打ち据えた。痛みと精神的な衝撃に、口もきけぬままティラールはヴィヴィの上に無様に仰向けにひっくり返った。うっ、とヴィヴィが微かに呻き声をあげる。周囲の男達は、やはりこいつはとんでもない奴だったと口々に言い合っている。ヴィヴィの薄いからだから伝わる熱が、絶望しかけたティラールの心を何とか奮い立たせる。こんな所で、誰もから誤解を受けたまま処刑されるなんてとんでもない事だ。ヴィヴィを惨めな境遇から救うと誓ったばかりであるのに、諦める訳にはいかない。

「ザハドと話をさせてくれ! 卿では話にならない事は解った。あいつならわたしを見紛う筈はない」

 なんとか体を起こすと、ティラールはアトラウスに懇願する。だがアトラウスは、

「貴様に何かを要求する権利などない。引っ立てて尋問の上、おまえが殺した男のあとを追う事になるだけだ」

 と言い放つ。そうして、周囲の男達が、デルスの仇だと騒いでいるうちに、ティラールの脇に膝をつき、血と泥がこびりついた焦茶色の髪を鷲掴みにして顔を寄せた。アトラウスの端正な唇が初めてくっきりといろを帯びた。酷薄な笑みを浮かべてアトラウスはティラールに囁きかけた。

「莫迦だな、本当におまえは莫迦だ。僕がおまえを見間違えていると本気で思っているのか?」

「な……なん……だって」

「ティラール・バロック、いや、今はもうバロックの名を捨てたんだったな。ただのティラール、ただの哀れで愚かな男に過ぎない」

 ティラールは総毛立つ。ようやくアトラウスの意図が少しだけ見えた。そうだ、この利口で人を騙すのが巧い男が、自分を見紛うなどあり得ようもない。解っていて……窮地に追い込もうとしている。

「わたしがバロックの名を捨てた事を聞いて、わたしにはもう何の力もないと思っているのか」

 それでもまだ、ティラールは抗う意志を捨てなかった。かれの誇りが諦める事を許さない。

「いくら家を出たからと言って、こんな扱いはわたしの父が許すまい。名を捨てても、わたしの身体に父の血が流れているのは事実なのだからな! 今のうちに謝罪しろ! ザハドを呼ばなくとも、金獅子の耳に入れば真偽を確かめに来る筈だ! そうすればおまえの悪意は明らかになる。穏やかでお優しい貴公子の化けの皮が剥がれる訳だ。おまえがこんな奴である事を、姫は知るべきだ!」

 その強気な言い返しに、ティラールの髪を掴んだアトラウスの手は一層力を込めてぐいと、身動きのとれないティラールの顔を引き上げた。深い闇の瞳と、翳りのない緑の瞳が激しく睨み合う。

「余計なお世話だ。今にそんな生意気な口はきけなくしてやる。金獅子だって? こんな下町の出来事にいちいち関心を持つものか。安心しろ、すぐに殺しはしない。処刑したように見せかけて、誰の目にも触れないところに移してまた話をしよう。もう少し、おまえに口のききようを覚えさせてからな。バロック公の息子をただ殺すだけでは勿体ない。昨夜は殺してしまってもいいと思ったが、こうなったからには使い道を考えよう。そして表向きは、おまえは旅の途中で事故死した事になるのさ」

「なぜ……なぜそんな事を。そんなにわたしが憎いのか。姫に言い寄る邪魔な人間だと……?」

「ユーリンダ? あれが僕以外の男になびく事などあり得ない事くらい判りきっている。別に何とも思っちゃいない」

「あれ、だと? おまえはいったい、女性をなんだと思っているんだ! しかも愛しい女性を……」

「そんな事を議論する気はない」

 そう言うと、アトラウスはあっさりと髪を掴んだ手を放した。がくっと垂れたティラールの顎は床に思い切りぶつかった。アトラウスは立ち上がる。

「さあ、こいつを運ぶんだ。妙な術を使えぬように頭まで何かで覆って縛り上げろ」

 すぐに、大きめの麻袋が運ばれてきて、男達が取り押さえたティラールの頭に被せようとする。その時ティラールは、ヴィヴィの事を思いだした。

「わかった、とりあえず降参する。だが、この娘を助けてやってくれないか。まだ子どもなのに悲惨な暮らしをしている。この娘の手当をして、保護が受けられるように……頼む、アトラウス卿!」

「下町の娘などに籠絡されるとはまた、愚かな奴……」

 嘲笑いながらアトラウスは初めて、倒れているヴィヴィを見た。

「ん……これは、『印なき者』なのか。ふぅん……初めて見た」

 呟き、急速に興味を持ったようだった。

「いいだろう、この娘も一緒に運べ」

 誰もアトラウスの命に逆らう者はいない。気を失ったまま男の一人に抱き上げられたヴィヴィがぴくりと動いたのを見たのを最後に、ティラールは意識を手放していった。


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