サバンナの教室
座学が始まって半月。
その間に2度の台風が来て、観測史上初という大雨が降った。
その雨に押し流されるように蝉は消え、空気が冷たくなり、そして季節はゆっくり秋になっていく。
座学は週に2度3度行われたが、相変わらず虫の核心には触れないままだ。
語られるのは町の歴史に虫送りの歴史。歴代の桜虫憑きのエピソード。
そんな座学にも飽き飽きとしてきたころ、それは起きた。
「水底さんってさ、ちょっと調子乗ってんじゃない?」
10分の休憩時間が始まった途端、名前も覚えていないクラスメイトが私の席の隣に立つ。
私が立ち上がろうとした瞬間、悪意のある動きで妨害される。
その低い声を聞いたとき、私に浮かんだのは「来たな」という一言だった。
想像していたよりも心は凪いでいて、何も感じない。
ただ、背に冷たい汗がつるりと流れた。それを誤魔化すように私はゆっくりと息を吸い込んだ。
腹の奥底で決めた覚悟は、冷たい汗となって背中を伝っていく。
「桜虫に選ばれたからってさ」
私の席の近くに立っているのは、3人の女子だった。少し派手な恰好。短いスカートの、三人組。
クラスメイトはこの騒ぎに気づいているはずなのに、顔を背けている。
誰もかれも息を詰めて、この恐ろしい嵐が早く過ぎ去るように押し黙っているのだ。
そのせいで、教室は恐ろしいほど静まり返っていた。
「……咲にも馴れ馴れしいしさ」
彼女たちは直接私に向かって文句を言うわけではない。少し距離をおいて、まるで三人でおしゃべりする風に文句を言うのだ。
その合間に、刺すような視線でこちらを見つめてくるのも忘れない。
「あっ邪魔だからぶつかっちゃった」
それだけじゃない。わざとらしく私の机にぶつかって、鞄を指先に引っ掛けて落とす。
それを見て、私はため息を飲み込んだ。
三人はニヤニヤと嫌な笑顔で私を見ていた。
その顔を見て、私は関係のないことを思い出す。
(動物番組で見たな……)
海で暮らすシャチは群れで狩りをするという。ただし一発では仕留めない。小さなアザラシをゆっくり追い詰めて、弱らせてから狩りをする。
百獣の王ライオンも、弱ったガゼルに狙いを定めて追いかけていた。
そんな肉食獣の気配を彼女たちはまとっている。
しかし、徹底的な違いがある。
肉食獣は生きるために狩りをするが、彼女たちは暇つぶしに狩りをするのだ。
「そんなこと、ないよ。だって、虫が憑いちゃったから、仕方なく」
できるだけ冷静を装って、私は笑顔を浮かべて答えた。
同時に頭の中でありとあらゆる計算をこなす……ここからうまく逃げ出す算段を。
(なんてことない。これくらい)
かつて二度ほど、私はこんな肉食獣によるくだらない「いじめ」を経験している。
その時の担任は涙を流しながら私に懇願したのだ。
許してあげてほしい、彼女たちのお家は複雑だから。
その言葉を思い出し、私は奥歯を噛みしめる。
きっと、この三人組もさぞ複雑な家庭環境なのだろう。
(……複雑というのなら、私のほうがずっと複雑だ)
家庭の複雑さが免罪符になるのなら、私はとっくに世界征服だってできている。
つまり、こんな程度の低い嫌がらせ、私はとうに慣れているのだ。
「しかたなくー。だって。別にあんたに話しかけてないんですけど」
一人がせせら笑い、合図でもしたように三人が一斉に吹き出す。その声を聞いて、私はぱちりと口を閉じた。
周囲から寄せられる目は、憐憫と好奇心だ。
三名から寄せられる悪意より、皮膚を焼く憐憫の視線のほうがずっと嫌だった。
私に虫を見せてとせがんだあの子も、お昼を一緒に食べよう。と誘ってくれたあの子も。みんなみんな萎れた草のようになって、顔をそらしているのだから。
助けてほしいわけじゃない。私だって逆の立場になれば、きっと息を潜めて顔をそらす。
だから彼女たちを責めることはしない。自分の運の悪さを呪うだけだ。
(こうなるから、目立ちたくなかったのに)
私は爪を掌に立てて、力を込める。皮膚がちりりと痛み、心の痛さが少しだけマシになる。
(だから、嫌だったのに)
転校生というだけで目立つ。それなのに桜虫憑きなどに選ばれて、あげくクラスでも目立つ咲さんとペアを組んだ。
それだけで要素は山盛りだ。ちょっと違うだけでも、だめなのだ。クラスでは工場で生産された物みたいに、ぴっちり横並びじゃないといけないのだ。
羨望の眼差しの間に悪意が混じっていることなど、前々から気がついていた。
悪目立ちは、肉食獣を呼び寄せる餌だ。
気を抜けば、こんなふうに悪意が自らやってくる。
(面倒くさい)
言い返す言葉をぐっとこらえ、私は地面に落ちた鞄に手を伸ばした。
「なによ、転校生のくせに」
好きで転校をしたわけではない。
私は鞄を掴んだまま、もっと強く唇を噛み締める。
(……両親に捨てられたからだよ)
私は心のなかで毒づいた。
私が小学六年生の冬のことだ……両親が海外転勤の書類に判を押したのは。
机に並んだパスポートは両親のものが2つだけ。私のものは存在しない。
それは私の兄の一周忌が終わった日のことだった。
彼らは集まった親戚を前に「転勤先に子どもは連れていかない」と宣言したのだ。
戸惑う私の手を引っ張って別室に連れて行ってくれたのは、叔父夫婦だった。叔父さんは私の頭を撫でたあと「大丈夫」と言って部屋を去った。
困り顔の叔母さんは、私に甘すぎるココアとホットケーキを用意して、ひたすら場違いなケーキの話をし続けた。
そのあと、叔父さんと両親の間でどんな話し合いが持たれたのか、私は知らない。
ただひどく泣き腫らした母が「叔父さんの家でしばらく面倒を見てもらいなさい」と言っただけだ。
しばらくなんて、嘘だ。と、私はその時直感した。
この先、二度とこの二人は戻ってこない。
両親は私を捨てたのだ。
しかし、私は両親にすがりつくことができなかった。
どんどんと片付けられていく荷物を見ていることしかできなかった。
両親が大事にしていた兄の位牌は、母のカバンの一番良いところに収まった。それがひどく悲しかったことだけを覚えている。
そして数日後、両親は荷物と共に去ってしまう。
その時でさえ、私は何も訴えなかった。ただ両親が去ったあと真っ暗な家の中で、私は初めて声をあげて泣いた。
その日以降、私は一度も泣いていない。
両親が去った夜、泣きながらも私は考えたのだ。
(この世の中は、サバンナだ)
悪い大人、悪い子ども、子どもを捨てる親。色んな人間が渦巻く世界はサバンナだ。生きていくには、賢くならなくてはならない。
ちょっとくらい性格が悪くてもいい。賢くならなくては生きていけない。
作られた笑顔と素直さは、私が生き抜くために覚えた仮面である。
(だから、こんな肉食獣、なんともない)
「どうせ桜虫を狙ってこの学校、来たんでしょ。良かったじゃん。お望み通り虫憑きになってさ。あーなんかコネとか使ったの? ありそうだよね。お嬢様っぽいもん、水底さん」
「そーそー。真面目だし、おべんきょ好きそうだし」
「ずるいよね、勝手にきて人の町、荒らしていくのってさ」
私の真意など気づきもしない顔で、三人は好き勝手に言葉を連ねた。しかし、私は無表情のまま感情を押し殺す。
(……別の学校に行くこともできた。そっちのほうが良かったのに)
実際、少し離れた学校を選ぶこともできた。
さらに電車を使えば、もっと進学に強い中学だってこの町にはある。
ここを選んだのは、叔母さんが女子校にこだわったせいだ。
(好きで桜虫が憑いたわけじゃない。気づいたらいたんだもん。ほしけりゃ、あげる、いくらだって)
私が耐えるほどに、桜虫は怒るように飛び回る。相手に向かって威嚇するように激しく動くのだ。
少し黙って。と私は肩の虫をにらみつける。
しかし睨んでも桜虫は止まらない。
まるで私をけしかけるように。私を奮起させるように飛び回るのだ。
戦え、立ち向かえ。負けるな。
虫はそんなふうに私をけしかけている、そんな気がする。
虫には意志があるのかもしれない、と気づいたのは最近のことだ。
私が不快を感じると虫は苛立つように飛び、私が眠そうであれば彼らはおとなしく寄り添ってくる。
しかし私に対して従順なわけではない。こんな風に急かすような真似までする。
「なんで黙ってんの」
「虫がいるからって、ちょっと調子に乗ってんじゃない?」
だまり続ける私に腹をたてたのか、一人が床に落ちた鞄を蹴り上げる。蓋が開き、中の荷物がざっと床に広がった。
その音は、静まり返った教室に残酷なほど響き渡る。
誰かが教室を抜けていくのが見えた。先生を呼びに行ったのかもしれない。それがまた私の心を傷つける。
(……かわいそう。なんて、思ってほしくない)
この瞬間、私は完全に孤立したのだ。
ここはスポットライトのあたる舞台のようなもの。クラスメイトは静まり返り、視界の隅で皆がこちらを注視している。
こんなときに限って、休み時間はなかなか終わらない。
私は息を潜めたまま、身をかがめて床に広がった教科書やノートを拾い集める。が、私の手元を一人の足が塞いだ。
「なに? それ、本?」
その中の一冊。思い切り床に滑っていったのは華やかな表紙の一冊だった。
それを見た瞬間、私の手がこわばる。
床の上、衆目にさらされたのはフルカラーのドレスの本だ……ドレスの写真集。
「えー。なあに? ドレス、だって」
「ドレスの本?」
「バカみたい」
肉食獣たちは獲物の些細な変化に気がつく。
(だめ……感情を、出しちゃだめだ)
私が硬直するのに気づいたのだろう。
これが私に……水底葵とって大切なものだ。と、彼女たちに気づかれてしまった。
(家に置いてくればよかった。なんで持ってきちゃったの……)
彼女たちは面白がってその本を手に取る。高く持ち上げられ……。
「ちょ……」
やめて。と私が叫びかけた、その瞬間。
「ちょっとぉ」
突然、のんきな声が教室に響き渡った。
遠巻きに見つめていたクラスメイトたちが、ますます硬直する。
私を取り囲む肉食獣も、その声を聞いて驚くように動きを止めた。
まるで、もっと大きな肉食獣に見つかった。そんな顔をする。
「何してんの? あたしも混ぜてよ」
誰も近づけなかった私の席に、平然と滑り込んできたのは咲さんだ。私の桜虫が大きく跳ね上がる。咲さんの虫も、怒るようにぐるぐると飛び回っていた。
兄弟か双子なのかも。と、咲さんは言った。そんなことを思い出す。
私の虫たちは、まるでこれまでのことを報告するように激しく飛び回り、空中で何度も交差した。
咲さんの虫は、一瞬で光を真っ赤に染める。
「なぁにしてんの。って、聞いてんの」
咲さんは三人を肩で押しのけた。すると金の髪がさらさらと、まるでカーテンのように私の前に広がる。
それを見た私は今の立場も忘れ、
(……金色のドレスの……ドレープみたいだな)
と、見とれた。
「ねえ、混ぜてよ」
咲さんは堂々と胸を張ったまま、三人を見る。細いくせに上背があるせいで、立っているだけで圧迫感がある。
咲さんが割り込んできたことで、三人が明らかに萎縮した。
咲……と、一人が怯えるようにつぶやくが、それは声になっていない。
「な、なにも……してない」
面白いくらいに小さくなる三人を、咲さんが真っ直ぐな目で見つめる。
咲。なんて気軽に呼んでいたくせに本人を前にすると、彼女たちは一気に口ごもった。
そういえばこの三人が咲さんと話している姿を、私は見たことがない。
三人とも髪の毛を明るい金髪に染めているが、咲さんの色よりずっと小汚かった。
窓から差し込む昼の日差しに、咲さんの見事な金髪が輝く。そしてピンクの虫がそこに色を添えた。
「あれえ?」
咲さんはわざとらしい声をあげて、口を尖らせる。
「それ、あたしのなんだけど」
そしてドレスの本を掴む一人を睨みつけ、咲さんはその本に手を伸ばした。
「え?」
「これさあ。あたしが葵に貸してんの。なに勝手に触ってんの? 汚したら怒るよ?」
本を軽々と奪い取り、咲さんは床に散らばった私の鞄を机にかけなおす。
そして、彼女は一人の肩を静かに掴んだ。
「……だせえこと、すんなよお前ら」
彼女の口から聞いたこともない低い声が漏れ、肉食獣たちは固まることになる。
その時、まるで天からの助け舟のように低くチャイムが鳴り響いた。




