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葵の小さな小さな世界

 家に戻ってシャワーを浴びても、肩まで湯船に浸かっても、いつまでもクッキーの匂いが染み付いている気がする。

 ずっとモヤモヤと考え続けてしまうのは、咲さん……彼女が異質だからだ。わからないものだからだ。

 わからないことは、頭で考えていたってどうしようもない。わからないことは、観察するしかない。

 それは小学校の先生から教えてもらった対処法。

 だから翌日から私の『花守咲観察』が始まった。


 ……といっても大げさなものじゃない。気づかれないように、彼女の行動を見るだけだ。

(別に気になるわけじゃなくって……調べないと、対策もできないし……)

 心の中で言い訳して、私は彼女をじっと追い続ける。

(朝はいつも遅刻する。それに授業中はだいたい寝ている。そのくせ、あてられたら8割くらいはきちんと問題を解く……案外頭がいいのかも)

 私はノートにメモを取り、唇を尖らせる。

(……勉強、できるくせに、できないふりをしてるの?) 

 咲さんが一番得意なのは、意外なことに音楽だ。

 彼女が歌うとみんな、ぽかんと動きを止める。堂々と胸を張り、涼やかな声で彼女は歌う。

(特定の友達は……案外いないのかな? 誰か特定と仲が良いってわけじゃなさそう)

 休み時間はクラスメイトと交流することもあれば、寝ていることもある。

 ぼんやりと窓の外を眺めていることも多かった。

 仲良くするメンバーは気まぐれに変わる。さっきまで仲良く話していたと思うと、もう離れていく。相手が近づいてきても、気分じゃなければ自然に離れていく。

(ふうん……そんなに仲いい子、いないのか)

 なぜか心の奥底に温かいものが広がり、私は慌てて教科書で顔を隠す。

 ……いけない安堵感だ。なぜそんなことで安堵してしまうのか、自分自身が分からなくて混乱する。

 私の混乱なんて気づきもせず、咲さんはまた気まぐれに別の女子の輪に加わる。それを私は名前のつかない感情を押さえたまま見る羽目になった。


 そして放課後。

 座学の時間になると、彼女は当たり前のような顔をして私のとなりにべったりと座る。

「葵、お菓子あるよ。食べよ」

「いらない。座学ちゃんと聞いて」

 言い返しながら、私は秘密のノートをカバンの奥深くに突っ込んだ。

 花守咲、花守、金髪、ミニスカート。そんな言葉がぎっちりとノートに埋め尽くされている。

 こんなもの見られたら、もう二度と彼女の顔も見られない。

「じゃあジュースは?」

「ちゃんと、真面目にして。あとにして」

 ……観察している私に気づいているのかいないのか、彼女は驚くくらい自由奔放だ。

「はいはい、ふたりとも。お菓子の話よりこっちに集中」

 ぱんぱんと手を叩く音が聞こえ、私は思わず背をただした。

 もう数回目になる座学の時間。季節は夏が終わって秋に入った。

 吹き付ける風は冷たくなり、朝と夜は寒いほどだ。

 咲さんはずっと長袖なので変化はないが、学校は衣替えとなり、ジャケットは分厚くブラウスも長袖になった。

 白いブラウスには襟元に桜の花の刺繍が縫い込まれ、それが少し可愛かった。

「えー。葵のためにお菓子いっぱい持ってきたのに」

「勝手なことしないで、咲さん……それに黙って、授業!」

 今日も私たちは相変わらず家庭科室の隅っこにいる。ふたり並んで座学を受けるのも、もう慣れっこになっていた。

 同時に、黒板に書かれる文字の量も少なくなってきている。

 町の歴史、桜虫の歴史、時折挟み込まれる学校の歴史。

 そんなものはとうの昔に学び終え、あとは先生による雑談だけだ。

 それでも私は真面目に真剣に耳を傾ける。

 この儀式を行うのは虫憑きとなった以上、義務だ。

 そう思えば、座学も無駄ではないと思える。

「花守さん、そのとおりよ。お菓子持ってくるのは校則違反」

 里村先生は困ったようにほほえむが、強くは止めない。

 そんな里村先生を見上げて、咲さんは満面の笑みを浮かべるのだ。

「先生も食べて一緒に校則違反しようよ」

「仕方ないわねえ」

 里村先生は咲さんの開けたスナック菓子を一つだけ口に投げ込み、そしてゆっくり笑った。

「……じゃあ、生活指導の先生には内緒にしておいてあげる。でもちゃんと座学は受けてね」

 里村先生がゆっくりと本のページを捲る。そのかすれた音が広々とした部屋に響く。

 家庭科室はキッチンも備え付けられているので、他の教室よりずっと広い。天井もすこし高く、シンクに声が響いてゆっくり広がる。

 こんな特別授業の雰囲気が不思議と似合う空間だった。 

「ええと、どこまで話したかしら。そうそう、虫送りの模擬の前までお話したわね」

 毎日少しずつめくっていたそのテキストも、もう少しでおしまいだ。

「あと2ヵ月……12月の終わり頃。森の神社で模擬があります」

 森の神社。と彼女は言いながら窓の外を見る。

 学校の運動場を抜けてまだ向こう、山に続く道がある。

 その途中にこんもりと盛り上がっている木々の塊。その中には小さな神社があった。

 夏祭り、秋祭り、初詣。そんなときには人で賑わうらしい。しかし段はほとんど人のいない神社だ。

 私も散策ついでに一回だけ立ち寄ったことがある。

 長い参道には延々と苔むした灯籠が立っているだけ。入り口から本殿まで一キロほどあるという。

 参道の左右に植えられた木は枝葉が立派で、昼でも暗い。

 だから私は奥まで入ったことがない。

 しかし、その場所で数カ月後、桜虫送りの模擬練習が行われるという。

 先生は「ただ歩くだけだ」というが、儀式は夜。

 その闇を思うと、私の心は重く濁る。

「そこに、合宿先でお世話になる先生も来るので失礼のないように。この間も言ったけど、満月先生、というの」

「やっぱり変な名前ー」

 里村先生はその名を大事そうに呼んだが、咲さんはケタケタと笑う。

 その声を聞いても里村先生は怒らない。

 まるで小さな子を眺めるように、二人を見つめるのだ。

「きっと会えば分かるわ。とてもいい方だから」

「ねー。模擬なんて先の話じゃん。今はもっとお菓子食べよ。せんせーも。開けちゃったから湿気っちゃう」

 未来を思ってすくむ私に反して、咲さんはのんきだった。机の上にチョコレート、スナック菓子。そんなものを広げてだらしなく机を揺らすのだ。

 それを見て、里村先生もつられるように笑った。

「花守さんは仕方ないわねえ」

「葵はこっち。めちゃ辛だよ」

 投げられたのは、個包装になったスナック菓子。私はそれをきゅっと握りしめポケットにねじ込む。

「晩ごはんの……前だから」

「育ち盛りだからだいじょーぶだって」

 咲さんは悩みもない顔でけらけら笑う。そのたびに楽しそうに虫が飛ぶ。私の虫もつられるように、舞い上がる。

 二人分の桜虫が舞い上がれば、教室は一段と明るくなった。

 いや、それは桜虫の色ではない。

(……ああ、もう、こんな時間なんだ)

 とろけるような夕日の色が窓から忍び込んだのだ。

 秋の夜は早い。夕陽の周囲はもう薄暗い。大きな筆でなでつけたように、空は紺の色に染まりつつある。

 私はテキストを握りしめたまま、咲さんを見つめた。

 彼女は残ったお菓子を食べきろうとして、袋を無理やりこじ開けている。

 乱暴に開けるものだから、ぼろぼろとこぼれるスナック菓子を見て、里村先生が笑い、慌ててティッシュを取りに走る。

 咲さんを心配するように桜虫が飛んで、床にピンクの色を撒き散らす。

 その桜虫を里村先生が羨ましそうに見つめ、咲さんが何か冗談を言って笑い声が上がる。

 たった3人しかいないこの家庭科室が、なぜか温かな空間に思えた。

 私は夜が嫌いだ。闇が嫌いだ。いつもなら夕陽に染まる空は私を憂鬱にするはずだった。

 しかし今、なぜか恐怖も憂鬱も消えている。

(……なんでだろう、楽しい)

 ほわりと浮かんだ心の不思議な温度に戸惑うように、私は静かに胸を押さえた。



「ただいま」

 そしてその温度は、家に一歩入った瞬間、急下降することとなる。

「おかえりなさい。葵ちゃん、今日も……虫の座学?」

 荷物をおいてキッチンに向かうと、叔母さんが晩御飯を作っていた。

 珍しく早めに仕事を終えた叔父さんもテーブルについている。彼は細い目をしょぼしょぼとあげて私を見つめて微笑んだ。

 配膳を手伝いながら私は小さく頷く。

「はい。12月に模擬の練習があるらしいです。それで来年に入ったら……」

「あら。この間言ってた……合宿の話?」

 まあ。と叔母さんは高い声でわざとらしいため息を漏らす。

「困るわねえ。どうにかならないの、それ。一ヶ月とか、そんな長い時間。お勉強が遅れたりしない?」

「……もう決まってることみたいで」

「通いっていうのは、駄目なの? その合宿って。週末だけとか、ねえ。あなた。週末だけなら送っていけるわよね」

「ああ、それくらいなら……そうだな」

 机の上に並んだのは、焼き魚に、さつまいもの甘露煮。味噌汁、甘い卵焼き。

 いただきます。と手を合わせると、窓を叩く雨の音が聞こえた。

 合宿が行われる場所は、遠い山だと聞いている。

 この町を走る電車の、終着駅から車でまだ先の先。

 東京からは特急に乗れば3時間半程度だ。

 しかし、私たちの住むこの町からだと、一駅一駅刻むように進むため時間がかかるのだ。と、里村先生が言っていた。

 山の中はここよりずっと寒くて暗いだろう。そう思うと、今から心が打ち沈む。

 叔母さんがその合宿を歓迎していないことも、心を重くさせる原因の一つだ。

「週末だけとか、駄目みたいなんです、みんな、やってることで」

 みんな。に私は特に力を込めて言った。

 普通は一週間か2~3日程度の合宿らしい……里村先生から聞いたこのことは、伏せておく。

 なぜ私たちだけが一ヶ月も拘束されるのか。その理由は里村先生にも分からないようだった。

「木に返すっていうのもねえ。変な話よねえ。誰かが車でぱっと運べばいいだけなのに」

 叔母さんは口をとがらせて言う。その言葉の一つ一つがナイフのように、私の心をえぐった。

(……家に帰るんだから、仕方がないじゃない)

 私は甘い食事を咀嚼しながら桜虫を見る。

 叔母さんが話しかけてくるとき、桜虫たちは私の首筋や頬の周囲を飛び回るのが常だった。

 まるで守ろうとしてくれている、そんな態度に見えた。

(やっぱり、そうだ)

 髪をかきあげるふりをして、私は桜虫にそっと触れる。

 私が困っている時や悲しんでいる時、彼らはいつもより激しく飛び回る。

 そして私が落ち着いている時は、まるで眠るように動かない。

 どうやら光の粒にしか見えない彼らにも、感情があるようだ。

 しかし里村先生が言うには、この桜虫は年寄りだという。木から生まれた桜虫は、世界のあちこちをめぐる。

 そして最後の時をふるさとの木で過ごすために、女の子に憑いて帰省のための旅をする。

(この子たち……故郷と、家があるんだ)

 私は虫を見つめ、目を細めた。

 私には故郷も家もない。

「この虫を……ちゃんと返すこと、みんなが期待してるから」

「……まあ怖い」

 ようやく絞り出した言葉だが、叔母さんはもう私の言葉なんて聞いてもいない。

 彼女が反応したのは、テレビ画面だ。叔父さんは叔母さんの気まぐれに慣れているのか、焼き魚をほぐすことに必死である。

「いじめなんて、巻き込まれないでちょうだいね。葵ちゃんはいいこだから、問題ないと思うけど」

 ニュース画面で取り上げられていたのは、学校いじめの現実。という特集だった。顔をモザイクにかけられた女子高生たちが電子音の声で何かを語っている。

 白々しいそのテロップを冷たく見つめ、叔母さんは怖い怖い。と大げさに騒ぐ。

「あ、ほら。葵ちゃん、ほら。お芋、煮たのも食べなさい。女の子はお芋が好きでしょ」

「はい、大好きです」

 にこりと、笑って甘い芋を口に含む。笑顔は得意だ。悲しいときでも怒っていても、笑顔は簡単に浮かぶ。

 ……無理矢理笑っていて楽しい?

 と、いつか咲さんは私にそういった。その言葉を不意に思い出して、お腹の底がチクリと痛む。

(味がしない)

 こってりと甘く煮詰められた芋を口にしても、不思議と味がしなかった。

 それよりも、薄暗い部屋で食べたクッキーの味のほうが、もっと濃かったように思える。

 最近、私の仮面が外れているようだ。あれほど強固だった私の精神はここ数ヶ月、微妙に揺れている。

 それもこれも桜虫が憑いてからのこと。

(早く、終わらせなくちゃ)

 合宿が終われば、春が来れば……全てから開放されるのだ。

 二人の授業もクラスメイトの羨望からも、何もかも。

(早く、春が来ればいいのに)

 春が来れば、私は再び真面目で優等生で目立たない女子生徒になる。

 咲さんはクラスの人気者のまま、私たちをつなぐものはなくなるのだ。

 そして私たちは最初のように、クラスの中で離れ離れになる。

 こつん、と桜虫が私の頭をつつく。

 それでいいのか。そんな声が聞こえた気がした。

(それで、いいに決まってる……早く春が……)

 急に感じた理由のない恐怖に私の膝が小さく震える。

 その震えのわけを今は考えないことにして、私は甘い芋をぐっと噛み締めた。

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