咲と葵とクッキー缶
授業は嫌になるほどいつも通りにはじまった。
ここで何が起きたのか知らない先生は、いつもと同じ調子で歴史を語る。
いざこざを目撃していたクラスメイトも、あの三人組さえも、何もなかったような顔をして呑気にあくびを噛み殺している。
カーテンが秋めいた風ではためいて、ノートのめくれる音がする。
全部、なにもかも、いつも通りだ。
私一人だけが、ただ一人。痛いくらいに手のひらを握りしめている……それ以外は。
丸文字で書かれた小さなメモ帳が私の腕に当たったのは、そんないたたまれない授業中のことだった。
腕に当たって落ちたのは、ハート型に器用にたたまれた小さなメモ帳。
名前は書いていないが、手紙が飛んできたのは斜め後ろの席から。
いつもなら、きっと無視をした。しかし私はメモ帳を見つめ、解きかけ、諦め、何度も何度も握りしめる。
指先がようやくハート型を崩したのは、授業が終わる5分前のことだった。
『本返す。帰り裏門で』
中に書かれた丸文字に、私は唇を噛み締める。
それは、座学で何度も見た咲さんの文字だ。
(……勝手に入って来たくせに。助けてなんて言ってないのに、私が可哀想な子みたいに思われるじゃない。私は平気だったのに)
本当はこんなメモ帳、くちゃくちゃにして投げ捨ててしまいたい。別に助けなんて求めていなかった。あんな三人の戯言なんて、無視してもよかったのだ。
メモを潰しかけて、私は慌てて紙を綺麗に伸ばす。少なくとも、このメモ帳に罪はない。
無視して、家に帰ろう。そう思っていたのに、授業のチャイムと同時に私の足は裏門に向かっていく。
(……だって……本、返してもらわなきゃ)
「葵ぃ、こっちこっち」
薄暗い裏校門前で飛び跳ねる咲さんを見つけ、私は足を止めた。距離は、数メートル。
「遠い遠い~葵」
でも彼女はそんなこと、気にもせずに一気に距離を詰めてくる。
「手紙折るの、ちょーひさびさ。あたしさ、昔はいろんな折り方できたのに、全部忘れちった」
そこは田んぼにつながる小さな校門。普段はあまり使われていない裏門だ。
先生用の自転車置き場の壁に阻まれて、下校時間には通りかかる生徒もほとんどいない。
「ま、とりあえず外出よっか、葵。ここじゃ暗いし」
咲さんはまるで飛び跳ねるように、大股で校門をくぐっていく。その向こうは、田んぼが広がっていて、風が稲穂の上を通り過ぎる。
稲穂と同じ色の髪の毛を風になびかせて、咲さんは無邪気な顔で私を見た。
「ほら、こっちこっち」
(お礼……ちゃんとお礼……言わなきゃ)
私は咲さんを見つめたまま、拳を握りしめる。
お礼、という言葉を思い浮かべるだけで心の中がどろりと熱を持つようだ。
咲さんは私を助けるために、本を取り返してくれた。
例え、それが私自身望んでいないことだとしても。
(お礼をちゃんと言って、それで……)
まるで虫が応援するように、私の耳元をやかましく飛び回る。
(感情整えて、声出して、できるじゃない。いつも、やってることじゃない。叔母さんにも叔父さんにも、うまく言えるじゃない。助けてくれてありがとう。それだけじゃない)
今日は一日、針のむしろだった。
クラスメイトはどこか遠慮がちで、三人の肉食獣は私を憎らしそうに睨んでくるばかり。
しかし三人がそれ以上こちらにに向かってくることはなかった。
それは咲さんのおかげだ。それだけは確実だ。だから、私はお礼を言う義務がある。
「あの、花……さ……咲さん、あのね……」
前を行く咲さんを追いかけながら、私はかすれる声をあげる。
しかし、咲さんは私の声も聞こえなかったように、黄金色に輝く田んぼを見つめていた。
「ほら、見て葵。田んぼ、めっちゃきれー」
ライオンのたてがみみたいに揺れる稲に赤いトンボ。
雲の隙間から漏れた夕陽の光が、グラデーションみたいに田んぼに降り注ぐ。
私も思わず、その風景に見とれてしまった。
「葵って東京生まれ東京育ちだったっけ。田んぼとか、珍しい感じ?」
咲さんの言葉で、私は久々に東京のことを思い出す。家庭菜園は見たことあるけれど、こんなに見渡す限りの黄金色に染まる風景は初めてだった。
「……住んでた所には……なかったかも」
「そっかあ、あたし昔住んでたとこ、前後左右ぜ~んぶ田んぼでさ。虫は出るし夏はカエルでうるさいしで、ちっとも良いことなかったけど」
風がひゅうひゅうと吹いている。
重い稲穂が頭を下げて揺れている。耐えしのぶようなその姿がまるで自分自身のようで、私は思わず目をそらす……しかし。
「みて、ピンクに照らされたらめっちゃ綺麗。あたしの髪っぽくね?」
咲さんは稲穂に近づいて腕を伸ばした。その指先に、桜虫が遊ぶように飛ぶ。
すると、稲穂が虫に照らされ淡いピンク色に染まった。周囲が薄暗いので余計によくわかる。
そこだけ春が来たように、温かい。
私の桜虫はそれを見たように興奮して跳ね上がる。その勢いに押されるように私もおずおずと腕を伸ばした。
桜虫は肩から腕へ。滑るように降りて、稲穂の周囲を楽しそうに遊ぶのだ。
「虫憑いて、一番ラッキーって思ったな、今」
気がつくと私は咲さんの左肩にもたれかかるように、立っていた。服越しに伝わる熱に、私は慌てて身をそらす。
(お礼、早く。助けてくれてありがとうって……? 助けてなんていらなかったのに……いや、そうじゃなくって……)
「夏も終わっちゃうね~。秋になったらさ、神社でお祭りするんだあ。葵も一緒に行こうよ。ベビーカステラ食べたりさ。結構美味しいんだよ」
私の気持ちなど気づきもしない咲さんは、呑気に伸びをした。
彼女が左右に揺れるたび、金髪も桜虫も揺れる。
呑気で、呑気で……いやになる。
思わず漏れそうになる余計な一言を、私はくっと飲み込んだ。
(なんで、咲さんの前だと我慢できないんだろう。なんで笑顔になれないんだろう)
叔父夫婦に引き取られたあの瞬間から、私の仮面は完璧だった。
だというのに、咲さんの前に立つと子供のように感情が剥き出しになってしまう。
咲さんは、あまりに異質すぎるのだ。
「ね、葵」
うつむく私の顔を、咲さんがひょこっと覗き込んだ。金色の髪が目の前に広がって、稲穂の色と重なる。
「雨降りそうだね」
彼女は曇った空を見上げて、呑気にいった。
その言葉のとおり、空気はどんよりと重い。黒い雲が重なって浮かんでいる。
飛び回る桜虫だけがまぶしいくらい、明るかった。
「あ、やべ、ほんとに雨じゃん。これ、きつくなるやつ」
彼女がそういった瞬間、地面に大きな染みが一粒落ちる。それを見て、咲さんの足が大きく足踏みを始めた。
「大雨の匂い! めっちゃ降るよこれ」
「雨の……匂い?」
「するじゃん、ツンって酸っぱいの」
地面に落ちた雨粒の跡はあっという間に2つ3つと広がって、咲さんの言う通りあっという間に大雨となった。
「葵。こっち。あたしん家、近いから、来て」
咲さんは迷わず私の手を引っ張って、あぜ道を駆け出す。
答える暇さえ与えてくれない。
地面はどんどんと黒く染まっていく。夏も終わるというのに急な夕立だ。最近は年々、雨が強くなる。
田んぼにはあっという間に水がたまり、黄金の稲穂が水を受けて激しく揺れた。
雨に濡れた地面は一気に湿り、水たまりがあちこちにできあがる。大きな粒が跳ね上がり、スカートをびしゃびしゃに濡らした。
「あとでタオル貸したげるから、だーいじょうぶ!」
そんなことも気にせず、咲さんは走る、走る。引っ張られるように私も走る、走る。
鞄の中で跳ね上がる弁当箱の音と、雨を弾く音、二人の上がる息だけが響く。
やがて……たどり着いたのは、古い一軒家だ。
表札には「花守」と古めかしい文字で書かれていた。
「さいっあく。ちょっとの間なのに、めっちゃ濡れた。タオルとってくる。まってて」
引き戸の玄関を足で開き、咲さんは私を中に押しこんだ。
そしてさっさと中に飛び込んでいく。
薄暗くて、木の香りのする家だ。外と違って静まり返った室内には、咲さんの足音だけがうるさかった。
今は誰もいないのか、人の気配はない。
小さな靴箱、綺麗に整えられた廊下。古く見えるが、清潔な室内。
玄関には小さな御札が飾られている。火災除け。と書かれたどこかの神社のお札だ。
寂しく香りもない。寒々しい家である。
(……靴、少ない)
ふと三和土を見て私は首を傾げた。そこにあるのは咲さんが脱ぎ散らかした革靴と、彼女のものと思われる使い古しのシューズの2足だけ。
古い靴箱の中に家族の靴が入っているのだろうか。
そんなことを考えた瞬間、廊下の向こうからまた足音が響き私は慌てて視線を落とす。
「体拭いたら中きて。雨止むまで家にいていいからさ」
タオルを私に投げながら、咲さんが手招きした。すでにブラウスを脱いでラフなシャツにかわっている。
「あの、家族の人」
「あーいないから、気にしないで勝手に上がって」
咲さんは自然な様子で右袖をぐっと伸ばして腕を隠した。
その姿を見て、私の中にまた疑問視が一つ浮かんだ。
よく考えてみれば、夏でも彼女は長袖にこだわっていた。左腕はまくり上げるくせに、右腕だけは頑なに下ろしたままだ。
今も、右腕だけ不自然に隠している。
しかし、それ以上の詮索はせず、私は靴を脱いで玄関を上がった。
興味がないわけではない。しかし、相手を探ればこちらも探られる。
……どろどろとした私の感情は、誰にも知られてはいけない。
「こっちねー。台所」
しかし咲さんはそんな私の覚悟にも気づかず、呑気に廊下をスキップしながら進む。
玄関から台所までは廊下で一本道。途中に襖が一つ。
薄く開いたその向こうは仏間のようだ。黒い仏壇の前には、写真が数枚、並んでいるようだった。
(……誰もいない)
咲さんの言う通り、家の人はだれもいない。
普通に考えれば家族の人は仕事中だろう。しかし、それにしては生活感がなさすぎる。
廊下にも部屋にも、ものが散らばっている気配がない。
(ああ……ものが、少なすぎるんだ)
叔父夫婦の家には、叔母さんの趣味だというフランス製の雑貨があふれている。
籐籠にはたっぷりのポプリ。机の上には刺繍付きのテーブルクロス。猫脚の小物入れにレースの飾り。
机の上には、叔父さんが仕事で使う書類がいつも山のように積み上がっている。
しかし、この家にあるのは生きていくのに最低限必要なものばかり。
薄暗い廊下をまっすぐ抜けると、そこは台所だ。中に入って私は「おや」と眉を寄せた。
しかし顔には出さない。
自然に横目だけでキッチンを見る……そこは玄関よりもずっと綺麗だった。
コンロのあるべき場所に、コンロがない。コンロが収まるべき銀色のスペースには、調味料とインスタントやお菓子だけが並んでいる。
コンロがないので鍋もない。だから調理道具も一つもない。
叔母さんの家には、鍋や調理道具、食材が山のように積まれている。母もそうだったと記憶している。
しかしここには、なにもない。
思い出したのは咲さんの弁当箱だ。冷凍食品だけで構成された、アルミホイルのお弁当。
あのとき食べた唐揚げは、濃くて甘い味がした。
そして彼女の言う通り、キッチンにはアルミホイルが転がっている。流しに出された食器類は一組だけ。ここも生活感がない。
何より、この家は咲さん以外の気配がない。
「あの、咲さん……」
「はい。本」
台所の小さな椅子に恐る恐る腰を下ろすと、咲さんが私の前に一冊の本を置いた。
それは私の宝物だ。
表紙は情熱的な赤のドレス。1ページ目は淡い紅色の、ウエディングドレス。
大きく膨らんだドレスが色彩をまとってふんわりと広がっている。
それを見て、私はやっと息ができたようにほっと胸をなで下ろした。
「あ、本……」
「本、制服ん中入れてたから、濡れてないと思うけど……折れてないよね。ちょっと見ていい?」
咲さんは私の答えを待たずに本をめくり、少しだけ微笑んだ。
二人の桜虫は本の上で逢瀬を楽しむように飛び回り、絡み合い、楽しそうにダンスを踊った。
見知らぬ薄暗い家。自分の宝であるドレスの本を苦手な女子に読まれ、その上を桜虫が飛び回る。
聞こえるのは雨の音、蛇口から漏れる水の音に……冷蔵庫が唸る音。
まるで現実味がない。
私といえば、ぎゅっと拳を握りしめたまま、その風景を見つめている。
「綺麗……すごいね。どったの、この本」
「……古本屋で買ったの。別に……放って置いてくれてよかったんだけど……ううん。ごめん、面倒なこと、巻き込んで……というより」
本を取り返すと、私は大急ぎでかばんにしまい込む。
あるべき場所に収まった途端、ほっと心が軽くなる。そしてようやく手が震えた。咲さんに気づかれないように手を押さえ、深呼吸を深く一回。
「……咲さん。なんで、家に入れたの。私のこと」
「え、だって雨じゃん」
「傘貸すとか、そういうこともできたわけだし」
「んー……気分?」
咲さんは足を組んだまま、姿勢も悪く天井を見上げた。たしかに彼女は、気分の赴くままに生きている。
「それと咲さん、なんでさっき」
「助けたって?」
私の言葉に、咲さんがにっと笑った。
台所は薄暗く、窓を叩く雨の音がうるさいほどだ。
灰色に染まる窓ガラスには、雨だれが滝のように広がっていた。
どろどろに揺れる窓を見つめながら、咲さんがだらしなく足を組みなおす。
「……むかつくから。だってさ。好きなもん、馬鹿にされんのって腹たつじゃん?」
「好きとか……じゃないけど、あ、の……べつに助けてもらわなくても」
「あたしさあ、自分じゃ一番金髪が似合うと思ってるのね」
咲さんは私の言葉を遮り、濡れそぼった髪を一束、握る。
薄暗い室内で金髪の輝きが美しかった。その髪に戯れるように桜虫が飛びつく。
金の色にピンクの色が透けるとドレスのドレープのようで、私は思わず見惚れてしまう。
「それに、足も。形がすき。隠すより出すほうがテンションあがるっしょ」
濡れたスカートから出ているのは、真っ白で長い足だ。咲さんは背が高い。足の長さも、クラスでも群を抜いている。
彼女はそんな足をむき出しにして廊下を歩く。クラスメイトの羨望の目線をまともに受けながら。
「あたし。好きなもん、けなされんの一番キライなの」
りん、とどこかで音がなった。
「待って、電話だ」
それは台所の棚の上にある、黒くて重い電話だ。
飾りがついた携帯電話の方が似合う咲さんの指に、黒くて重い受話器が握られるのは不思議な感じだった。
「……おじいちゃん、大丈夫だよ。いまさ、友達きてんの」
咲さんは耳に受話器を押し当てて、くすぐったそうに笑う。
「えー。まじまじ。本気の本気。ほんとだって。もう切るよ。またかけるし。ちゃんと看護師さんの言うこと聞かなきゃ駄目だよ。ご飯も全部食べないと、もったいないお化けがでるんだからね」
咲さんは明るい声でそう言って、あと一言二言、なにか語りかけ、やがて受話器をおく。
ちん、と明るい音が室内に響く。
あとに残ったのは、雨の音だけだ。
「おじいちゃん。入院してんだよね」
「……病気?」
言いかけ、私は慌てて口をつぐむ。あまりに不躾で失礼な言い方だ。
彼女が相手だと、なぜか言葉が素直に漏れそうになり危ない。虫のせいだろうか、と私は肩の上で踊る桜虫を睨んだ。
「ごめん。なんでもない」
「いいよ、聞いても。がんなんだって。胃の」
しかし彼女はあっさりとしたもので、何事もないような顔で椅子に座り直すとあぐらをかく。
その姿を見て、私はぽかんと口を開けた。
顔色が変わった私に気づいたのか、咲さんが苦笑する。
「大丈夫だって。年寄りだから、治らない代わりになかなか悪くならないんだ。だから今すぐどうこうってわけじゃないし。びょーきとお付き合い? していくしかないんだって。手術はもう無理だけどね。悪くなったら入院して、良くなったら戻ってくんの。その繰り返し」
お爺さん。と、私は乾いた口の中でつぶやく。
確かにここにはお年寄りの香りがする。
幼い頃に行った祖父母の家はこんな、少し乾いた香りがした。
そうだ。ここの家には若い香りがあまりしない。お母さんとお父さん。そんな香りがしない。
両親は、と言いかけてまた私は押し黙る。
学校の外階段で「お母さんはいない」と私が口を滑らせた時、あたしも。と彼女は何気なく返していたではないか。
家庭環境が複雑なのは、なにも私だけではないのかもしれない。
「あ、そうだ。人が来たらさ、お菓子とお茶出さなきゃだ」
しかし咲さんといえば何も気づかない顔で、ぴょんと立ち上がった。
右腕の袖を器用に押さえたまま彼女は棚を漁る。
「クッキーたべよ。お中元でもらったのあるから」
やがて咲さんが取り上げたのは、大きなクッキーの缶。アンティークな赤茶色の缶には、ドレス姿の少女が描かれている。
表についている熨斗を乱雑に破り捨て蓋を開くと、甘く乾いた香りが室内に広がる。
覗き込めば、上には半透明のぷちぷちの蓋。それを取り払えば、きっちりと寸分の隙間なくクッキーが詰まっていた。
四角いクッキー、アーモンドが載せられたクッキー、ジャムが挟まったもの、薄く薄く焼き上げられたもの……。
(クッキー、あんまり好きじゃないけど)
私はその言葉も飲み込んだ。昔から焼き菓子の類はあまり好きではない。
「お茶は麦茶しかないけど、はいどーぞ」
大きなグラスにたっぷり注がれた麦茶が、私の前に差し出される。
それ以上グラスがないのか、彼女は茶碗に麦茶を注いで自分の前に置いた。
「あたしさ、友達とクッキー食べるの夢だったんだよね」
一枚つまんで、咲さんが笑う。進められて、私は戸惑う。
「こっち。この四角いやつ。これさ、チーズ味だから甘くないよ」
「べ、べつに甘いのは……へ、へいきだし」
「あたしが、チーズ苦手だから、食べて」
咲さんが私に押し付けてきたのは、かっちりと四角くて分厚いクッキーだ。
恐る恐るかじると、咲さんの言う通り塩味がつよい。歯に当たるとサクサクと心地いい音がする。
噛みしめるとチーズの風味が広がり、クッキーの崩壊とともに口の中に熱がこもる。しかしそれは、雨冷えの体に心地よい熱だった。
「あの……写真」
無言の間に耐えかねて、私は口を開く。
ちょうど目線の先、キッチンの壁に1枚の写真があったのだ。そっくりな二人の少女が写る写真だ。
どこかの遊園地で撮られたのだろう。二人はピンク色のおそろいのTシャツ、おそろいのミニスカート。
背の高さも体型も顔つきも、まるでコピーしたようにそっくりだった。
ただ、一人は金髪のかつらをかぶり、一人は日本人形のような黒くて長い髪。
金髪のかつらをかぶった少女は大きな口を開けて笑い、黒髪の方が少し恥ずかしそうに顔をうつむけている。
金髪のほうが咲さんだな、とふやけたクッキーを飲み込みながらそう思った。
底抜けに幸せそうな家族の写真が眩しくて、私はぎこちなく目線を逸らす。
「あれ、咲さん……?」
「ん。それと双子の妹、可愛いでしょ。でも妹って呼ぶと怒るんだよ。数秒先に生まれただけで偉そうにしないでって。葵は一人っ子? 妹とかいる? 妹っていいよー。まあ喧嘩ばっかりしてたけど」
咲さんはクッキーを唇に挟んで揺らし、それを宙に投げて器用に口でキャッチした。
「って、妹のこと、人に言うのって初めて」
(友達、多そうなくせに)
言いたい言葉をやはり喉の奥に飲み込んで、私はおずおずと咲さんを見上げる。
「……ねえ咲さん。なんで、私にばっかり構うの?」
「んー?」
咲さんは私の質問に、大げさなくらい首をかしげた。
彼女が首を動かすと、金色の髪がキラキラと輝く。
そのせいで、部屋が明るく見える。
(……ああ、だからか)
私はその光だまりみたいな髪の毛を見て、思う。
(暗くても、怖くないのは……)
「桜虫がさー」
二枚目のクッキーを噛み締めながら、咲さんがしみじみとつぶやいた。
「葵になにかあると怒るんだ。あたしに何かあれば、そっちの虫も騒ぐと思う。ほんと、うるさいから。そんとき、助けてくれたらいいよ。それで、おあいこ」
ぶん、と桜虫が飛ぶ……勘違いではない。
この虫はやはり私の気持ちを代弁するように、飛ぶのだ。今もまるで私を鼓舞するように何度も何度も飛び回る。
「それにさ……」
咲さんは机に顎を乗せて、にへらと笑った。
「せっかく二人の虫憑きなんだから、ちょっとでも仲良くしとくほうが楽しいじゃん? そんだけ」
「そ、そう……」
桜虫は私から言葉を引き出すように、何度も顔にぶつかってくる。
そのたび、ピンクの鱗粉が顔の前に散った。まるで花火のように、きらきらと。
……虫がうるさいから、仕方ない。
「さ。咲さん」
私はすっくと立ち上がった。
まるで宣誓をするように、まっすぐ背を立てて。じっと咲さんを見つめて。
「わ……私、貸し借りって嫌いなの」
「うん。それっぽい」
「だから」
ああ、言葉を口にするは、こんなにも難しいのか。ちりちりと痛む喉を押さえ、私は宣言する。
「だから、お礼、絶対、返すから。忘れないで」
「楽しみにしてる」
咲さんといえば、悔しいくらい余裕の表情だ。
やがて窓の外の音が静まり、日差しが緩やかに伸びる。
それは、二人の間にあるクッキー缶を明るく染め上げた。




